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砂村家 家紋の謎

 砂村新左衛門の家紋は「丸に剣片喰(かたばみ)」である(らしい)。新左衛門とこの家紋を結びつけるものは遺訓を納めた位牌のみである。この位牌は後世に作られたものなので直接的な証拠にはならない。

 初期の新三郎家と新四郎家の墓碑に見られる家紋はいずれも「丸に剣片喰」である。ここから新左衛門の家紋も「丸に剣片喰」であったと強く推定される。

 

二代目新三郎(道詠)の家紋
新左衛門(真悦)の家紋
 ところが正業寺に残る「宗慶」と「道詠」が並んで記される位牌の家紋は「丸に剣片喰」を上下逆にしたものである。なお宗慶の墓碑には家紋はなく、道詠の墓碑の家紋は逆ではない通常の「丸に剣片喰」の家紋がある。宗慶は初代新三郎(後に大坂で二代目三郎兵衛)と推定され、道詠は二代目新三郎で内川新田名主としては初代と推定される。
 これは内川新田開拓者(初代)と最初の名主(二代目新三郎)の位牌を後世の者が作り直した(新調した)ものと推定される。
 しかしもう一人の最初の名主(二代目新四郎)つまり浄悦の位牌はまったく同じ形でありながら、通常の「丸に剣片喰」が描かれている。
 つまり後世において同時に両家の位牌を新調したときに、一方の家は家紋が逆さになったと推定されるのだ。
二代目新四郎(浄悦)の家紋
 正業寺には多くの砂村家の墓碑が残っている。これらの多くは戦前のある時期まで砂村家の墓地にあったものだが、海軍の久里浜進出に伴って接収されたので、正業寺に移された。したがって正業寺が浄土宗の寺であるにもかかわらず、浄土真宗の墓が混じっているのだ。新四郎家は浄土宗だったが、新左衛門、新三郎家、善六家、宮井与兵衛家は浄土真宗であった。
 浄土真宗の法名の特徴である「釈」の字のある墓碑で「丸に剣片喰」のものは享保、宝暦、安永年間のもので、逆になっているのは明和、明治年間のものである。
 どうやら善六家が新三郎家を継いだときに「逆丸に剣片喰」を使うことになったようである。新三郎家の絶家がトラブル(不埒ないしは夜逃げ)に伴ってのものであったため、それを継いだ(血の薄い)善六家は「正規」の家紋の使用を許されず、逆さの家紋を使うことになったのであろうか。
 「正規」の家紋の使用を許さなかったのは、やはりその頃絶家した新四郎家の傍系の家(新十郎家など)または新三郎家の傍系の家と思われる。もう一つの推理としては新四郎家を継いだ宮井与兵衛家が逆さ家紋を使うよう強制(推奨)したということもあり得る。
 実は与兵衛は内川新田では東浦賀の本家とは逆(左右対称)の家紋(三つ巴)を使用しているのである。つまり与兵衛家も善六家もともに「あくまでも別家」なのだから、逆さの家紋を使うよう勧めたとも考えられるのである。新四郎家系(または新三郎系)の家の主張を、与兵衛が受け入れて妥協案を示したとも考えられる。
 最近の砂村家(善六家の末裔)の墓碑に刻まれる家紋は逆さ(上下対称)ではなく、通常の「丸に剣片喰」である。明治以降の内川新田において先祖を祀り、天神社の総代を務めてきたのは善六系のみであったので、「唯一の新左衛門子孫の家」として復権を主張したものと推定される。
 
 なお日本各地において別家は本家とは形の異なる家紋を新たに作ることはよく行われていたことで、さほど異常なことではない。模様を横に並べる、左右対称、上下対称など変形の手法も様々で、苗字の数より家紋の数のほうが多いとも言われた。
新三郎(初代宗慶・二代目道詠)の家紋
新四郎(二代目浄悦)の家紋
与兵衛(教誓)の家紋
乗誓寺の墓碑
与兵衛(教誓)の家紋
正業寺の墓碑
 「丸に剣片喰」紋は一般的には真上に剣が配置され、左右60度の部分にも剣が配置される。そしてそれぞれの剣の間に片喰の葉が配置されている。
 上下逆の紋はほとんど見られない。ただし剣がない片喰3枚の家紋の場合は通常は葉の1枚が真上に配置される。
現代砂村家の家紋
明治期砂村家の家紋
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砂村新左衛門
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