これは「新左衛門が内川新田を開拓したこと」「開拓の費用に関して債権債務がないこと」を近隣の名主が認めたものである。内川新田に関して、「高札」が奉行が新左衛門の権利を認めたものであるのに対し、「手形」は近隣の村が新左衛門の権利を認めた形になっている最も古い文書である。ただし、これは後の(おそらく与兵衛組・善六組の)時代の写しである。
手形之事
相州三浦内川入海之砂原万治三年子ノ年より塩除土手石垣ニ御築廻シ海を新田ニ御取立御普請被成候ニ付所ニて日負銀駄賃石垣之石并竹木かやなわ土俵其外万御買被成候代金共ニ其時々ニ御払被成慥ニ請取申候村中共不残相済少も出入無御座候事
手代衆并江戸より参候大工○○○○○人足ニ至迄御法度相背不申候百姓中方より少も申分無御座候事
先年御縄入候外荒地之分御公儀様より御請負其方入用金ニて御築立被成候入海并砂原新畑に御取立被成候ニ付村々之さ々わりニ少も成不申候悪敷儀毛頭無御座候自然脇より何角申者御座候共我々詮義之上如此加判仕置申候間於以来相違無御座候事
附古田と新田之境目ニ其方地之内ニ小松御植被成候間境目ニも百姓中方より永代少も申分無御座候事
右條々後々末代ニ至迄為証拠之証文仍而如件
寛文六年丙午九月十六日
八幡村
名主 新蔵
年寄 又十郎
栗濱村
名主 九左衛門
年寄 新太郎
同 久太郎
久村
名主 八兵衛
年寄 庄兵衛
年寄 次郎左衛門
名主 五郎左衛門
年寄 庄左衛門
同 勘○○
同 次郎右衛門
同 七兵衛
佐原村
名主 九郎左衛門
同 宗左衛門
年寄 藤左衛門
同 孫右衛門
同 七兵衛
吉井村
名主 六兵衛
年寄 隼人
同 六平右衛門
池田村
九郎兵衛
砂村新左衛門殿
右は新田開発之節奈七ケ村より請取候証文連印之写