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砂村新左衛門
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砂村を中興した善六家の悲劇

善六は熊谷の人で文化年間に砂村家を再興、宮井家とともに代々与兵衛組・善六組として内川新田を地主・名主として治めた・・・これが今まで善六家について伝えられていた全ての情報であった。

砂村(善六)家は最近まで続いていたが、残念ながら先祖である新三郎家や善六家にあったはずの文書は一切発見されていない。私は旧山内家文書(宮井家文書)に幕末の善六家に起きた事件に関する文書が残っており、旦那寺である野比最光寺の過去帳にも善六家に関する記載があり、隣村八幡村名主長島六兵衛の「御用日記」にもときどき善六家に関する記述があるのを見つけて、これらを総合して善六家の系譜を整理しようと考えた。それは筆舌に尽くせないほどの波乱に満ちたものであった。以下に私の推理も交えて、初代から三代目善六の時代を中心に物語風に描写することにする。

 

善六は熊谷の農家(推定)に生まれた。父善助(仮名)は子沢山で善六は末っ子であったので、子供の頃から善六を江戸の親戚に奉公に出した。やはり熊谷の生まれであった親戚の栄造(仮名)は若い頃から江戸に出て商売(八百屋)でまずまずの成功を収めていた。善六栄造とともに得意先を廻るのが日課であった。得意先とは農家特に江戸近郊の地主たち、すなわち仕入先であった。もちろん仕入先としては実家近くの熊谷の農家を中心にしていたが、この頃野菜の特産地と知られていた砂村新田も重要な仕入先であった。

 

商売では成功したものの栄造は以前から悩みを抱えていた。男子に恵まれなかったのだ。再婚してまで男子の誕生を願ったが叶わなかった。善六の働き振りを見ていた栄造善六を娘のさよ(仮名)の養子にして商売を継がせようと考えていた。素直で働き者の善六栄助の気持ちを察していた。しかし栄造はもう一つの悩みを抱えていた。それは商売が先細り状態だったことである。新鮮で美味しい野菜の仕入先を売り物にしていたが、その競争力にかげりが見えてきたのだ。競争相手のほうが資金力豊富で規模の差は明白であった。善六に継がせても果たして行く先どうなるのか・・・栄造は老後資金を十分溜め込んではいたものの、子供の代まで商売を続けることに不安を感じていた。当時江戸の街は「寛政の改革」ですっかり沈滞していた・・・。

 

そんな折、栄造は砂村新田の名主金四郎(仮名)から思いもよらない提案を受けたのであった。金四郎は砂村新田開拓時から続く砂村家(開拓者新四郎の子孫)の当主であり名主であった。砂村新田の砂村家は三浦(内川新田)の砂村家(新四郎・新三郎家)とも親戚づきあいをしており、新三郎家から相談を受けていたのである。「三浦の内川新田新三郎家の借金を肩代わりし、善六を養子に出さないか」「そうすれば善六は地主になれるとともに名主にもなれるし、あんたの老後も安泰だ」・・・それが提案であった。

 

実は少し前新、三郎家には大きな問題が起きていた。当主が借金を苦に家出していたのだ。当時の家出は「欠落」と言って犯罪に相当した。このため当主新三郎(六代)は指名手配を受ける破目となり、新三郎家は絶家の処分を受けていたのである。新三郎(六代)は養子で、実父の市右衛門利恵夫婦は自分たちの孫竹次郎を跡継ぎにして新三郎家を再考しようと画策したが失敗した。借金返済の目処がつかなかったため家を継ぐことはできても、内川新田の地主・名主としての復権は許されなかったのである。

 

問題処理に疲れ果てた市右衛門までもが家出してしまいさらに混乱は広がった。妻の利恵は砂村家の血縁であり、「砂村家を絶やしてはならない」という信念に燃えていた。そこで親戚である大坂と江戸の砂村家に相談したのだった・・・「養子を出して、資金援助してくれる人はいないか」。もちろん両砂村家の血縁から婿が入るのがベストであるがそれは叶わぬことであった。候補者はいても資金援助が無理なのは以前から分かっていた。

 

そこで奉行所に「縁戚関係のない他家から婿を取って砂村家を継がせてもよいか」と打診してみたところ、「新三郎家を名乗ることは難しいが、借金問題を解決できれば砂村家として復興させてもよい」という見解を得たのであった。そこで家出した新三郎(六代)の娘たえに資金力のある他家から婿を取るということを画策したのだ。そしてこの話が砂村新田の砂村家から栄造善六に伝えられたのである。

 

栄造善六は悩みながら相談した結果、条件付で提案を受けることにした。条件とは娘さよ善六の妾(第二夫人)とし、栄造さよに住居を与えて生涯生活の面倒を見る・・ということであった。当時は金持ちが妾を持つということに世間の抵抗感はなかった。利恵はこの条件を受け入れた。こうして話はまとまり、善六は砂村家に婿入りしたのである。善六には村経営の経験もなく砂村家の家来たちをまとめる能力はなかったので、当面は利恵が実権を握って差配した。少し貸主ともめながらも新三郎の多額の借金(大部分は公儀貸付金)問題を片付けて、善六は地主として後には名主として砂村家の復権を果たしたのであった。だから善六は「砂村中興の祖」と呼ばれるが、実質的な中興の祖は利恵だったかもしれない。

 

村経営においては初代善六の時代には大きな問題は起きなかった。内川新田の依然として経営は困難で再び借金が嵩みつつあったが、栄造の資金で一旦借財を片付けていたので問題が表面化することはなかった。しかし、家庭内では大きな問題が進行していた。実は妻たえは結婚まもなく娘のたみを産んだものの、その後悩みを深めていたのである。さすがに屋敷内に妾が住んでいて、夫は妾のさよの方に優しい・・・。不満はどんどんたまって、ついに外に男を作ってしまう。そしてついにたえは男とともに駆落ちしてしまうのであった。しかし善六たえを離縁することはできなかった。離縁は善六の砂村家からの離脱を意味するからである。それでも見た目にはさよが妻(実際には内妻)として母屋に住むようになり、善六家に平和が戻った。しかし、さよに子ができても血縁がないので砂村家を継がせることはできず、たえとの間には男子がいなかったので、善六は後継者問題に悩むことになるのであった。

 

年老いていた栄造はほどなく砂村屋敷の離れで息を引き取った。また実父の善助も老後の保養として砂村屋敷に滞在していたが、やはり老衰で亡くなった。栄造は砂村家の墓地に葬られたが、善助は熊谷の実家に遺骨が送られて葬られた。一介の町人・農民であった二人が、名主の父親として死ぬことができたのは幸せなことだったかもしれない。

 

初代善六は和田村の出身であった市右衛門の親戚筋から娘のたみに養子を迎えた。しばらくして養子に二代目善六を襲名させ、初代善六は名主の地位も退いて隠居し、晩年は砂村屋敷の離れを隠居家として住んでいたが、嘉永元年には亡くなった。二人の妻はさらに十年以上長生きしてこの世を去った。この頃善六家の経営状態は悪化してきてはいたが、破産の恐れがあるほどではなかった。しかし二代目善六は素行が悪かった。養母であるたみがなくなってからはさらにひどくなった・・・もう一人の養母さよは冷たく扱った。そしてついに二代目善六は家族内暴力や対外的な借金問題でお縄を頂戴する破目に陥ったのである。

 

このことに怒った奉行所は二代目善六に半年間の押込の刑を言い渡した。押込とは自宅軟禁のことである。自宅の部屋からの外出を許さないという刑罰で比較的軽い犯罪に適用されるものであった。この時点で二代目善六は隠居して善三郎を名乗っていた。名主役は内川新田のもう一人の与兵衛組名主宮井栄助が代行する形になっていた。ところが・・・あろうことか善三郎は内川新田から逃げてしまうのであった。これには奉行所も甘い顔はできず、暫時砂村家を断絶させる処分を言い渡したのであった。

 

東浦賀の宮井本家は以前から二宮尊徳と親交があった。振るわない内川新田の経営を改革するため尊徳に相談していたのである。まもなく尊徳が内川新田にやってくるという話になっていたのであったが、尊徳が急逝してしまい尊徳自身による改革派挫折してしまう。宮井家は善六家の再建に尊徳の報徳仕法の考え方を適用することを奉行所に提案して了承された。善六家の全財産を二千両で売却して、その一部で借金のかたをつけ、一部は当分の間の家族の生活費に充て、残り七百両を十五年間複利運用して二千両に増やし、それを以て全財産を買い戻すというスキームである。資金の公募と運用による村経営の再建・・・これが二宮尊徳の報徳仕法である。

 

当時基本的には土地の譲渡(売却)は禁止されていたので、名目上は質入という形を取るよう奉行所は行政指導した。質が流れて所有権が移転することは認めていたのである。また開発当時からの地主はいつでも買い戻す権利が保証されていたのである(保証の期間などには変遷がある)。そして善三郎のまだ若い息子卯作がこの契約の当事者になった。一方、資金は東浦賀宮井本家のさらなる本家(紀州)の宮井伝右衛門が負担したが、契約の窓口になったのは宮井本家の宮井与右衛門であった。また資金の運用は石井三郎兵衛が引き受けた。それは万延元年のことでさよが亡くなって間もなくのことであった。このドサクサによるのだろうかさよの墓は残っていない(たみ初代善六の墓に入っている)。

 

卯作はまじめな性格であったので無駄遣いすることもなく、つましい生活を送っていた。そして十五年季の三分の一が過ぎた慶応元年になると卯作に嫁を取る話が進んでいた。借家住まいをしていた卯作が新世帯を持つに当たって、親戚や元家来の者たちは卯作を元の砂村屋敷に新普請して住まわせたいと考え、近隣名主に相談を持ちかけた。宮井家は十五年の約束だからとして渋ったが、永久に旧善六家資産を支配する気はなかったので、二千両での買い戻しに同意した。元々経済的な破綻ではなかったので、資金は何とかなった。奉行所も善六家の復権を承認した。

 

こうして卯作は再び地主として砂村屋敷に戻り、しばらくして三代目善六を襲名して名主にも就任したのであった。これで万々歳かというとそういうわけにも行かなかった。江戸に逃げていた善三郎は恐れ多くも新左衛門を名乗っていたが、経済的にはかなり困窮していた。江戸で火事に遭って家具や衣服を失って、内川新田にこっそりやってきては無心していた。三代目善六はしかたなく応じていたが、このことが奉行所に知られると自分も罪になるため、隣村名主らに相談した。隣村名主らもかわいそうに思って金銭の援助をしていたりしたが、ほとほと困り果てていた。慶応四年の頃には善三郎は津久井村に借家住まいをするようになったが、やはり常に金に困っていて、たびたび内川新田に無心にやってきていた。あるとき内妻に逃げられてしまい、老衰で身体もままならなくなっていた善三郎は内川新田への帰還を許してもらえるよう懇願した。この対応を相談すべく近隣の名主たちが集まっていたところへ、噂を聞きつけた奉行所の役人(地方掛)が駆けつけてきたため、一同は包み隠さず事情を話した。奉行所の役人がこれを認めるはずもなく、「帰ってきたら捕まえて処分する」と彼らに言い渡したのであった。名主たちは当座の生活費を善三郎に渡し、奉行所の見解を伝えて二度と内川新田に来ないよう告げたのであった。

 

三代目善六が名主になってまもなく徳川の世は終わりを告げ、明治維新を迎えた。三代目善六が名主であった期間はほんの数年に過ぎなかった。そして特赦された善三郎はようやく内川新田に戻ることができたものの間もなく(明治三年)砂村家で亡くなった。その後砂村家当主は村長を務めるなど、このあたりの名家ではあったが、初代の頃以上に繁栄することはなかった。

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善六家家系図