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心と心の対話
2003・5・16

映画を観た。「たそがれ清兵衛」(日本アカデミー賞)と「千と千尋の神隠し」(アカデミー賞)である。
心を動かされた。底に共通するものがあった。 

清兵衛の「本当の斬り合い」には息をのんだが、真のリアリティはその前にあった。
清兵衛は藩命で自宅にたてこもる謀反者を斬りにのりこむのだが…
相手は座れと言って本音を語り始める。「藩に尽くすも納得し難き辛き目に家族もろともあう」
清兵衛は共感してしまう。今も、本当にこの男を斬りたいのか…

戦場の兵士の事を思った。アメリカ兵・イラク兵…
父の兄文常さんは召集され、中国戦線で戦死した。優しい人だったと聞く。その無念を思う。自らの死と共に、中国人を前に上官として何をしなければならなかったのか…その無念。
妻の花子さんが亡くなる直前、私はお見舞いにいった。西行の花の和歌を教えてくれた。あなたは文常さんに似ているといわれた。

国家や主による心なき命令。死闘の強制。
侵略戦争を忌み嫌うルーツは自分の血の中にあるのかもしれない。伯父の無念。 

映画は、結局、無念の死闘となる。清兵衛は生き残り、家族のもとに帰る。
愛しい人が待っていた。ここで私の目はふくらみ涙があふれた。

八百万の神々が憩う薬湯温泉という異空間に迷いこんだ千尋は少し臆病な普通の子であるが、次第に芯が通ってくる。助けてくれた男の子ハクを救う為にである。
決して闘わない。ただ、相手にハクの非を謝りにいく。
その道中で、敵となるかもしれない者たちの心を和ませ、道を共にする。誠意は相手に通じる。
帰路、ハクの本当の姿を思い出す。かつて自分が溺れた時、浅瀬に導いてくれた川だった。 

二つの映画に共通する精神は心と心の対話の成り立ちである。
その瞬間、非戦。戦意はなくなり、相手をおもうのである。 

今の米日は敵対する国と対話しているだろうか。
小泉首相は近隣諸国が抗議する靖国神社参拝を強行し対話を自ら拒んでいる。
侵略した事実と向きあう心がないのである。

私は文常伯父の戦死の真相に向きあいたい。