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 夫婦橋そばの石碑
 
 今平作川の河口から1キロあまりのところに架かる夫婦橋の久里浜側のたもとに古い笠塔婆型の石碑が保存されている。
 
 昔(明治時代まで)はもう少し上流にあった夫婦橋は、内川橋とも呼ばれた。この頃まではここが河口で、その先には内川の入江が広がっていた。大正時代の関東大震災でこのあたりは隆起して、内川の入江は埋め立てられて陸地になり、河口は今の開国橋付近になった。
 
 旧夫婦橋は河口の中洲と両岸を結ぶ二つの橋だったことから名付けられた。内川新田の開拓当時はここが海と新田の境界すなわち樋門(潮除樋)であった。
 
 石碑には、(内川新田の検地以来)たびたび樋門が壊れてその対策に苦心したことが刻まれている。そして水神に「みんなを守ってください」と祈っていることが刻まれている。そう祈っているのは死の直前の砂村新左衛門であった。上部には霊巌寺大誉上人による「南無阿弥陀仏」が大書されている。寛文七年(1667年)の建立である。明治時代には二つの橋の間の中洲にあったことが確認されている。
 
 私は、この石碑が「慰霊碑」あるいは「安全祈念碑」であると思っているが、これまでの公式見解は「内川新田完成祈念碑」ということになっている。
 
 寛文五年(1665年)に内川の入江の海岸にあった潮除堤(土手)に開発の事蹟を記した碑が建てられたが、字は読めないほどに剥落していると、天保年間に書かれた相模国風土記稿に記されている。
 
 この碑が後に中州に移され、今残っている碑と同一であるとの主張もあるが疑問である。寛文五年(1665年)は高札が建って、小作人の募集が始まったときであり、こちらのほうが完成祈念碑としてふさわしく思える。
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霊巌寺 南無阿弥陀佛 大誉(花押)

 

相州三浦内川入海新田并八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破樋八ヶ年間致苦勞盡工夫時依蒙佛神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現當二世安樂也

 

寛文七(未 丁)年(三月 吉日)

 

砂村新左衛門尉政次(敬 白)

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砂村新左衛門
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