6, a clumsy apology
彼を一目見た時から、私はその美しさの虜となった。顔立ち、ほっそりとした手足、天使の声はこうであろうと思わせるその歌声、何もかもが完璧であった。私は神に仕える身、生涯を神に捧げる決意をした者である。だが神は余りにも美しい少年を私の目の前に置き、誘惑した。
私に神の声は聞こえなくなった。神の姿も見えなくなった。ただイグナシオの姿だけが見え、その歌声だけが聞こえた。私の目は彼だけを追いかけるようになった。美しい少年は一瞬たりともそのままの姿でとどまってはいない。大輪のバラの蕾が少しずつ開いていくのと同じように、彼の美しさは日に日に増していった。芳醇な香りを振りまきながら、彼は花開いていく。その美しさを摘み取る者は一体誰なのか?
私の他にもう一人、イグナシオをじっと見つめる視線に気がついた。同じクラスのエンリケ、彼もまた聡明で利発な少年である。エンリケは少年らしい無邪気な心でイグナシオを愛している。彼は自分が摘み取ろうとしているバラの蕾がどれほど価値があるかなどまるで気づいてはいない。ただ目の前にある美しい花、ただ美しく気が合うクラスメートに過ぎない。神が作り出した完璧な美を、彼は子供らしい無邪気さでなんの考えもなく摘み取ろうとしている。
「お前達二人は罪を犯した。友人を救うためにはお前が罰を受けなければならない」
キリストの名を利用して、私はついにイグナシオを自分のものにした。純粋な少年はその痛みすら神の与える罰だと信じて耐え続けていた。まだ射精すら経験していないであろう幼い体の固い蕾を刺し貫かれる時、どれほどの痛みを伴うかは容易に想像できる。そして私もまた快楽ではなく、激しい痛みを感じた。のた打ち回るような痛みの中で彼を愛し、一つになろうとした。これは神から与えられた私の使命。イグナシオをイグナシオとして蘇らせ、その美しさを永遠に閉じ込めることができる者は私しかいない。
ユダはキリストを裏切って密告し、十字架へと近づけた。何故ユダは裏切り者になったのか?彼はキリストを憎んでいたのだろうか。いや、彼は誰よりもキリストを愛していた。愛していたからこそ神に選ばれ、辛い役割を自ら引き受けた。キリストが神となるためには、人間としては酷い死に方をしなければならない。それがわかっていたから彼は裏切った。愛する者が鞭打たれ、十字架にはりつけられた時、彼はキリストが感じた以上の苦痛を味わったに違いない。そして後の世には裏切り者として永遠に名を残す。それでも彼は神から与えられた使命を果たした。ユダの存在がなければ、キリストは神とはなれなかった。それともその時には別の者がその役割を果たしたのだろうか。
この世のものとは思えぬ苦痛の果てに、私はイグナシオと一つになった。キリストの死の間際、ユダはもがき苦しむ愛する者の魂を固く抱きしめていた。そしてついに死が訪れてその手を緩め、魂が昇っていくのが感じられた時、幸福に満たされたに違いない。私もまた同じ幸福に満たされた。
エンリケを退学にして、私はイグナシオとの関係を続けた。イグナシオの美しさは増していき、私は自分のとった行動が間違っていなかったと確信した。罰と言って呼び出せば、彼は素直に私の後についてくる。初めのうちはその幼い体は苦痛を感じるだけであったが、いつの間にか無意識に体を動かして、快楽を共有しようとしていた。彼もまた私を求めている。そして私はますます深くイグナシオに溺れていく。
私がしたことは罪であり、どのような理由を並べても決して許されたりはしないだろう。神の審判が下される時、地獄へと落とされる覚悟はできている。でも神の前で一言でも言い訳が許されるのなら、私はこう言うだろう。
「私は罪を犯しました。でも私の目の前に彼を置いたのは、あなたです」
−つづくー
後書き
すごい言い訳です。神の名を語り、キリストとユダまで持ち出して・・・信仰を持っている人が読んだら怒られるだろうな・・・・
でも、この映画を見て、キリスト教の信仰について自分なりに考えてみるきっかけになりました。すごく自分勝手な解釈ですが・・・・
2005、12、13
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