その1 プロフィール その2 緑地の概要 その3 地域別、船橋市の風土(南部) その4 地域別、船橋市の風土(中部) その5 地域別、船橋市の風土(北部) |
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地域別、船橋市の風土(北部) 【今と昔】 船橋市のホームページによると、同市が誕生した昭和12年当時、北部の地域は豊富村という独立した村で、船橋市ではありませんでしたが、終戦後、町村合併促進法が制定されたことから、昭和29年に船橋市と合併し現在の船橋市となりました。前年には二宮町と合併していて、さらにこの合併により、船橋市の面積は約2倍の広さになりました。 資料によれば、旧豊富村の開発は平安時代に記録があり、現在の神保町辺りに伊勢神宮の荘園である萱田神保御厨がありました。約1000年も前からこの辺りには集落があり田畑が広がっていたものと思われます。 神保町から少し東に向かうと鈴身町があります。鈴身町は豊富村が船橋市と合併する以前までは「行行林」と呼ばれていました。一体なんと読むかお分かりですか?これは「おどろばやし」と読むそうです。昔、この辺りを歩いていると、行けども行けども林が続くので"おどろいてしまう”ことから、このような地名となっているそうです。 現在でも船橋市の森林は船橋北部に集中し、千葉県では緑地の保全のため、昭和53年4月に船橋県民の森を開園しました。 旧豊富村を外れ、少し南の地域は総じて丘陵地帯となっています。これは関東平野には富士山の噴火の際火山灰が堆積してできた関東ローム層があるためです。 江戸時代、この辺りは徳川幕府直轄の馬の放牧場でした。この関東ローム層による地質・地形が馬を放牧するのに最適だったようです。約2千頭もの馬が放牧されていたそうです。 その後、明治時代に入ると明治政府による開墾事業が行われ、二和、三咲などの土地が開墾されました。この「二和」や「三咲」の地名は、明治以降、二番目ないしは三番目に開墾された土地という意味です(*)。 昔、一面畑が続いていた二和、三咲は、現在、新京成線の駅ができたことに伴い宅地化が進み、畑が減少しています。 (*) 開発された順番が地名となっているものは、以下のとおりです。 初富 (はつとみ、鎌ヶ谷市) 二和 (ふたわ、船橋市) 三咲 (みさき、船橋市) 豊四季 (とよしき、柏市) 五香 (ごこう、松戸市) 六実 (むつみ、松戸市) 七栄 (ななえ、富里市) 八街 (やちまた、八街市) 九美上 (くみあげ、佐倉市) 十倉 (とくら、富里市) 十余一 (とよひと、白井市) 十余二 (とよふた、柏市) 十余三 (とよみつ、成田市) |
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紫色の部分が旧豊富村。 元々の船橋は、船橋町のみでしたが、昭和12年に葛飾町、法典村、塚田村、八栄村と合併し船橋市が成立。 終戦後、昭和28年に二宮町と合併。 翌29年に豊富村と合併し今日の船橋市となりました。 |
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【北部の野鳥】 このように、船橋市内における森林のほとんどはこの地域に集中しているため、野鳥の種類もキツツキの仲間であるコゲラやシジュウカラなど森林にいる鳥が多く観られます。また、キビタキやオオルリなど、普段は山奥にいて低地の雑木林では出会うことがない野鳥たちも、渡りのシーズンである春や秋に観ることができます。おそらく、彼らは渡りの途中で羽を休めるために少しの間滞在しているものと思います。 三番瀬もそうですが、船橋市はこのように渡り途中の野鳥たちの一時的な宿泊地であり、それ故に重要な意味を持つ場所であることが分かります。そして、これは船橋市が江戸時代、徳川家が鷹狩りで立ち寄る「宿場町」であったことを思い合わせるとなんだか不思議な気がします。 |
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【代表的な野鳥】 | ||
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コゲラ | シジュウカラ | キビタキ |
オオルリ | ||