岩手県二戸地方に伝わる昔話
第1話 題名 狐の難産に往診 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
昭和初期の頃である
長瀬橋から堀野の集落までを堀野平と呼んでいた。 この間には1軒の民家も無く 道路両側には土を盛った五尺(1.5メートル)ほどのたかい土手に桑の木が並木に植えられてあった。 それが大木になり、夏の炎天下には道行く人に木陰をつくり、 夜は深い谷間を通るような
もの淋しさを感じるところだった。
この辺りを大河原毛
(おおかわらげ)というが、通称
おからぎ と呼んでいた。 ここには昔からこの一帯を支配していた有名な女狐
(おなごぎつね)の
おから ぎかつこ と、 その娘狐
りんこ が棲みかとしていた。
その頃、医者に往診を頼むなどすることは、並たいていの事ではなかった。病人は病の床に臥し、いよいよ駄目らしいという時になって初めて、医者に診てもらうのだった。
当時、福岡町(岩手県)には光藤さん、藤井さん、国香さん、矢野さんの開業医があった。 このほか長嶺に、金田一村出身の玉懸
(たまがけ)謙治氏が、福岡病院を経営し、医者が常時五名くらい勤務していた。 現在の二戸病院の前身である。
長い冬も過ぎ、街道のぬかるみもようやく乾き、草履道となった頃のことである。ある日の夕暮れ時、矢野医院の扉をしきりに叩いて、「おばんでが
あんす、おばんでが
あんす」と呼んでいた。対応に出た矢野先生が扉を開けると、ほっかぶりをした女が往診を願い出た。『人に物事を頼むのにほっかぶりも取らず礼儀知らずの女だ』と思った。 女は「今、娘が難産で苦しんでいるので、一刻も早く往診してください」といった。 家は堀野平だという。
矢野先生は馬を飼っていて、往診の時は愛馬で駆けつけ往診していた。 馬は昔から狐にだまされないと、言い伝えられていたので、夜でも馬で往診していた。
女の依頼に応じ、厩舎から馬を出して、堀野平に向かおうとすると女が「道が暗いので私が手綱を取って案内します」と言った。 矢野先生は「そうか」と言って、手綱を一本つけた。 女はその手綱を握って、道案内しているのだが、『今日は馬の様子がいつもと違う』と思った。首を振ったり、ときおり「ひひーん」と叫んで落ち着かず、不機嫌である。
まさか、
おから ぎかつこ が馬引きをしているとは知るよしもないことである。
馬は女の引く手綱のまま堀野平まで来ると、民家もない東の山手の方に、薄ぼんやりとした灯りが見えた、と思ったら馬は山手の方に右曲がりさせられた。 そこから200メートルぐらい進むと、そこには立派な邸宅と庭園がある屋敷があった。
まず庭先の木に馬をつなぎ、早速家に入ると、奥のほうに人がいるような騒がしさが聞こえた。女は娘がいる部屋のほうへ案内した。 矢野先生はそれからいろいろの処置と手当てをして、数十分後に無事出産させた。
これが堀野平を棲みかとしている、
おからぎ かつこ の娘
りんこ のお産だったのである。
かつこにとっては人を騙したとはいえ、孫儲けをしたうれしい一夜だったのである。
お産の処置が終わると、早速手洗いの手水鉢にお湯を入れ、真新しいタオルと、石けん代わりの柔らかいサイカチなど、大変な気の配りようだった。
手洗いが終わると、別の部屋に通された。 そこには座布団が敷かれ、かねてから用意してあったのか、据え膳が運ばれてきた。食膳の内容があまりにも豪華なので、びっくりしていると、今度は二の膳が運ばれてきた。 この膳には、札(紙幣)が山と積まれて差し出されたので、再びびっくり・・・・・・『この辺りの何という名前の人だろう・・・』と思った。
さて、ご馳走もそこそこに済ませ、帰りの支度をし、往診鞄に札をぎっしり詰め込み、屋敷を後にした。 帰りの馬は騒ぐこともなく早足だった。
往診室に入って往診鞄を開けた瞬間、なんと鞄の口からひとりでに出てくるほど、ぎっしりと詰まってパラパラと落ちてくるのは木の葉で、取り出しても、取り出しても出てくるのはみな
木の葉 木の葉ばかり、最後に出てきたのは血痕の付着した白衣と、手洗いに使った自分の新しいタオルだけで、医療器具など何一つ入っていなかった。 この時、『狐にやられた』と初めて気がついた。
だまされたことが真実でも、狐といえども人間と同様、苦しいときの神頼みで、医者としての役目を果たした、という気持ちに変わりはなかった。
よく朝早く、昨夜の事が気にかかり、馬をその現場と思われる場所へ走らせたが、東の山手に入る道がない。 よく見ると畑を歩いた形跡があった。
また、奥のほうに一間半(2.7メートル)四方ほどの農家の始末小屋があり、この小屋にはクワやスコップが入っていて、辺りに茶褐色の毛が散乱していた。
この部屋が昨夜の邸宅で、広い庭園は杉の苗木が植えられている苗床だったことが分かった。 畑や苗木をめちゃめちゃに踏み荒らした跡があり、また馬をつないだ桑の木も小屋のそばにあり、小屋の周囲には、聴診器や注射器などの入ったケースなども散らばっていた。
それにしても昨夜の据え膳のあの豪華なご馳走は、いったい何で作られたものだったろうと、考えただけでも吐き気がした。
畑を荒らされた畑主は大損害だったが、事情を話して損害金を払って解決した。
その後、この小屋はしばらくの間、道行く人の間で、狐のお産の小屋として一躍有名になった。
とっとぱれー(これで終わり)
第2話
題名 お盆市日と父様(とどさま) 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
金田一と堀野の境に架かっている長瀬橋は、昭和の始め頃は土橋で、袂(たもと)のあたりは杉林となっていた。 このあたりの地名は大川原毛
(おおかわらげ)で、通称
おからぎ と呼ばれていた。 その杉林の中には堀野平界隈を支配していた女狐
(おなごぎつね) おからぎ かつこ が棲みかとしていた。
旧暦のお盆が来る頃、福岡町のお盆市は大勢の人でにぎわった。 現金収入のない時代、お盆の費用に充てられるのが家族皆で飼っていた蚕で、ちょうどこの頃
繭になって売り渡されるのであった。 また、小麦の収穫が終わりその一部を現金にして買い物をする農家もあった。
お盆市も午後になると、遠くから来た人たちは帰り始めるが、福岡町近在の父様たちは町使いが終わると、待ちかねていたように 必ず煮売家
(食堂)に立ち寄って 煮しめを食べながら、モッキリ(お酒)を一、二杯ひっかけてから帰るのが習慣となっていた。
金田一村の父様も、煮売家で どれだけ呑んだのか 堀野平に来たときは、鼻歌を歌い千鳥足であった。 日も暮れた帰り道、長瀬橋手前の分かれ道まで来ると女の声で、
「父さま、父さまどこへ行く」 と聞かれ、よく見るとそこには手拭いで 姉っこ被りをして 前掛けをした若い女
(おなご)がいた。 父さまは「金田一さぁ 行く道は・・・・・」と言うと、女は「金田一はこっちだ」と言って 矢沢方向の道へ手を取って案内した。
この道の脇に農家のワラ小屋があり、 ここが にわか造りの住居となっていて、その住居の部屋に案内された。 部屋には お銚子が二本置いてあり、父さまが喜んで
その お銚子を飲み干したところで、その女は風呂に入るようすすめた。 父さまはすっかりと いい気分になって、川岸のバラ石を取り 掘ってあった水たまりに浸かり
「いいー湯だなぁー」 と言っている間、 市日で買ったサツマイモや、亀子焼きなどの食べ物を 女狐に奪い取られたのだった。 これが有名な
おからぎ かつこ の役者ぶりであった。
とっとぱれー (これで終わり)
第3話
題名 狐火 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
金田一村の下平にある白山神社裏の鉄道端は、狐火がよく見えるばしょだった。
そこから東方向の馬渕川を隔てた山の谷間にある湯田上野に、毎年七月上旬から八月のお盆のころまで、雨の降らない限り、毎日夜の八時ごろから九時ごろまで狐火が見られた。 友達に誘われて見に行ったのが小学五年の時だった。
最初は古狐がすぐそばにきて、いたずらをしているのだと聞かされ、おそるおそる谷間の狐火をみていたが、とても不思議でならなかった。
誰かが飾りつけでもしているかのように整っていて、横一列に とっくりぐらいの大きさの提灯を、一定間隔に十個から十五個くらい並べたように見える。 人間でさえもできないような大業で、これが狐の仕業かと、びっくりするばかりだった。
狐火は、左の方から一個ずつ順にすばやく点灯され、全部点灯するのに 二〇秒ぐらいかかった。 点灯が終わると、今度は点灯し始めたほうから一個ずつパタパタと消えていき、 四、五分たつとまた点灯を始める。 この状況を幾度も繰り返し、約一時間も見せてくれるから、下平には夏の涼みながら楽しむ人たちがたくさん集まりにぎわっていた。 「狐ぁ偉れぇ、偉れぇ」とほめると灯りの数を増やし並べて見せてくれる、と言うので皆で「狐ぁ偉れぇ、偉れぇ」
とほめたら本当に二十個くらいに増やしてくれた・・が、これが偶然だったようで、そのあといくらほめてもふえなかった。
当時、この下平のほかにも狐火の現れる所は、矢沢と仁左平
(にさたい)の もち坂 でもあったが、昔から出現していた狐火は終戦を境に極度に減り昭和三十年以降はまったく見られなくなった。
とっとぱれー(これで終わり)
第4話
題名 武内神社例祭と女狐
著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
堀野にある武内神社の大祭は、この辺りの各地区の秋祭りの最終の祭りで、旧暦の九月十三日からおこなわれる。 夜は肌寒さを感じる季節だった。
武内神社のお祭りの名物は、なんといっても ついた餅の振る舞いであった。
どこの家でも 「寄って、餅食ってげ」と、見ず知らずの見物人にも声をかけて、餅を振る舞ってくれることだった。
神社境内は月明りの下で、この秋 最後の盆踊りとあってたいへん賑わっていた。
この武内神社の例祭の晩、狐界で事件がおきたのである。
この界隈は、女狐
おからぎ かつこの縄張りである。そのことはすぐそばを棲みかにする三十刈りの女狐と、大平(おでぁら)山を支配する女狐
おでぁら まつこ も承知のことだった。
この女狐達がにぎやかさにさそわれて見物に来ていた。
大勢の人間が楽しそうに踊っているので、
おでぁら まつこ は浮かれてしまい つい人間に化けて、踊りの輪の中に入って踊り始めた。
ところが、どこで見ていたのか
おからぎ かつこ は、人間に化けて踊っている
おでぁら まつこ の姿を見破って、腹をたてた。
おからぎ かつこ も人間に化け、踊りの輪にいき 「なぜおれに断りもなく踊った」 と言って、輪の中から引きずり出そうとしたが、
おでぁら まつこ も さるもの、輪の中から出ようとしないので両狐は取っ組み合いの喧嘩で大騒ぎとなった。
傍らの木陰で、踊りを見物していた三十刈りの女狐が仲裁に入って、ここで争って狐であることが人間にばれたら大変だと思い、山で決着をつけるよう うながしたところ両狐は境内から消えた。
これを機に仲裁に入った狐を、
三十刈 仲子(さんじゅうかり なかこ) と呼ぶようになった。
その数年後、三十刈のあたりは人通りが増え、騒々しくなったので
三十刈 仲子 は
おでぁら まつこ の厚意で、大平山の一部を棲みかとしてもらった。
とっとぱれー(これで終わり)
第5話
題名 馬のお糶(セリ)と煮売屋
著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
二戸地方は、昔から馬とともに暮らしてきた場産地であった。 昭和十三年頃はどこの農家でも農耕馬を飼っていて、農作業には人間とともに働いていた。 また、子馬の生産にも精を出していた。
秋の稲刈りが終わった十月中ごろになると、毎年恒例の二歳馬のお糶(セリ)が、福岡町長嶺の馬検場で二週間ほど開かれた。この間毎日、二戸郡下の二歳馬が、地域ごとに決められた日に集まり
お糶(セリ)で売買されていくのである。
こうして地元の人はもちろんのこと、遠くは関東、関西の方からも馬買い人が集まり、福岡町の馬喰宿(宿と厩が同所にある宿)はどこも満室となり、このお糶が開かれると福岡町は、三社大祭に次ぐほどの賑わいを見せていた。
馬検場の敷地内には、仮設された煮売屋(食堂)が八件ほど軒を並べ繁盛していた。
このころの煮売屋は煮しめ とスルメが主であり、夜も遅くに十一時頃まで営業していた。
また、どこの煮売屋でも、米の飯(めし)は売っていなかったので、それぞれ大きな おにぎり をたくさん持ち、馬の飼い主は家族ぐるみでお糶に参加していた。
お昼になると、糶場は一時間の休憩になる。この時間の煮売屋は押すな押すなの混雑ぶりだった。
馬が糶で売り渡されると、すぐに銭が手に入るので その場で祝杯をあげ、今まで苦労して育てた馬が高値で売れると、うれしくてたまらない人たちの姿が
あちこちの煮売屋で見られた。 久しぶりに飲む酒は格別とばかり、たちまち酔いがまわり勢いづいて
一升瓶を立てて飲んでいる人もいた。
馬を売った銭は、父さまへ酒代をすこし渡して、おおかたは母さまが先に持って帰る、母さまは途中で町内の店に立ち寄り、家族の衣類などなど買い求めてから帰っていくのだった。
馬検場や煮売屋に残っている父さまたちは、まだまだ帰る気配がない。夜になると一般客も混じっている、こうした情景が毎晩 代わる代わる お糶中続けられるのだ。
ある晩の夜 次第に更けてきた頃、どこからともなく若い女がにぎやかな煮売屋へ入ってきて、乳さまたちの傍らに座り「さあ、どうぞ」と おしゃくを始めた。 『誰が、酌婦をたのんだろう』と思ってはいたが、女は皆にお酌をしてくれたので、喜んで仲間に入れ酒を酌み交わし、父さまたちはますます上機嫌になって楽しんでいた。 煮売屋は仮設のため薄暗い、電気の弱い白球がひとつ
ぽっかりと灯されているだけだった。
どこの煮売屋に入っても煮しめが主で、大皿盛りが八銭、モッキリ(一杯の酒)も八銭
スルメの足つき一枚が五銭と わりと高かった。 駄菓子、せんべい、羽二重餅は美味しいが高く、蒸したてのまんじゅうは一個一銭と安くて美味しかったので人気があった。
また、飴などもたくさん売っていた。
煮売屋の店主が、若い女に注文を受けたといって、スルメを一皿持ってきたが、父さまたちも酔っぱらっているので、だれが注文したかなどどうでもよかった。 お酌の若い女にスルメを喰えとすすめると、待っていたかのようにパクパクと食べはじめて、あっという間に一皿(七枚)を食べつくしてその場を立ち去った。 と思ったらその女は別の煮売屋へ姿を現して、同じように父さまたちにお酌をしてくれた。
煮売屋や、この辺りでは見慣れぬきりょうよしの女だったので、客の誰かが長嶺にある遊郭から、わざわざ頼んで来ているものとばかり思っていた。
こうして毎晩同じ時刻になると、どこかの煮売屋へ姿を現して、必ずお酌をした後スルメを頼むので、煮売屋でもずいぶんスルメの好きな女だと思っていた。 客達からも
「この器量よしの女ごぁ、たぶん遊郭の女ごだべぇ」、「誰ぁ、線香料払っているべぇ」と、
この女の噂で持ちきりになった。
この女は、客たちがあまり騒ぎたてるようになったことを察知したのか、次の晩からはどこの煮売屋にも姿を現すことはなかった。
後日わかったことだが、馬検場の裏山界隈を縄張りとしていて、昔から名の知れた、器量よしの女狐
おでぁら まつこ の仕業だったのである。 このことは、当時 長嶺で食料雑貨の店を営んでいた父(とど)さまは、馬検場で煮売屋を開いていたある晩のこと、店終いをして帰ろうとした矢先、若い女がきて、「残っているスルメを全部ください」と言うので六枚残っていたスルメを経木(けいぎ)にくるんで女に渡した。 それを受け取った女は新しい一円紙幣を父さまに渡した。 父さまは残り物なので二十銭もらって八十銭のつり銭を財布から出そうとすると「お釣りは入りません」といって立ち去った。
父さまは「気前のいい女もいるもんだ」と、独り言をいいながら帰ろうとしたとき、思い出したように、「あ、そうだ」と、煮売屋を廻ってお酌した遊郭の女であることに気がついた。 だが女狐の
おでぁら まつこであることには気づかなかった。
父さまは、今日は八十銭も余分に儲かったので、気分を良くして家に帰った。
早速、今日の売り上げを計算していると、財布の中から青々とした木の葉が札に混じって出てきた。 その瞬間、「そうだったのか」と、この時初めて おでぁら
まつこ に騙されたことに気がついたのである。 噂には聞いていたが、たいした女狐である。
とっとぱれー(これで終わり)
第6話
題名 トラックに化けた狐
著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
終戦から四年ほどたって、経済も徐々に落ち着き始めていたが、闇売買はまだ横行していた。 昭和二十四年の年が明けて、寒中で特に厳しい夜のことであった。
その頃、私は金田一村の自宅から、福岡町の長嶺にあった福岡病院に自転車で通勤していた。 この時代、どこの職場でも勤務が終わると麻雀をして楽しんでいるところが多く、病院でも例に漏れず勤務が終わると麻雀が始まるのだった。 それで家に帰る時間がいつも遅くなり、暗い夜道にも慣れてさほど苦にもならなかった。
ある晩 麻雀に打ち込み、気がついたときには十一時を過ぎていた。 防寒用の厚いオーバーを着て、急ぎ病院を出、いつものように自転車で自宅へ向かった。 堀野平の入口あたりで運悪く電燈の電池がきれて無燈火となった。 しかし通い慣れた道なので暗くともなんとかペダルを踏みながら、堀野平のはずれまで来た。 ここから金田一までの道のりは家が一軒も無く淋しい道であった。
道半ば程のところへさしかかると、急に風が出てきて雪も吹きかけてくる。 前に進むにつれ次第に本格的な吹雪になり、こんなに にわかに天候が変わるものかと思ったら、さらに風が強くなり一寸先も見えぬほどの吹雪になった。 前に進もうにも雪が顔にかかり、目を開けられず進めない、大変な大荒れの夜になったものだと立ち止まってはまた歩き出していた。
「こんな時、車でも来ると助かるんだがなぁ」とつぶやきながら、立ち止まり ふと後ろを振り返ってみると、堀野の方から薄ぼんやりとした大きな明かりが見え、間もなく明かりがトラックであることがわかった、私は自転車をその場へころがして、トラックが通り過ぎないうちにと、手を振り上げて待っていた。 間もなくトラックは親切に私の前で止まってくれた。 「ああ、良がった」と安堵し、運転席の方へ近寄り「金田一の方へ行くのだったら乗せてくれませんか」と頼むと、こころよく「どうぞ、乗って」
と言ってくれた。 これで助かった、と思いながら自転車をトラックの荷台に積もうとしたが、何度繰り返しても荷台に積むことが出来ない。 トラックの運転手はただ黙ってそれを見ているだけである。 しかたなく「すみません、ちょっと手伝ってください」
と声をかけたが返事がない、最初から乗せたくなかったのであろうかと思い、あきらめて「私は歩いて行きますので、よがんす」 と運転手に言うと、「そうか」
と言って 金田一方面に走り去った。
私はあまりにも疲れたので、その場の雪の上に座り、タバコを出して一服しているうちに、少しずつ吹雪がおさまってきたようだ。 あたりを見渡すと何だか様子が変だった。 この辺りは堀野平の中間ぐらいの場所で 道路わきの左側土手の一番高いところに自転車が持ち上げられていた。 その傍らに私が座っていたのである。 その時初めて「やられた!」
狐に騙されたのに気がついた。
もし、あのままトラックに乗せてもらっていたら、どうなっていただろうか と考えたら身震いがしてきた。 再びタバコに火をつけ、しばらくその場で心を落ち着かせていたが、その間
人っ子一人も、車の一台も通らなかった。
この界隈は、昔から
おからぎ かつこ という有名な女狐の縄張りであることを思い出していた。 悪天候も治まってきたので、だまされた場所をあとに ふたたび家路に向かった。
翌朝、病院に出勤の際 昨夜の現場を見たが、雪の上に座った跡などがしっかりと残っていた。 聞いたところ、雪は降ったが風はなかったとのこと、昨夜の吹雪は女狐の演出で、
おからぎ かつこ の役者ぶりを見せつけられたのである。
それ以来、長瀬橋の袂の杉林まで来ると ここが
おからぎ かつこ の棲みかと思うせいか、いつも不気味さを感じながら家に帰った。
とっとぱれー(終わり)
第7話
題名 いしあい なべこ 女狐の半生 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
上米沢と石切所の境に縄張りをもつ、有名な女狐の いしあい なべこ がいた。
上米沢の人たちは、この女狐が石切所と出合う日金付近を縄張りとしていたので、
石と
合を組み合わせて
石合(いしあい)とし、名は旧道だった日金の道路が一段と低く、鍋底のようになっていたので、その形から
なべこ と呼ぶようになったという。
棲みかは、米沢の外山道の南側にある山であったが、世の中が開けていくにつれ、狐たちに身の危険が迫っていて、昭和の始めに石切所の朝日山後方に棲みかを変えたという。 その根拠は今まで外山道の左手、山の中腹から見えていた狐火が、移動したのか朝日山の中腹に見えるようになったからだという。 そして、もとの山からはその後一度も狐火を見ることはなかった。
それから後、初夏の頃になると、朝日山の中腹から毎晩のように発した狐火を、
朝日 あかこ と名付けて呼んでいたのが、馬渕川の対岸にある町の人たちだった。 でもそれが、以前 上米沢の山に棲んでいた、
いしあい なべこ であったのかは知る由もないことであった。
昔、石切所は米沢を本拠地としていた、佐々木 数馬秀綱の領内であったので、上米沢の山も朝日山の後方も、この女狐たちの一族が代々見守っていたのだ。
石切所の朝日山後方に棲みかを変えたという
いしあい なべこ は、石切所の西方、昔 牧場のあった千匹平の奥地を安住の地と定め、ここで子孫繁栄が営まれてきた。こうしたことは、
いしあい なべこ に限ったことではなかった。
山の奥地に追われて数ヵ月後、
いしあい なべこ に数匹の子狐が生まれた。 いまだ慣れぬ地での餌探しは、大変な難儀をさせられることとなった。 そこで遠い道のりでも、元の棲みかである上米沢の民家まで、深夜だけ密かに餌を探しに山から降りて来ていたが、これも子育てには不十分であった。
人間でさえ凶作続きで、食糧不足と不況で苦しい生活をしていた時代、山でも里でも食料が尽き果てていた。 そこで いしあい なべこ は危険を冒して、民家の流しなどを物色するようになり、奥山と外山までも足をのばして歩き回り、なんとか餌飢饉から脱することが出来た。
その数ヵ月後、子狐たちもだいぶ成長し、
いしあい なべこ の餌探しについていくようになったある夜の出来事である。 山から降りて来た子狐たちは、日金にでようと我先に線路を横切ろうと飛び出した瞬間。 「
ゴー 」という音とともに、下りの蒸気機関車にあっという間にひかれて、子狐たちは皆死んでしまったのだ。
いしあい なべこ の嘆きはいかばかりであったろうか、あれだけ苦労を重ね、愛情をもって育ててきたのに・・・・・。 だが、誰にも打ち明けることのできない
なべこ の悲しい運命は、狐たちの会話でしかなかったのである。
その数日後、鉄道沿いを歩いている狐の姿を見て、子狐の死骸を片付けた線路班の工夫たちが、母親狐であろうと直感した。 工夫たちの見る目がそうさせたのか、それは淋しそうな狐の姿だったという。
その後、
いしあい なべこ はいつの間にか、日金から姿を消してしまった。
線路工夫たちも、「何処へ行ったのかなぁ」と 心配していた。 ところが数ヵ月後、もとの棲みかだった上米沢の山で
いしあい なべこ の姿を「俺は見だ」 「そうだ俺も見だ」という人が出てきた。
日金で、あれ程の災難にあった
いしあい なべこ の姿は、すっかり疲れきっていて元気もない様子だったという。 「よがった、よがった、帰ってきてよがった」と心の中で思った。
それからの
いしあい なべこ は、新たな餌場を川向いの長嶺と田町の水晶橋の下を一時的な隠れ場所として、そこから長嶺界隈に数件ほどある、料理屋の流し場近くまで行って、代わる代わるの店の料理の切れ端の残飯をあさっていた。
今までの餌と違い、人間さまでしか喰えないような珍しいものばかりで、
なべこにとっては高級な残飯であった。
ところが、この辺は昔から名が知れた、
おでぁら まつこ女狐の縄張りだったのである。 ただ、
おでぁら まつこ は長嶺でも主に、馬検場寄りの方を支配をしていたので、
いしあい なべこ は比較的安全な、田町寄りの料理屋だけを注意深く、決して
おでぁら まつこ とかち合わないよう毎晩のように、餌に不自由のない月日を送っていた。
ただひとつ気にかかる事は、馬渕川を渡し舟で渡る時に、船場の父(とど)さまに、「おめぁ、どごの娘っこでぁ」と必ず聞かれることだった。
毎晩最終の渡し舟に乗って町へ出掛けて行き、翌朝一番の船で帰ってきていた。 いつか、女に化けているのが、ばれるかもしれないという不安があった。
とっとぱれー(おわり)
第8話
題名
狐の嫁入り 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
昔から、金田一村の
トトメキ(上平地域一帯)を支配していた、女狐
ととめき とらこ と、下米沢の十文字川流域を縄張りとしている、
ながせ なわこ は仲のよいことで評判だった。
ととめき とらこ が 十文字橋を渡って
ながせ なわこ の縄張りである下米沢に入ったり、
ながせ なわこ が
ととめき とらこ の縄張りの トトメキに入っても、決して喧嘩などしなかった。
それもそのはず、
ながせ なわこ の娘が、
ととめき とらこ の息子に嫁入りしているいわば親戚関係にあった。 この夫婦狐は上平の郷山の山を支配する主となった。
昭和十年ごろ、旧暦の五月、田植えの季節の出来事だった。
この年の田植えは、来る日も来る日も日照り続きで、水田に思うように水がたまらず、争いまで起きていた。
雨乞いをしてもまかなか降ってくれず、所によっては田植えが出来ず、あきらめた家もあった。 こうして一ヶ月も日照りが続いたある日の午後のことである。
上平の南西にある
なめくも山と、通称
米沢山の谷間上空がにわかに曇り、大粒の雨がほんの数分間、水たまりが出来るほど降った。 手伝いの人たちは、皆恵みの雨に声を出して喜んだ。 しかしその後の上空は、太陽が知らんふりして、『雨は俺のせいじゃないよ』
と、いわんばかりにカンカンと照りつけていた。
このとき、下平のお仮屋そばから、手伝いに来ていた爺さまが「この雨ぁ〜狐の嫁入りだぁ」といった。 あの山から見て
なわこ狐家の息子に、
とらこ狐家の娘が嫁にいったのだという。 皆が笑いながら爺さまに、「そっただごどぁ、なにしてわかるべぇ」 というと、爺さまは米沢山の方から雨が降ったからだといった。
雨の多く降った山手の川が狐の嫁とりで、雨の少なく降った
なめくも山の方が狐の嫁やりだという。 「この雨ぁ〜、あがって虹が立てば結ばれたことになるども、もし虹が立だねば破駄(だめ)になる」 という。
まもなく東方向の矢沢田面(やさわたもて)辺りに大きな虹が立った。 七色の虹は、両狐の結婚を祝福するかのように特にきれいであった。
この時、田植えの手伝いに来ていた皆は、狐の嫁入りを爺さまのおかげで初めて見たと感動していた。
爺さまは、この同じ山の先々代の嫁入りのことや、あだ名を持たない狐の嫁入りも一年に三、四回ぐらいあることも、そして名もない狐たちの系統までもよく知っていた。
まず、湯田上野にある山谷の女狐が、矢沢の舘原近辺に嫁入りしていること。
上平地区の郷山に棲んでいた狐の子が、沢田の日向道にある沼の辺りに分家したことなど、各地域の狐の嫁入りの状況なども知っていた。
ある狐の嫁入りには、雨が上がっても虹が立たず結ばれなかったが、両狐は条件の整う機会が来るまで待つのだという。 こういう狐の嫁入りの行事についても詳しく、その時の状況なども語っていた。
この爺さまは狐の嫁入りのほか、いろいろな話を知っている村でも有名な爺さまだった。
とっとぱれー(おわり)
第9話
題名 狐つき 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
子供の頃から狐つきという言葉は、親父たちの言葉を聴いて知っていたが、あんなに大きい狐がどうして人間の体につくのかと常々思っていた。
福岡町長嶺にある福岡病院に勤務していた、昭和十四年初秋のことである。 狐つきだという入院患者さんと接したことがあった。
この病院の棟続きの北側の方に隔離病棟があった。 この病棟は福岡町、石切所村、仁左平村、斗米村、金田一村で建設した、設備の整った病棟で、法定伝染病にかかると、強制的にこの病院に入院させられた。
伝染病の蔓延をいち早く防止するためで、医療費は患者の出た町村役場だ負担していた。 この病棟に金田一村から二十四・五の女の患者さんが入院した。
「どうしましたか?」 と声をかけたら、家族の人が 「恥ずかしいことで・・・・・」 と何も話さなかった。 後日、この病棟の周りの掃除に行くと、患者さんの親父が「娘に狐がついているそうだ」
という。 私はびっくりして、「どうしてそれがわかったのですか」 と聞くと、まじなってもらったら、位の高い狐だといった。
病室には係り以外の者の出入りが禁じられているが、私は仕事柄入室が出来るので、患者をちょっと見舞ってみると、すぐに布団をかぶり顔を隠してしまったが、娘の目が狐目そっくりに見えたのも、この話を聞いていたからかもしれない。
この娘は法定伝染病で入院しているのだが、病名は患者本人には告げていない。 親父は、迷信を堅く信じていて、人の話などは聞き入れようとしない、まじない人なるものの言葉だけを、信じきっていたのである。
病院では色々な検査をした結果、伝染病であることが判明したので入院させたのだと話したが、親父は信用しなかった。
そしてある時、医者の回診が終わった後、病棟の廊下でこん炉に炭を熾し、魚を焼く網を敷き、青い杉の葉と青ネギに山椒の葉を混ぜて山盛りにし、こん炉の口元を大きな団扇であおり、病人の寝ている病室のベットの方へ、もうもうとした黒煙を送っていた。
病人はその苦しさで泣き叫び、咳がゴホンゴノンと止めども無く出ていた。 こうして、患者の体の中から狐を追い出すのだという。 私はそれを見かけ、直ちに看護婦を呼び注意をさせると、その親父は、「今、狐が逃げるところだ」
と病人の寝ているベットの傍らから持ってきた四・五本ばかりの毛を「これが狐の毛だ」 と見せ、「ほら、狐が逃げた」 と狂気になって追い出している仕草をして見せる。 看護婦たちは、「病気からきている高熱のために病人がうわごとをしゃべっているので、狐つきのせいじゃない」
と説明するが、親父はまったく聞き入れなかった。
それからはゆぶしの行動はしなくなったが、狐がついているという、思い込みには変わりはなかった。
医者たちの看護や手当ての甲斐あって数十日後、患者は日増しに開放に向かい、全治退院するまでに至った。
患者の退院時には、寝具などを大きい消毒釜に入れて、完全消毒して家に持ち帰ってもらうのである。
病気の治った娘は、「御世話になり有難うございました」 とお礼をいい、元気な体になって病院を後にした。 この時も親父は狐はまじないによって落ち、去っていったと信じていた。
ちなみにその当時の人たちの説によると、狐つきの狐というものは、手のひらにのる程度の小動物が、人間の着物の間や布団の中などに出入りしているのだと聞かされ、 子ども心に恐ろしいものだと思っていた。 そして、寒くなると、炉端の辺りに隠れているので、一日も早くまじない人の処へ行き、呪文を唱えてもらい、狐を体から落としてもらうのだが、それが一度や二度だけではなかなか落ちないという。まして位の高い狐になると三ヶ月、長いときは半年も通い続けることもあり、そのために大変な金額を費やした話などもあった。
戦後の混乱期に狐つきが流行した時があって、数人の狐つきだという病人と会ったことがある。 この人たちの話を統合してみると、病気というよりも、その頃で言う神経病みではなかったかと思う。
どこが痛いとか苦しいとかがなく、夜寝られないで、狐がついおた夢ばかり見て怖いという。 翌日になって働く気力がなくなり、日中もぼんやりとした日々を送っている病人が多かった。 病人たちは、俺にも狐つきがついたかもしれないなどというのは、不安な経済情勢と、時折訪れる凶作も絡み合ってのことだったかもしれない。
まじまい師なるものに狐をつけられたと、暴言を吐く者さえあった。 その頃、金田一地区の畑で色白の小動物がのろのろとあるいていた。 何だろうと近くにいた老婆に聞くと、「今俺も見てきたが、あれは狐つきから落とされた、エジナであるから触るな」
といわれた。 エジナは体長四センチ位のネズミに似た形だった。
この「エジナ」と「狐つき」とは、どう結びつくのかわからない。
とっとぱれー(おわり)
第10話
題名 饅頭を取られた母親 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
昭和十四年中秋の頃
金田一村秋葉地区に住む、小学五年の女の子が、福岡町長嶺にあった私立病院の外科病棟に入院していた。
この病院は、金田一村出身の玉懸謙治氏が、東北大学医学部を終えて創設し、院長となった病院で、現在の県立二戸病院の前身である。 このころの病院は、病室前の廊下に木箱を置き、そこに焜炉を上げ 脇に炭俵を並べて、めいめいの炭火で自炊しながら
患者とともに療養生活をしていた。
この女の子に若い母親が付き添っていた。 経過も順調で、日一日と回復し、日中は手放せるほどまでになっていた。 母親は、朝食を食べさせると、娘を看護婦さんにお願いして、日中は家へ帰って農作業をしていた。 そして夕方には病院に戻り、夕食の支度ををして娘に食べさせ、次に洗濯と、体の休まる暇もない毎日だった。 その甲斐あって、近日中に退院できるまでになった。 母親は、夕方病院に戻るときに、いつも何か珍しい食べ物を作って持ってきて娘を喜ばせるのだった。
ある日の夕方、農作業を早めに切り上げて、自家製の饅頭に餡(あん)をいっぱい入れてつくり、同じ病室の方やお世話になっている看護婦さんたちに少しずつ分けてあげようと、大きな風呂敷にしっかりとくるんで背負い、病院へと向かった。
歩く足は自分では早いと思っても秋の日は短く、五十分程で病室に入るのだが、いつも日が暮れて薄暗くなるのだった。
金田一と、堀野の境にかかる長瀬橋を渡りきるときは、橋のたもとにある杉林が
おからぎ かつこ女狐の棲みかであることを思い出し、慣れた道でも身震いがした。
やがて橋を渡りきると、どこからともなく人の騒ぎ声が聞こえてくる。 まだ暗くなったばかりなので それほど恐怖を感じなかったが、小走りで先を急ぐと、ちょうど仁左平へ行く分かれ道の路上で火を燃やし
ムシロが二、三枚敷いてあった。
そこに若者らしい四、五人が座ってにぎやかに酒盛りをしてはしゃいでいた。「あっ、先ほどの騒ぎはこれだったのか」と、一安心してその場を走り去ろうとすると、「母(かが)さま、ちょっと寄っていげ」と声をかけられた。 相手の顔は燃えている炎の灯りでよく見えないが、男女が混じっているようだった。
早く病院に行かなければと思いながらも、せっかく親切に声をかけてくれた好意を無駄にするわけにもいかず、ムシロにちょこんと座って訳のわからないような雑談を聞いていた。 そのうちに辺りはすっかり暗くなり母親は娘が待っているので気が気でなく、その場を立とうとすると、「今、武内さんの別当さまから頂いてきたものだ、遠慮しないで食え飲め」と進められたが「病院で子どもが待っているがら」と断って、ようやくその場を立ち去った。
駆け足で病院に急ぎ、やっとのことで病室に入ったころ娘は、「今日は一時間も遅い」と不機嫌だった。 饅頭で喜ばせようと背負っていた風呂敷を下ろそうとすると、ちぎれた饅頭がぽろぽろと落ちてきた。 まともな物が一つもなく、せっかく娘へと背負ってきた風呂敷を悔しさのあまり再び見て、ただ呆然とするばかりであった。
あの道端の酒盛りは 狐だったのかと思った瞬間、背筋が寒くなり急にぶるぶる震えて、恐怖を感じるのであった。 娘には、明日は早く饅頭を作って来るからとなだめて、遅い夕食を済ませて床についた。
翌朝、家に帰る途中昨夜の現場を見ると、まだ饅頭のかけらが散乱してあった。
昨夜の事を思い出しながら、狐達も偉いもんだと感心しながら家路に向かった。
とっとぱれー(おわり)
第11話
題名 汽車と狐の衝突 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
東北本線が開通したのは、明治二十四年(1891年)である。 このとき北福岡駅(現在の二戸駅)は設置されたが、金田一駅はそれから十八年後の明治四十三年にようやく設置された。
石炭を焚いて走っていた蒸気機関車は、速度が時速三十〜四十キロぐらいで、急勾配の場所だと十キロぐらいだった。
そのため金田一から東京に就職する若者たちは、上野まで二十時間あまりもかかるので、三食分のおにぎりを持っていった。
大正の初め頃、金田一を巻き込んだ鉄道を舞台にした大事件が起きた。 ある日の夕暮れ時金田一を発車した下りの汽車が岩館山を通過中に、線路をうろついていた一匹の狐の姿を見かけるや否や、機関士三人の内の一人が、いきなり傍らにあったこぶし大の石炭を投げつけた。その後もその機関士は狐を見つけると、好奇心も手伝ってか、石炭を投げてからかっていた。
この狐は、岩館山の岩穴を棲みかに権現、水梨、小野 界隈を縄張りとしている
いわだて いわこ だった。
いわこ には
きんこ という娘がいた。 たびたび石炭を投げつけられていた
いわだて いわこ は、このまま黙っているわけにはいかない。 そこで友達の
ととめき とらこ と、
まがちゃか まんこ に、機関士への仕返しの手伝いを頼んだのである。
この狐たちがこぞって機関士に仇討ちをする、という実に芝居もどきの演技をするのである。
当時の線路は単線で、上り線下り線ともにタブレット(通行票)を機関士が駅長から受け取って次の駅に届けない内は、上下線とも絶対に発車することが出来ない仕組みになっていて、汽車の衝突などありえなかった。
ある初秋の月明りの晩、金田一駅を発車した下りの汽車が、岩館山の下に差しかかった時、突然照明を照らし、轟々(ごうごう)と勢いよく進行してきた上りの汽車があった。 機関士はあわててブレーキをかけたが、あっという間に衝突したと思いきや、一歩手前で止まった。 胸をなで下ろした機関士たちは直ぐに降りて辺りを見回したが、汽車の影も形もなく、辺りは静かに月の明かりだけが、こうこうと輝いているだけだった。
機関士たちは、口々に不思議なこともあるものだと、話しながら青森方面に向かって走っていた。 ところが、上りに向かって進行してきたき汽車は、大胆不敵にも女狐たちが化けた蒸気機関車だったのである。
この話が金田一の駅員たちから村人の耳に入り、女狐の役者ぶりを様々に騒ぎ立てた。
それから数日後の夜も更けた、月明りも下弦で薄明かりの晩に、再び事件は起きた。 今度は舞台を十文字川の鉄橋に移し、金田一駅を発車した上りの汽車が速度を増しながら進行し、上田面の踏切を過ぎると、鉄橋付近で下りに向かって進行してくる汽車のライトを発見した。
距離が大分あったので、徐々にブレーキを掛けながら進行したが、下りの汽車は進行してくる気配が無く、三十間(50メートル)くらいまで接近したが、ライトを照らしたまま停止していたのである。
そこで機関士たちは汽車を降りて、下りの汽車の方に歩き出そうとしたら、先ほどの汽車のライトの明かりはなく、物陰らしいものもまく、ただ薄明かりの中で線路の鉄光が見えるだけだった。
この前のことといい、今夜のことといい、今度はだまされるものかと、急ぎ北福岡駅に向かって発車していった。 今度の事件も、またまた駅員の話題となり、村人にも話は広まった。その後、この対策として国鉄盛岡では、機関士たちを集めて次のように訓示をした。 今後、金田一路線区域を走行中、決して汽車の衝突などありえないので、いつでもどこの場所にもかかわらづ衝突しろとの事だった。 それで機関士たちは勢いづいて、今度は騙されるものかと自信を持っていたが、以前に石炭を投げていたずらをしていた機関士だけは、後ろめたさがあるため、落ち着きがない日々を送っていた。
その後しばらくの間、何事も無かったのでほっとしていた矢先、再びあの機関士の乗車した汽車が狙われたのである。 狐たちはどうして秋の夜空に映える月明りの晩を選ぶのか、また例の機関士が乗車していることを、いかにして知りえるのか不思議なことばかりだった。
今度もまた雲ひとつない月夜であった。
今夜の舞台は、金田一駅を発車した下りの汽車が、岩館山の下にさしかかった時、煙突から吹き上げる黒煙の音がものすごく 「ジャジャボボ・・ジャジャボボ」と、ライトも輝きを増して、上りの汽車が進行してきた。
機関士たちが圧倒されんばかりの勢いだったが、かねてより覚悟ができていたので、ブレーキをかけることなく勢いよく衝突を決行し、あっという間に正面衝突した。
その瞬間は、まったくショックを感じなかったが、機関士たちは現場を確認するため線路を調べてみると、汽車にひかれた狐の後ろ足が一本線路わきに落ちていた。
これが、事件の主役である
いわだて いわこ の後ろ足であることが後日判明した。
金田一駅の駅員や機関士たちは、これで事件は一件落着と、思ったのもつかの間、母親狐の足をひかれた悔しさのあまり、娘狐の
きんこ は数日後、夜になるとあの機関士の家に通って、寝静まった頃を見計らい茅ぶき屋根を
ガサガサと茅を引き抜くような音をたてて悩ませた。
機関士は毎晩のいたずらにたまりかねて、巫女(いたこ)に拝んでもらったら、狐にいたずらした祟り(たたり)と言われて、以前のことを反省し、言われたとおり一週間の間、岩館山の下を通るときは魚類を手向けて態度を改めた。
それ以後このような事件は無くなった。 そして岩館山を通る人達は、三本足で歩いている
いわこ の姿を時々見かけた。
これで女狐の活躍した大芝居の幕は降ろされ、その後この女狐たちの役者ぶりが大評判となり、日増しに人気が高まった。
ととぱれー(おわり)
第12話
題名 かが様と女狐 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
昭和六年、斗米村下米沢の地主様は、金田一村内にもたくさんの畑を所有し、この畑を金田一の小作人たち数軒で耕作していた。
主に小麦やヒエ、大豆その他を作付けし、秋の収穫時になると、地主様の
かが様が通称トトメキの近道を通り、金田一上平を経て朝早く私の家まで歩いてきた。
かが様はいつもお歯黒をし、着物姿で見るからに風格のある立派なお方で、五十歳くらいだろうか。 私の家は小作で仲間の世話をしていたので、朝早くから仕事の段取りを話し、段取りが決まると畑を廻って歩き収穫の検分をした。
お昼になると私の家に戻ってきて食事をするのだが、そのときの最高のもてなしは、米だけのご飯に豆腐汁またはそうめんか、ひっつみだった。
小学生の私も一緒に食べることが出来るので、いつもお客様が来るといいなぁと思ったものだった。 食事が済むと再び畑を廻って歩き、分作の数を確認した。 分作の割合は地主が六で、小作が四と決まっていて、地主の分はその日のうちに馬の背で届けられた。
秋の日は短く、かが様が検分を終えて上平を通る頃には、すっかり暗くなるが、慣れたいつもの道なので恐怖を感じることもなく、トトメキまで来た。
かが様は帰るとき必ず煮干を五・六匹袖の袂に入れて持っていくので、不思議でならなかったが、後で父親から聞いてびっくりしたことだが、トトメキの追分石を左に坂を下りて、十文字川にかかっている土手を渡ると、
ととめき とらこ が かが様の帰りを待っていて、煮干をもらって夜道の道案内していたのだ。
トトメキは山手の方から清涼な水の「トット、トット」と湧き出る音が絶え間なく聞こえてくる場所だ。 この橋を境にして、南側が下米沢集落で、
ながせ なわこ の縄張りであるが
ととめき とらこ が、かが様の道案内して下米沢に入っても、争いも無く
ながせ なわこ は黙認していたのだ。
ながせ なわこ は、下米沢はもちろんのこと、西方に十文字や深持(ふかもち)集落の南西に沢内、その奥の米沢外山を縄張りとし棲みかは、昔の舘主 佐々木数馬秀綱の舘の後方だった。 この先は、三丁ほど(325メートル)の小道で右手は急傾斜の小山となっていたすぐ上を鉄道が通っている。
小山には、杉の木や雑木が茂っていて、狭い小道に覆いかぶさるような、昼なお暗く、夜などは歩き慣れた人でないと、通行困難で淋しい場所であった。
煮干をもらった
ととめき とらこ は前方一丁(約100メートル)ほどのところへ火を燃やして明るくし、小道を歩きやすくしていた。 火の燃えている傍らへ近づくと、火は一丁ほど先へ移り燃えさかり、繰り返し、三丁ほどの暗い小道も火の明かりでなんなく通り抜けて鉄道際の平坦な畑のある場所へ出た。 ここまで来ると一人でも家へ行けるのだが、いつも
ととめき とらこ は、かが様を家まで届けるのである。
家に着いたかが様は
ととめき とらこ の大好物のてんぷらを、「それっ!駄賃だよ」といって与えていた。
こうして一年に数回、同様のことが かが様と
ととめき とらこ の間で繰り返されたのである。 この
ととめき とらこ は大正の始め頃、
いわだて いわこ を支援して、汽車の化け、本物の汽車と衝突したときの
ととめき とらこ なのか、代替わりした
ととめき とらこ なのかは分からないが、
ととめき とらこ の名は絶えることなく、今日まで語り継がれている。
とっとぱれー(おわり)
第13話 著者 久保田 常治 故人
編集 よりゃんせ金田一
題名 目時ナ爺様と狐 前編
金田一村の秋葉地区に、江戸時代より続いている本田家がある。 昔、馬の背に荷物を載せ、町から村へ、村から町へ、遠くは鹿角方面まで荷物を運んだという、馬継ぎの中継所を営んでいたので、この家の屋号は今でも「駅送」とよばれている。
この家に昭和の初め頃、県境の目時から来ていた爺様が住んでいた。 親戚だったかどうかは分からないが、だいぶ年老いた爺様と思っていたが、五十歳前後だったようである。 爺様の本名は知らないが、皆が
目時ナと呼んでいた。その
ナの意味は不明である。
当時の本田家の当主は、何代目か分からないが、安造さんといって 飴や駄菓子など他に煎餅も焼いて売っていた。 また、安造さんは当時 金田一村の区長の役もやっていた。 この家で
目時ナ爺様は魚の行商をしていた。 夏には塩叺
(しおかます)に、塩鱒
(しおます)、乾鱈
(いぬいたら)、乾物類などを背負って各集落を売り歩くのだった。
一軒一軒に声をかけての商売は大変だったろう。 冬になると木箱に生魚を入れて背負い、雪のある時などは、そりも利用していた。 行商先は大体決まっていて、小野を振り出しに野々上に向かっていた。
お得意様に立ち寄りながら次から次と売り歩き、時によってはこの先の長久保までも足を延ばすことさえあった。 そうして帰りはまた野々上に戻って、分教場の下の畦道を通り、幾度か曲がった急坂を登ってようやく外山へ入ってくる。この地区を一巡して、菖蒲沢を最後に変えるのが毎日の道順であった。
初夏のある日、菖蒲沢へ着いた時は辺りは薄暗く、足元がようやく見えるくらいだった。 集落のはずれの集落にある墓地を横目に見ながら、岩館山の頂上まで来ると、もうすっかり暗闇となり、立ち木の中の坂道を登りはじめる。 ここは昔から名に聞こえし,
いわだて いわこ女狐と、娘の
きんこの棲みかであることは知っていたが・・・・・
だからといって恐怖を感じる
目時ナではなかった。 やがて中程まで降りてくると、道の真ん中に高い山から崩れ落ちたと思われる、大きな岩がある。 ここから頂上を振り返ると、今にも崩れ落ちそうな大岩が、幾つも重なりあって、その岩の形が巨大恐竜にも見えるところまで来ると、目時ナの背負っている叺
(かます)を、誰かが引っ張っているようである。
目時ナはひと気がないのに叺の中の魚を取ろうなどとは、狐のいたずらであろうと感じた。 そこで、その場の石にどっかりと座って、煙管
(きせる)を抜いて煙草に火をつけ一服する。 『狐は火を恐れる』と昔から言い伝えがある。 それから心を落ち着けて再び坂を降りはじめると、また背負っていた叺に、何度もいたずらをするのだが、なんとかして暗い道を降りて来ると、道は曲がりくねった掘割となり、ますます歩きにくくなる。
あたりの雑木林は折かぶさるように茂っていて、歩くたびに小枝がパシパシ顔を叩く。狐が叺を引っ張るので、
目時ナはたまりかねてマッチをすって火を見せると、どこかへ去っていくが、またいたずらをする。
なんとかして坂を降りて来ると、途中で江戸時代に病気で死んだ馬を埋めた、という場所にさしかかり(今でも馬頭観音の石堂が建てられ供養された面影が偲ばれる)ここを通ると道はますます狭くなるが、目時ナは大変難儀をして、ようやく鉄道際の広い道に出た時にはほっとした
が・・・・・
叺
(かます)を降ろして見ると、叺は無惨にも使用できぬほど破れ、売れ残りの魚もちぎれていた。 それ以来
目時ナは、夕方早めに岩館山を降りることにした。
昔から、この道は徒歩で近道をして菖蒲沢、外山、野々上方面の人たちが多く利用し主要道であった。 目時ナはこうして毎日、早めに帰宅していたがある日、どうしても都合があって帰宅が遅くなり、岩館山にさしかかった時は暗闇だったが、仕方なく坂を降り、例の大岩の転げ落ちた場所まで来ると、目時ナは何を思ったかその場へどんと座り、背負っていた叺をおろし縄をとき始めた。
中から一匹の魚を取り出し自分の前に置いた・・・・・。 どこからともなく出てきた狐が危害を加えないと見たのか、だんだん
目時ナのそばへ近寄ってきてその魚をくわえて立ち去った。
目時ナは心の中で『あぁ〜、えがったえがった』と喜んだ。 なにか善いことでもしたかのように、せいせいした心地だったのである。 しばらくして再び曲がりくねった暗い坂道を、降り始めようとすると、いきなり誰かが前に立って歩いている気配がした。
『さて、誰も居るはずが無いのにおかしいぞ』と思って暗闇の中よく見ると、ほっかぶりをした小柄の若い女が、ぶらり提灯を下げて、一緒におりようとばかりに、前に立って歩き出した。
「おばんでがんす」とその女に声をかけたが、返事が低くて聞き取れなかった。
今まで真っ暗闇で一寸先が見えなかったのに、提灯の明かりで掘割の坂道も歩きやすく、あっという間に平坦な鉄道際の道路に出た。あまりの早さに、狐に騙されたのでは、と疑ってみる程だった。
あれ程難儀した坂道も、今日は提灯の明かりで大助かりだった。目時ナは今の仕業は、魚をもらった狐がお礼のために明かりを灯して道案内をしてくれたのだと、感謝の気持ちを忘れなかった。
その後も
目時ナ爺様は、行商の帰りに必ず一匹の魚を残してきて、例の大岩のある所で狐に与えていた。 狐の方も
目時ナの帰りを大岩の所でじっと待って魚をもらうのだった。 こうしてお互いに助け合いながら、長い歳月を不安なく狐のぶらり提灯のお陰で、
目時ナは岩館山の夜道を毎晩案内してもらい、何事も無く行商を続けられた。
人間と狐であっても情が通えば人間と同様に、深い絆で結ばれるのであろうか。 この狐こそが、むかし名の知られた
いわだて いわこ の娘
きんこ だったのである。
目時ナは時折、むかし三匹の狐達が蒸気機関車と衝突した際に、とも足を裂かれた
いわだて いわこ が、三本足で歩いていた姿を見かけることがあったのだが、老いたせいか だいぶやつれて、褐色の毛並みも今は、白っぽくぼさぼさになっていた。
その後、岩館山のきんこの跡継ぎの狐が山を守ってくれているのである。
とっとぱれー(おわり)
第14話 曲坂(まがちゃが)の女狐
昭和十年頃の晩秋のことであった。 山はもう紅葉が終わっていた。
ある時、金田一村 長寿寺 裏山、通称曲坂へ知人三人で薪取りに出かけた。
弁当箱に常食の稗飯に味噌大根を詰め、曲がりくねった坂道を登ること、二十分ほどの所が薪山だった。
この辺りの山のほとんどは、金田一の地主である玉懸様の山で、春先にこの地区の人たちが、雑木林を地主様より薪用として木を買った。 その場所の権利分をこの時期に切り出し冬の燃料として準備するのである。
お昼ごろになるとお互いに声をかけあって、見晴らしのよい場所で弁当を広げるのだが、このとき連れの一人が風呂敷を解いて「弁当箱ぁ空だぁ」と騒いだ。
「おがすなぁ。今朝、確がに詰めできだのさ」と言うが、皆は冗談交じりに「空の弁当箱持ってきたんじゃねがったのが」と冷やかすが、「そんなはずぁね〜」という。 辺りを見廻したが、ここには誰も来た様子はなかった。 だがこの頃は凶作続きの食糧難の時代なので、こういうこともあり得たのである。 無くなったものは仕方ないと、お互いの弁当を分け合って食べたが、その日の夕方は皆、腹六分目なので早めに家に帰った。
そして翌日また、薪山に行った。 今日は昨日の事もあるので、弁当箱は木の高い処に結わえておいた。 薪取りの鉈(なた)の音は程よく響いた。 「カチン、カチン」
精を出している光景が音の響きでよくわかった。遠くから誰かが、「昼飯だよぉ」と叫ぶと、皆集まり昨日と同じ場所で弁当を広げた。このとき、弁当箱の包みが一つ木の根のそばに落ちていて、拾うと軽かった。「またやられた」と、昨日とは別な人がいった。 そして、もう一人が「これぁ、
まがちゃか まんこ女狐の仕業だ」といった。
昔から名の知られた先代の
まがちゃか まんこ も、たいへん立派な女狐だったが、その後継者の
まがちゃか まんこ もこの時すでに、一人前の女狐になっていた。
とっとぱれー(終わり)
以上が数ある二戸狐ばなしの主な一部です、これで狐ばなしは終了となります。
いかがでしたでしょうか、
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