内川新田の開発時期に関する考察 

これまで、砂村新左衛門が内川新田の開発を完成させたのは寛文七年(1667年)であるということが半ば定説になっていた。開発当時の記録(文書)は少なく、今夫婦橋際に残る(以前は二つの橋すなわち二つの門樋が設けられた川中島にあった)、寛文七年建立の石碑が「内川新田完成記念碑」であるという仮説に基づくものであろう。しかし、ここには8年前すなわち万治二年に門樋が完成し、その後たびたび壊れたと書いてあるとも読める。私は、万治二年に門樋が完成し、同三年に最初の検地を受けたという仮説のほうがもっともらしいと思っており、以下においてその仮説の検証を試みることにする。

内川新田は近代まで真の意味での完成には至っておらず、水没を繰り返してきている。しかし、全国のどの新田もある時点できれいに完成したわけではなく、一旦完工した後に継続的な改良を余儀なくされているのである。従って「検地を伴う」すなわち公的なお墨付きを得る「一旦の完工」を以って「完成」としなければきりが無いと思うのである。

そこで、「万治年間に最初の検地があったかどうか」を中心に古文書などに残る記録からの検証を試みることにしよう。残念ながらそのときの検地帳は残っていない。

新左衛門と内川新田に関する関わりについて最も古い時期に関する記録は以下の福井藩の「続片聾記」の(松平忠昌公の代の)記述に見られる。

(享保年間に、福井藩の藩士が新左衛門の子孫から取材した情報と思われる)

鎌倉御屋敷壱ケ所御立山壱ヶ所有之候鎌倉より七里斗有之鎌倉郡内川砂村と申所に候當御代元祖新左ヱ門と申者指上候・・・

ここで新左衛門が屋敷等を差し上げた相手は、(他の部分の)片聾記の記述によれば明らかに福井藩主松平忠昌(隆芳院)である。そして忠昌は正保元年(1644年)に亡くなっているのである。忠昌公生前の譲渡と解釈するのが自然であり、(三浦郡なのか鎌倉郡なのかも記述があいまいではあるが)寛文七年(1667年)の実に23年以上前に、新左衛門は三浦半島で活動していることが示されているのである。

  片聾記の記事には享保八年(1723年)に内川新田の新三郎と新四郎が福井藩の伊藤作右衛門に提出した覚書の写しが示されている。筆者は、この新三郎と新四郎は新田開発を担当した初代の新三郎(宗慶)と初代新四郎(宗徹)の子で、新左衛門(真悦)の養子となって新田を継いだ二代目の新三郎(道詠)と新四郎(浄悦)の子、すなわち三代目の新三郎(道秀)と新四郎(智向一得)であると推定している。二代目はそれぞれ享保二年(1617年)に相次いで亡くなっているからである。新左衛門の死後50数年を経ており、三代目の時代であることから伝承に伴う間違いがあるかもしれないが、比較的開発時期に近い時代の情報であると言える。

ここから得られる仮説としては「新左衛門は寛永年間(16241644年)の頃より、三浦に来ており、内川入海を調査ないしは干拓着工していたらしい」というものである。

次に古い時期の記録は「正業寺中興」に関するものである。新編相模国風土記稿には以下のように記述されている。

正業寺・・・・中興は還無(弁蓮社業誉空脱と号す、慶安三年六月二十日寂す)と云ふ、中興開基を砂村新左衛門(法名信悦寛文七年十二月十五日死す、内川新田を開発せり)と云ふ・・・・

ここに記される中興開山の還無は前の鎌倉光明寺第三十四世上人で、寛永十七年(1640年)に芝増上寺第二十一世上人になったとされている。そして還無上人が慶安三年(1650年)に亡くなったことも確かなことである。風土記稿の「中興」と「中興開基」の記述が同時期のものとすれば、慶安三年(1650年)より以前に、すなわち石碑に刻まれた寛文七年(1667年)の実に17年以上前のことになるのである。中興開山の還無上人に関する情報は同様の内容が正業寺過去帳にも残されており、明確な形で寺伝となっている。

次に、万治年間前後に関する記録を見ることにしよう。

新左衛門の遺訓には以下の記述がある。

(寛文五年に新左衛門が記した家訓)

京都、大坂、堺、四国、西国、北国、関東八州大方めくり、国々所々物毎一覧仕候得共、宜所ニ而()四、五町四方屋敷求候儀難成、むなしく年月送。就夫、四五年以前より相州三浦内川入海を新田に取立成就仕候間、諸木植置住所ニ可定と存候得共、江戸より遠ク御座候間不能其儀。

今度武州於江戸宝六嶋海邊新畠ニ取立申ニ付、此所幸住所と存・・・

遺訓は新左衛門本人の遺志を記したものであり、信憑性は十分あるが、年代を明示しているわけではない。しかし、寛文五年(1665年)の4,5年前に内川入海新田(内川新田)開発が完成した(新田取立成就)と読めるし、宝六島新畠(砂村新田)が完成(取立)するよりも前に三浦内川入海新田(内川新田)が完成していたと読める。

砂村新田については新編武蔵国風土記稿に以下の記述がある。

(江戸時代後期、砂村新田の新四郎傍系子孫からの取材に基づくと推定される)

 

砂村新田ハ江戸ヨリノ里数一里余当村ハ相模国三浦郡ヨリ砂村新四郎ト云モノ来リテ万治二年原野及ヒ海岸ノ寄洲等ヲ切開キテ新田トナセリ

ここでは砂村新田の完成は万治二年(1659年)で、それよりも前に砂村一族が三浦にいたとされている。すなわち万治二年(1659年)以前に内川新田を開拓していた傍証となり得るが、開発後200年近くを経ての取材であることから、伝承による誤りを含んでいるかもしれない。

新編相模国風土記稿には以下の記述がある。

(江戸時代後期に砂村善六家または宮井与兵衛家から取材して記載された)

内川新田・・・・万治中砂村新左衛門と云ふ(摂州大坂上福島の人)官許を得て開墾す(当時高三百六十石余、今五百八十五石余に及ぶ)、同三年検地あり、初めは内川砂村新田と唱へ、延宝の頃より砂村の二字を除けり、是より先寛文十一年再検地して貢数を増加せり・・・

ここでは内川新田の最初の検地が万治三年(1660年)であると明示されている。これも開発後200年近くを経ての取材であることから、伝承による誤りを含んでいるかもしれない。しかし、史実的により確かな寛文十一年(1671年)の再検地の時期がしっかり記述されており、さほど信憑性が低いとも言えない。

今残る石碑には以下の記述がある。

(寛文七年の春に内川新田に建立された石碑に刻まれる新左衛門の言葉)

相州三浦内川入海新田并八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破樋八ヶ年間致苦勞盡工夫時依蒙佛神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現當二世安樂也 寛文七(未 丁)(三月 吉日)砂村新左衛門尉政次(敬 白)

これを素直に読むと門樋が一旦完成したのは寛文七年(1667年)の8年前すなわち万治二年(1659年)であって、新編相模国風土記稿の記述とほぼ一致するのである。

東京府最初の公文書である順立帳には以下の記事がある。

(明治初め砂村新田の新四郎子孫から東京府に差し出した請願文書)

武州葛飾郡砂村新田元名主金三郎若年ニ付伯父好三郎外壱人奉申上候 好三郎家之義者先祖相州三浦郡内川新田ニ而高七百石余開発いたし砂村新四郎と申代々名主相勤罷在候 其後摂州於上福嶋ニ高五百石余開発いたし代々名主相勤砂村太兵衛と申罷在候 其後萬治二亥年中当所新規致開発

ここで開発の順序は内川新田、上福島、砂村新田となっており、砂村新田の開発が万治二年(1659年)であるとされているので、内川新田はそれ以前の開発ということになってしまう。開発後200年を経ての別家の伝承に基づく記述であるので信憑性は高くない。しかし、砂村新田を開発する前に砂村一族が三浦にいたことを窺わせる記述ではある。

寛文六年連印証文(手形之事)

   (内川新田周辺の六村の名主が新左衛門に提出した念書)

次に示す文書は新左衛門存命中の数少ない文書である。

相州三浦郡内川入海之砂原、万治三年子ノ年より塩除土手石垣ニ御築廻シ、海を新田ニ御取立御普請被成候ニ付、所ニ而日負銀・駄賃・石垣之石并竹木・かや・なわ・土俵・其外万御買被成候代金共ニ、其時々ニ御払被成、慥ニ請取申候、村中共不残相済、少も出入無御座候事

この文書に書かれている万治三年(1660年)を工事開始時期と解釈するのか完了時期と解釈するのかは見解の分かれるところである。「万治三年子ノ年より」が「御築廻シ」を修飾するのか、「御取立御普請被成」を修飾するのかということであろうが、他の文書などの記述を総合すれば、完了時期とみなすほうが妥当であろう。

新左衛門の死後しばらくして内川新田に関わって隣村との出入(訴訟)が何回か起きており、その際提出された文書に開発の経緯が記載されている。

正徳二年内川新田と八幡村の出入(訴答状并取替証文)

(内川新田の主張)

内川新田之地主新四郎・新三郎申上候、砂村新田之儀は私共亡父新左衛門、五拾三年以前子年御公儀様江御請合申上取立、入用之分不残手前金を以新田開発仕候・・・

正徳四年内川新田と八幡村の出入(取替申証文之事)

(裁許結果を確認するため八幡村が作った写しにおける内川新田の主張)

相州三浦郡内川砂村新田新四郎・新三郎訴上候は、砂村新田之儀、五拾四年以前、私共親新左衛門八幡村地内之砂間を新田ニ奉願、御請負仕、手前入用を以新田開発成就仕候・・・・

完成時期を正徳二年(1712年)の文書では53年前すなわち万治二年(1649年)としているが、正徳四年(1714年)の文書では54年前すなわち万治三年(1650年)としているように見える。しかし前者における「子ノ年」は万治三年(1650年)のはずである。50年以上の経過年数は、伝聞ではいい加減になっている可能性が大きく、干支の記述のほうが信用できる。次の時代の出入の文書ではこのことが修正されている。

宝暦十二年八幡村(内川新田)と久比里村の出入(差上申一札之事)

(八幡村と久比里村の裁許結果への同意文書)

・・・入海之儀、往古干潟之節ハ葭・真菰空地ニ御座候処、万治三子年、内川新田名主新三郎・新四郎先祖新左衛門義入海空地新田ニ見立開発仕、高五百八拾石御高入ニ被仰付、御年貢上納仕・・・

宝暦十二年(1762年)は開発後100年を経ているためさらに伝承誤差を生む恐れがある。しかしそれぞれの訴訟は以前の訴訟を引用する形で進められており、上記文書が奉行所の裁許結果(公文書)の写しであることから、さほど信憑性の劣化はないと思われる。

次に、寛文年間に関する記録を見ることにしよう。

以上を総合すると内川新田の完成時期は「万治二年(1659年)の門樋完成ないしは同三年(1660年)の検地のときである」というのが最有力仮説であると言えよう。

寛文五年(1665年)には走水奉行が以下のような高札を建てたと伝わっている(高札写しが残されている)。

高札之写

   (走水奉行のお触れ)

一 内川新田并栗濱八幡原新田新畑望之者ハ新左衛門相対にて出作可仕候事

 一 右所々に植置竹木抜捨申もの於有之は早速御番所に可致注進候事

 一 新田新畑御縄入候場所江牛馬はなし作毛あらし申間敷候事

             寛文五年二月  奉行

これを素直に読むと、内川新田は寛文五年(1665年)にようやく完成したと理解することもできる。後の時代に書かれた新編相模国風土記稿には以下の記述がある。

これも、ここだけ読めば寛文五年(1665年)に内川新田が完成したかのように読める。しかし、新編相模国風土記稿は上記記述の間近に、万治三年(1659年)の検地のことを記述しているのであるから、寛文五年(1665年)の開発完了と言っているわけではない。

・・・潮除堤 海岸にあり、開発の時始て築けり(長七十間余高六尺) 堤上に碑あり、寛文五年建つ(開発の事跡を勒す、今文字剥落して読べからず) 潮除樋・・・・

寛文五年(1665年)には他にもいろいろなことが起きている。砂村新田の深川八幡の旧地(元八幡)に八幡を勧請した(現在の富賀岡八幡宮)のもその年である。また内川新田に水神社を建立したのも寛文五年であるという説がある(久里浜天神社伝、ただし新編武蔵国風土記稿では延宝年間との記述)。

これらを総合すると、万治三年(1659年)の検地で内川新田はお上から認められた、すなわち形式的には完成したのだが、本格的な耕作が始まり、村としての体裁が整い始めたのは寛文五年(1665年)であったのかもしれない。すなわち寛文五年(1665年)は新左衛門にとって「新田開発集大成」の年であったのだろう。奉行所の高札が建てられたことに始まり、開発の経緯を記した堤上の碑(今残る碑とは別物)を建て、寺社を建て、遺訓を書いたのがすべて寛文五年(1665年)のことであり、周辺隣村が境界確定や費用皆済を了承したのが翌寛文六年(1666年)であった。

しかし、そのような「完成記念事業」を多く実施したにもかかわらず、内川新田の心配な状態は解消しなかった。また一族の中での内輪もめも発生し始めていた(遺訓の記述)。そこでそれを心配した新左衛門は臨終の近くなった寛文六年(1666年)になって遺訓第二部を書くことになったのであろう。また依然としてたびたび壊れる内川新田の門樋の安全を祈念して笠塔婆の石碑を建てたのは、寛文七年(1667年)十二月の死の9ヶ月前のことであった。

上記の史料およびその考察に基づいて、筆者は

    工事が一段落したのは万治二年(1658年)に潮除けの門樋を作ったとき

   内川新田の形式的な完成は万治三年(1659年)の最初の検地のとき

    内川新田の村としての実質的な始まりは寛文五年(1665年)の高札が建ったとき

   寛文六年(1666年)から寛文七年(1667年)にかけては、新左衛門が新田と子孫の将来の安全と繁栄を祈ったとき

というのが、最有力仮説であると結論的に主張する。