取替申証文之事
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一 相州三浦郡内川砂村新田新四郎新三郎訴上候は砂村新田之儀五拾四年以前私共親新左衛門八幡村地内之砂間を新田ニ奉願御請負仕手前入用を以新田開発成就仕候其節より入海え樋弐ヶ所仕立新田之悪水満水共ニ為吐其外長拾弐間之板橋等掛ケ往還自由為致門樋之南ニ潮除之大堤築立是又往還之道敷ニ仕候新田境之儀は入海之端を限御年貢地之松原并砂間屋敷地先迄新田地ニて御座候新田開発以来波除ニ葭植置候処八幡村之者共我侭ニ苅取申候ニ付名主八郎兵衛方へ相断候得は近村之者取扱申候処ニ八幡村より段々不届を申掛候向後砂村新田波除葭場え妨不申候様仕度由申之候八幡村答候は新四郎新三郎親新左衛門手前ノ金子ニて新田取立板橋を掛候由偽ニ御座候先年三浦郡中へ人足被仰付御普請出来仕候道筋ニ御座候処新左衛門勝手ニ御定之道筋切下ケ新田古田之境と相定古道を自分之田地と仕海端を限御年貢地と偽申上候入海湊之儀は先々より八幡村猟船繋場ニ御座候依之船役永壱貫百文宛年々上納仕殊朝鮮人来朝之節は馬入舟橋御役相勤来申候拾壱ヶ年以前大地震之節より入海干潟ニ罷成候故新四郎新三郎方より私共船繋場え葭植置致助成候間苅取申候右入海湊之儀は八幡村分ニ御座候間此以後舟繋場え内川砂村より綺不申候様仕度旨申上之候双方度々御吟味被仰付候処入海空地之場所新四郎新三郎支配之由雖申証拠無之候然共新田水吐場ニ致来段無紛勿論為波除葭植置候且又入海之儀新田開発不致以前は八幡村猟船置場通路自由仕来殊舟役等相勤候儀無紛候於然は八幡村船置場之所は葭不植之新田波除之辺は葭差置之其外は双方立会可苅取尤入海空地之儀は向後両村ニて致支配之互ニ新田水吐波除ニも障不申八幡村船置場通路も妨不申様ニ可仕旨被仰付奉畏候右之通於御評定所双方取替証文被仰付候上以来相背申者御座候ハヽ何分之曲事ニも可被仰付候為後証双方より連判証文取替申所仍如件
正徳四年甲午五月廿五日
                         相州三浦郡砂村新田
                               新四郎
                         同断
                               新三郎
                         同国同郡八幡村名主
                               八郎兵衛
                         同村組頭
                               六兵衛
                         同村百姓代
                               善右衛門
 
 これは正徳四年(1714年)に解決を見た、内川新田と八幡村の紛争の調停結果である。この時存命中の新四郎、新三郎はいずれも二代目である。ただし二人とも3年後には死去しており、既に三代目が継いでいた可能性もある。ここでは二代目(開発責任者だった初代の子で実質的な内川新田初代名主)と仮定しておく。
 興味深いのは新左衛門のことを「私共親」と書いていることである。山内和子氏はその論文の中で、このことを根拠に「新左衛門が連れて来た新三郎・新四郎は新左衛門の実子で兄弟である」という説を展開しているが、明らかに間違いである。新左衛門は連れてきた初代は既にこのとき存命していない。他の記録から二代目は新左衛門の実子ではない。にもかかわらず「私共親」と言う根拠は「養子」であることしか考えられない。つまり新左衛門は初代新三郎、新四郎の子を養子として内川新田を(砂村新田も)継がせたのであろう。初代新三郎、新四郎は新左衛門の甥と考えるのが妥当と思われるので、「子」というより「孫」の世代である。この事件が新左衛門の死後47年を経ている(生きていれば113歳)ことも「孫」の世代であることを示している。