山菜 ブナの恵

二戸の歴史と先人


九戸城跡

九戸城二の丸跡
九戸政実の乱

       天下統一を進める豊臣秀吉の最後の合戦の舞台となった地

 築城は九戸政実 (くのへまさざね) 1492〜1501 と推定され、1591年総大将 豊臣秀次、大将 蒲生氏郷、総奉行 浅野長吉 等とする秀吉軍が率いる6万5千人と、九戸軍わずか5千人が戦い、落とすことの出来なかった不落の城。

 南部二十六代、後継者をめぐる南部信直と九戸政実の相続争いから端を発した戦である。
当時、津軽は南部の領地であったが南部の家臣である津軽の大浦為信は、この跡目相続の争いの間隙をつき、独立を図るため豊臣秀吉のところへはせ参じ、南部信直より先に津軽の領地を自分の物であるとの朱印状を得たのである。
 南部信直が津軽を除く 糠部・岩手・鹿角・閉伊・志和・稗貫・和賀の七郡の領地とする朱印状をもらったのは数日後の、天正十八年七月二十七日である。

 南部一の実力者である九戸政実は、南部の二十五代春継が死亡した事で相続争いとなり、重臣会議において北左衛門 信愛(のぶちか)が強引に二十六代は信直と決定したために、九戸政実はこの決定に承服出来ずにいた。 そして、秀吉の小田原での戦に参戦せず公然と反旗を翻した。 

 守勢であった信直は秀吉に援軍要請の書簡を送る。 
秀吉は、天下統一を果たすため信直の求めに応じ蒲生氏郷・浅野長吉等の軍を出動参戦させるが、堅牢な城であるためなかなか落とせなかった。
 わずか5千の兵に六万五千人の兵をもっても攻略できず、上方軍の被害があまりに多く攻めあぐねた上方軍は、謀略を企て長興寺の和尚を使者に、女子供や家来の命を助ける代わりに政実の投降を進言し、これに応じると城中の者は皆殺しにされる。 城は火をかけられ落城、政実と7人の重臣は宮城県栗原郡三迫で斬首されました。

正式名称は「八葉山天台寺」といって、奈良時代(728年)に聖武天皇の勅命で行基上人が開山したと伝えられ、東北最古の名刹。 実際にはそれ以前から「神のいます山」として信仰の対象にしていたと考えられている。   拝観形像に貼られている御札は、病に悩む人がその箇所に張って治るよう祈願する為の姿です。。

昭和62年5月5日、第73代天台寺住職として瀬戸内寂聴が普山した。 翌年、比叡山延暦寺から「不滅の法灯」が分灯された。  天台寺の本尊、桂泉観世音立像・十一面観音立像・は国の重要文化財となっている。  奥州観音霊場の三十三番札所でもある。

5月5日 春の例大祭  10月5日 秋の例大祭

   田中館 愛橘 (たなかだて あいきつ)

 生没年 1856−1952
東京大学卒の物理学者、明治21〜22年グラスゴー大学、23〜24年ベルリン大学留学してその後帝国大学理化学教授、純粋物理学の重力・地磁気・測地学・度量衡・航空・地震などの学問の基礎を築いた。 また日本式ローマ字の創始者でもある。  昭和19年文化勲章授章
歴史人物として、もっと評価が高くとも良いのではないか、との声もでるほどある。
  

   福田 繁雄 グラフィックデザイナー

昭和8年東京生まれ。 母の郷里である二戸市に疎開し、福岡中学、福岡高校をへて東京芸術大学美術学部図案科卒業。 日本万博公式ポスター制作,
2001年ニューヨークSVAマスター賞、ワルシャワ国際ポスタービェンナーレ金賞、芸術選奨大臣新人賞、通産大臣デザイン功労賞など多数受賞。 1997年紫綬褒章を受章。  東京国立近代美術館評議員。 (社)日本グラフィックデザイナー協会会長。

FUKUDAポスター大賞コンクールの第1回(2003年)開催のジュニア部門で、私の次女、四戸岸 未佳(シトギシ ミカ)が最優秀賞をいただきました。





   相馬 大作

 本名は下斗米秀之進将真。 号は形水。 宗兵衛を父とし、寛政元年(1789)福岡(岩手県)に生まれました。
 江戸の平山行蔵に兵法武芸を学び、平山道場の四天王の一人と呼ばれていました。
父の病気を機に帰郷し、師の果たせなかった北辺の防備のために働く人材を養成しようと、福岡で道場を開き、金田一に講堂、演武場、書斎、射撃場、馬場作り、本格的な文武の教育を続けました。 彼の仕事に深い理解を示していた、時の藩主南部36代利敬公の急死にあい、 その難しさを悟りました。 利敬公に恩義を感じる大作は、津軽の9代寧親公が幕府重臣に賄賂を使い、ついに利敬公と並ぶ官位を得たことに義憤を抱き、参勤交代 の帰路にある津軽公を待ち伏せしました(津軽候要撃事件)が、目的を果たさず 後に江戸で捕らわれ処刑されました。
 しかし、藤田東湖が「将実伝」を書き、吉田松陰は長詩を詠じて、その義烈をたたえ追慕しました。

2007 3 10

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   二戸地方の始まり

 霊亀元年(715) 糠部(ぬかるべ)「陸奥蝦夷郡」、ヤマト政府と接触のあった糠部の邑良志別君宇蘇弥奈(オラシベノキミウソミナ)という首長に始まる。
 馬産地である当地方を、一戸〜九戸のように地名に戸のつくようになったのはその時代の頃、もしくは、すこし後と思われ 四角九戸・糠部郡の村・国づくりが始まっていた。
 その後、坂上田村麻呂に見出された文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)が政界に復帰し征夷戦であるニサタイ戦争(弘仁二年)となり、安部時代の「奥六郡」・「奥六郡以北」の前九年へと続いていくのである。  当時糠部の馬は名馬として知られ、平泉から鎌倉や京都朝廷に貢馬していた。
 戸のつく糠部郡の神事・祭事は、四戸八幡宮(現在の櫛引八幡宮、青森県))で、組織して取り仕切っていた。

ブナの恵


リンク後深草院二条

撮影日 2007 3 10

男性拝観 阿形像
      アギョウゾウ

女性拝観 吽形像
      ウンギョウゾウ

天台寺
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 上記以外の二戸の先人
                                               2007 3 27 記

小保内 孫陸(1812〜1891)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・会輔社を創設した呑香稲荷神社神官

小田島 熊吉(1832〜1916)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・削蹄の達人、熊包丁を全国に普及

小保内 定身(1834〜1883)・・・・・・・・・・会輔社を継承し、稲荷文庫を開設して青年の育成

小野 三十郎(1840〜1908)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土地を提供して駅を誘致

蛇沼 政恒  (1849〜1921)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二戸に牧羊場を拓いた

黒澤 武一  (1859〜1941)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二戸の教育につくした

阿部 洋   (1863〜1938)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・女子教育につくした

澤藤 忠蔵  (1877〜1955)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高圧磁石発電機の生みの親

国分 謙吉  (1878〜1958)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・農民知事の愛称で親しまれた

田中館 秀三(1884〜1951)・・・・・・・・・・・・・・・・地理学者、北海道の火山や火山湖の研究

新田 六助  (1886〜1956)・・・・・・・・・・・・アジア民族の独立運動、郷里の村長として活躍

柏田 忠一  (1886〜1958)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・法律の研究、日中正常化につくした

黒沢 覚堂  (1888〜1943)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幼児教育につくした

和島 藤助  (1898〜1945)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・電気関係器具の発明家