来島されたお二人は、差し出した小冊子の頁を目で追いながら、時には小さな悲鳴をあげながら、悲しみに包まれていかれた。
小冊子は、「宮古の歴史と文化を歩く」(2006年版沖縄県歴史教育者協議会宮古支部・麻姑山書房にて販売500円)であり、頁は「慰安所跡」「朝鮮人軍夫」である。
二人は、韓国環境NGO団体のソ・ジェチョルさん(男)とカメラマンのリムさん(女)で、下地島空港の軍事化問題の取材で来られていた。
私も読んでいて、あらためて、その事実の重さに、驚愕した。私たちにまず必要なのは「事実を知る事」である。執筆者の下地康夫先生の許可を得て、内容を要約して記す。
「慰安所跡」…「宮古には1944年までに日本軍3万人が配備、
そこに朝鮮人慰安婦が送られてきた。
現在、10ヶ所の慰安所跡が確認され、一ヶ所に10名あるいは20名、多い所では50名と割り当てられていた。
殆どが15歳から20歳の若い女性だった。
小学生たちが「朝鮮ピー」と呼び、汚いと言って石を投げつけていた例もある。城辺町比嘉には20名、野原越には50名の慰安婦がおり、兵隊が昼夜列を作って並んでいた。
彼女たちは人道上許しがたい性的奴隷の地獄へ追いやられて、人間の尊厳をふみにじられていた。」
「朝鮮人軍夫」…「1945年3月1日、平良港での日本軍輸送船の積荷下ろしに、百数十名の朝鮮人軍夫が作業、昼過ぎ、米軍機49機が波状攻撃。船団は轟然たる爆発音と共に海底に消えた。
黒焦げの死体が狩俣・下崎海岸に漂着した。
戦死84名中朝鮮人軍夫70名。
宮古島に連行されてきた朝鮮人軍夫は1500名、中3分の2以上が死亡との記録がある。
1945年8月、生き残った朝鮮人50〜60名は「朝鮮解放万歳」を叫んで平良の街を行進した。」
朝鮮の方が男女とも、宮古島における戦争の最前線に立たされて犠牲になった史実がここにはある。
この日の前日10月11日には、宮古の方の案内で、お二人は、野原の慰安所跡や朝鮮人軍夫の重役によって貫通した福山の野戦重火砲壕跡(全長50m)を訪れている。
我々は戦争がいかに過酷な苦痛を自国のみならず他国の市民に強いるかを肝に銘じなければいけない。
ソさんは「軍国主義を許してはいけない、これからもです。」と静かに言われた。
お二人が作られたドキュメンタリー番組「恨之碑」は韓国KBSテレビでも今年、放映されており、今回、宮古でも伊良部でも小さな上映会を持った。
「恨之碑」とは、「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」であり、1999年8月、第1号基が韓国の慶尚北道英陽の公有地に、今年5月、第2号基が読谷村瀬名波に建立されている。
元朝鮮人軍夫で、生き延びた二人の方が、沖縄の島々に眠る同胞たちの遺骨のことを想い、「自分たちが生きているうちに弔いたい」と強く願っていたのが、追悼碑建立の発起だった。
その内の御一人の徐正福さんは宮古島に連行されていた。
翌10月13日は、ソさんの伊志嶺亮市長インタビューがあった。
市長は、戦時中、朝鮮人に、多大な苦痛を与えた事に対して、正面から事実を認められ、「謝りたいと思います」と頭を下げられた。
韓国の調査には協力する事、同じ軍事化問題に直面する両国の島民が交流していく事の意義等を語られた。
そして、「もし、軍事基地化に際して、お金をたくさん積まれたら、どうしますか」とのソさんの問いに対して「断固拒否します」と語られた。
その前日、軍事利用に反対する伊良部住民委員会委員長福島正晴氏も、同じ質問に対して、同様に強く否定され、「大切なものをなくす事になります」と言われた。
ソさんは、まっすぐ向き、まっすぐに目を見て、話す方だ。
不安定な状況をつくり、隣国相互が 軍事力を強化していく愚を憂いている。
お会いしたのは、今年の5月の沖縄本島以来2回目であるが、お互い心の底から話をする中で、深い友情を感じ始めている。
市長・歴教協の先生方はじめ、負の歴史をも見据え、真の平和を願っている宮古島の方たちを誇りに感じた。
ソさんは、宮古島と韓国南の済州(チェジュ)島との市民交流を提案された。
平和的な交流をこそ人と人、島と島、国と国の間で深めていきたい。
国内外の犠牲を無視しての再軍備は到底許されない。
|