横須賀自然人文博物館に保存される「旧山内家文書」の中の内川新田絵図と水帳の間には大きな矛盾がある。絵図では内川新田を数十の区域に分割し、区域ごとに青または黄に塗ったり、青丸または黄丸を記載したりしている。青・黄は新三郎家・新四郎家の所有区分を示すものであるから、各区域は新三郎もしくは新四郎が単独所有していたことを示す。ところが水帳では絵図の区域とほぼ同一の区域ごとに面積が記載されるとともに、全ての区域に関して新三郎家・新四郎家がちょうど半分ずつ所有(つまり共有)していたことを示しているのである。
これらが全て正しい記述・写し・翻刻であると仮定すれば、延宝七年の五月に一旦大岡次郎兵衛(走水奉行)の裁許を受けた内川新田の内割(新三郎・新四郎家分割)は六月に訂正されたことになる。そういうことであれば、六月の絵図のほうが正しいはずなのだが、享保年間の公式文書には五月の水帳の方が引用されているのだ。そればかりか、別の元禄年間の年貢割付の文書では、新四郎家に屋敷・田・畑のそれぞれちょうど半分が割り当てられていて水帳の記載に準じているように見える(絵図の塗り分けでは、そうはぴったり半々にはならないはず)。
延宝七年五月に確認した水帳では「水帳の通りに等分する」としていて、各区域それぞれが等分されたことを示している。一方延宝七年六月の絵図では「絵図を差がないように黄色と青色に塗り分け、くじ引きで決めた」としている。
そこで私は両文書が両立するシナリオを考えてみた。両家が他家に譲渡することなど思いも寄らなかったので、「財務・行政的には絵図のように各区域を単独所有」し、「税務的には水帳のように完全共有」することにしたのではなかろうか。水帳は納税のための土地台帳である。奉行所はいつの時代にも両家に等分の年貢を負担させることにしたものと思われるのだ。
この仮説は証拠不十分で実証は困難であるので、新証拠・議論が待たれる。
水帳は享保十七年の文書中で延宝七年五月二十一日の文書を引用している。一方、絵図には延宝七年六月と記載されている。つまりほぼ同一時期に作成された二通の文書の間に矛盾があるのだ。以下に分析を試みる。左側に水帳(末尾)の記載を右側に絵図(裏書)の記載を示す
水帳の記載(享保十七年の写し土地目録の末尾)
右之通、新三郎・新四郎并拙者共立合、御水帳之面等分に割分ケ、少も相違無御座候、後日双方并六ケ村之者共判形仕候、仍如件
延宝七未年五月廿一日
砂村
新四郎
同
新三郎
同
三郎兵衛
八幡村名主
八郎兵衛
栗浜村名主
九左衛門
久村名主
新太郎
左原村名主
九郎左衛門
久比里村名主
五郎左衛門
吉井村名主
六兵衛
右砂村新田場新四郎・新三郎両人地面半分宛ニ被仰付候而、双方并六ケ村名主立合割仕候、就夫今度場所為見分被遣候、地面境目等致詮儀候所、弥此割帳之通相違無之付致判形、双方江相渡候、仍如件
延宝七己未五月廿一日 大岡次郎兵衛内
朝倉平右衛門
絵図の記載(裏書)
相州三浦郡走水領内川砂村新田場新四郎新三郎出入付而詮議之上、右新田場双方江半分宛申付、依之地面等分に可致内割由申付、同領八幡村名主八郎兵衛 栗浜村名主九左衛門 久村名主新太郎 佐原村名主九郎左衛門 久比里村名主五郎左衛門 吉井村名主六兵衛 右六ヶ村名主共当人双方立会、絵図之通地面無甲乙割并朝倉平右衛門為倹使遣之、為相改、境目等無相違、双方申分無之段、書物為仕、鬮取候所、絵図黄地之方は新四郎、青地之方は新三郎取之候間、則可請取旨申渡之候、後日双論為不仕、絵図双方江相渡者也
延宝七年己未六月 大 次郎兵衛 御印
砂村
新三郎
砂村
新四郎
しかし、水帳の記載どおり各区域を等分して所有させると、そこの小作人は両地主と契約しなければならないという問題が生じる。両家は地主であって名主でもあったから、小作人は両名主に仕えるという矛盾も生じる。またこのときから百数十年経過して、経済的に困窮した両家は他者に売却(名目的には質入)しているが、水帳のように細分化されていると、各自が別々に他者に譲渡することは極めて困難になってしまう。