ハルパロスの逃亡(1)
長いゲドロシア砂漠の行軍を終え、ようやく小さなオアシスの村へとたどり着いた私達に喜びに浸る暇はなかった。ペルシャ人太守の使者から驚くべき話を聞いた。
「偉大なるイスカンダル王、お帰りを何よりもお待ちしていました。我が太守をはじめみな王をお迎えする準備を整えています。ですが街に着く前にどうしてもお耳に入れなければならぬことがあって馬を飛ばして参りました」
「そうか。だが兵士はみな長旅で疲れきっている。私はみなと一緒に天幕を張る場所まで行って先に休ませてもらう。話はここにいるヘファイスティオンに伝えてくれ」
「ヘファ・・・」
「ヘファイスティオンだ。スサに戻り次第大宰相に任命し政治や財政の細かいことを任せるつもりだ。私だと思って何でも報告してくれ」
「ですが・・・我が太守はいそいで王に報告しろと私を遣わし・・・」
「くどいぞ、私は疲れている。もう1人の私であるヘファイスティオンに知らせることをなぜためらう」
「申し訳ございません。ではヘファイス様、どうかこちらへいらしてください。伴の護衛は2人まで、なるべく多くの者には伝えるなと我が太守が・・・・」
「わかった、太守が望むとおりに私が話を聞き、そして王に伝える。それでいいのだろう」
「ヘファイスティオン、必ず今夜天幕へ来てくれ。バゴアスは下がらせておく」
「でも今から話を聞いたなら夜遅くになって・・・」
「かまわない。できるだけ早くその報告とやらを聞きたい。来る前にカラダヲキヨメテオケ。忘れるな」
マケドニア語で囁かれた言葉に耳が赤くなった。もう数週間アレキサンダーの天幕を訪れてはいない。飲み水すら確保できずに全体の半分以上の人間が倒れて置き去りにされた過酷な砂漠の行軍、そのようなことは考える余裕すらなかったが、迎えの者に差し出された水を飲み干し、体は蘇っていた。それに大宰相といえば王に次ぐ地位、いくらアレキサンダーに愛され信頼されていようと、家柄や今までの功績を考えればとても望めない位をサラリと言われたことに驚いていた。そして使者はアレキサンダーの態度から私もただものではないと悟ったのであろう。
「ヘファイスス様、お疲れのところ申し訳ありません。お足元にお気をつけて・・・・どうぞこちらへ・・・・」
おおげさな言葉で村の家へと案内された。
「ヘファイスス、待っていたぞ」
アレキサンダーの天幕の中は強い香油の匂いで満たされていた。彼は薄い絹の衣を軽く身にまとっただけで長椅子に寝そべり、赤ワインを入れた大きなカップを手で弄んでいる。
「まったく太守の使者なら王の名前ぐらいきちんと覚えろ」
「僕は王ではないし、よほど急いで馬を飛ばしてきたのだろう」
「俺にとってお前は王と同じだ。さあ飲め」
「でもこのカップはさっき君が飲んで・・・・」
「俺たちにとって昔からそんなことは関係なかった。お前の飲みかけたワインを俺が飲み、俺の手に触れたパンをお前が食べる。それだけではない、俺たちは互いに自分の手では決して触れない場所すら触り、口付けをかわしてきた」
アレキサンダーの手が私の腰に触れ、短剣のついたベルトをはずした。
「こんなもの俺の前では必要ないだろう」
「ここに来る前に君の言うとおり体を清め香油も塗ってきた。でも誰かが立ち聞きしているかもしれないから用心のため近くをまわって誰もいないか確かめた」
「ヘファイスティオン、お前はそんなにも俺を待っていたのか。砂漠を歩いてきたというのにもうベトベトに濡らして・・・お前のここは乾くということがないのか・・・・」
「アアアー、ま、まってくれ、僕はまだ・・・・」
いきなり彼の指に貫かれた私は大声をあげてしまった。オアシスで水が手に入るとはいえ砂漠を抜けたばかりの村、少し歩けば香油などすぐに乾いてしまい、指や体にまとわりついて離れない細かい砂粒が内部を刺激する。
「もっと大きな声を出していいぞ、ヘファイスティオン。お前はこんなにも俺を待っていた」
「僕はまだ・・・・無理だ・・・砂の粒が・・・・うわああー・・・」
「もっと大きな声でわめけ。そして俺の耳元で聞いた話を伝えるのだ。どうせ誰かが近くで聞いている。お前の嬌声ばかり聞こえればそのうちいやになって立ち去るだろう。まったくなんだあの使者は・・・それぐらいのこといちいち王に報告しなくても太守の判断でなんとかすればいいだろう。ちょうど俺達が来たからいいが、そうでなければあの使者も気の毒に、何日も待つことになった。いいか、ヘファイスティオン、俺は何日もがまんしたんだ。ああ、最高だ。やっぱり鍛え上げられた男と宦官では締め付ける力がまるで違う。特にお前のこの力は俺に強い敗北を感じさせる」
「ああ、アレキサンダー・・・・君は素晴らしい・・・世界の果てまでいこうと君ほど力強い男はいない・・・・ああー」
「それでだれのことを言われた」
「ハルパロスだ」
「詳しい話は終わった後だ。ああーやめてくれ、お前の力は俺をめざめさせてしまう。荒れ狂うティタンの神、心の奥底に潜む力が・・・」
「アレキサンダー、待ってくれ。無理だ、耐え切れない・・・・」
「もう遅い、お前は俺を目覚めさしてしまった。覚悟を決めて神の一撃を待つのだな」
「やめてくれ!・・・・あああー!」
どこまで本気なのかわからないアレキサンダーの言葉と肉体の攻撃を受け、私は何度も叫び声をあげた。体を引き裂かれるような強い衝撃を受けた後、しばらく意識が途切れた。
「すまない、久しぶりだったので俺もつい興奮した。気絶させるつもりはなかったのだが・・・」
「神の力を持つ君に人間の僕がかなうはずもない。どれくらい気を失っていたかわからないがもう話しても大丈夫じゃないか」
「そうだな、お前のあの悲鳴を聞けばもう話などできないと諦めて自分の天幕に戻っただろう」
「どうして君は僕を使って話を聞こうとしたの?」
「俺の心には荒ぶるティタンの神が住んでいる。直接話を聞いたなら怒り狂いすぐにでも軍隊を動かしてしまうかもしれない。ハルパロスの悪い噂は前から聞いていた。ヘタイラに入れ込み贅沢な暮らしをしていると・・・・だがまさかバビロンにあるありったけの財宝を船に積んで逃げるとは思わなかった。ハルパロスはミエザで一緒に学んだ友だ。子供の頃から足が不自由で一緒に戦うのは無理だとわかっていたが、それでもあいつは一生懸命だった」
「計算や法律の暗唱ではだれもハルパロスにはかなわなかった」
「そうだ。だからこそ一番の要であるバビロンの太守にし、遠征の間留守を任せた。不正があるという噂は聞いていたが、話し合って正せば済むことと思っていた。俺達は昔よくミエザで議論を戦わせた。夜が明け、時には3日3晩ろくに眠らずに話し合うこともあった。だから少しぐらいの間違いは俺がバビロンに行って説得すればいいと考えていた」
「でもそうではなく、ハルパロスのしたことは別の太守にすら知られてしまった。バビロンでは大騒ぎになっているだろう。あの使者が言うことには、バビロン太守の不正はもう他の太守にも知れ渡っているから一刻も早く軍隊を派遣してハルパロスの身柄を捕えた方がいいと考えているようだ。遠征軍では疲れているだろうから太守の私兵を使えばいい、そのためにもできるだけ早く王に来てほしい、そのようなことを言っていた」
「太守はほとんど元々治めていたペルシャ人をそのままその土地においた。ハルパロス以外にマケドニア人はいない、みなペルシャ人だ。次にクレイトスを太守にと考えていたがあのようなことになってしまった。ここでまたハルパロスを追うためにペルシャ人の兵を使えば太守の思うツボだ」
「アレキサンダー、それはそうだけどこのままハルパロスを逃がしてはしめしがつかない」
「これ以上古くからの友を討ちたくない。フィロタス、クレイトス・・・俺は間違いを犯した者に弁明の機会すら与えなかった。ミエザではあれだけ詭弁の方法を学び無駄な討論を繰り返したのに、実際の戦場や国づくりでは正義を貫けずにいる」
「戦場で敵に情けをかければ自分が殺される。遠征の途中で裏切る者がいれば処罰しなければ秩序は保てない。君は間違っていない。そうでなければ今こうしてここにいられなかっただろう」
「俺は神の子であり正義であるとずっと信じてきた。だがゲドロシアの砂漠はどうだった?今までのどの戦いよりも多くの兵士を失った。あの砂漠で俺たちは神の庇護を失った」
「アレキサンダー、僕達はあまりにも遠く旅をして、神が支配する土地を越えてしまったんだよ。でもこれでやっと戻ることができた。神が支配し守る土地では不正は正さなければならない。でなければ秩序は保てない・・・・」
「ではお前はその太守の考えどおり軍隊を使ってハルパロスの一行を追うのがいいと思っているのだな」
「君が辛いのなら僕が決断しよう。秩序を守るためにもハルパロスは追わなければいけない。そのためにはペルシャ人の力を借りることもやむをえないだろう」
「ペルシャ人を使ってマケドニア人を殺させるのか。どうも俺にはひっかかるところがある。とりあえず太守のところへはよらずにすぐバビロンへ向かおう。ハルパロスの噂や今回の話は誰かのしかけた罠かもしれない。バビロンへ行って真相を確かめるまでうかつに動かない方がいい」
「確かにそうだね。ペルシャ人の話だけではどこまで本当かわからない。君の言うとおりだ」
アレキサンダーは変わった。昔の彼ならば裏切りを聞いた時点で自ら追いかけ剣を抜いて自分の手で殺していたであろう。それなのにわざわざ私を間において話を聞き、バビロンで確かめるまでは動き出そうとしない。インドの戦いでブーケファラスを失い、砂漠で多くの兵士が命を落とした。走り続けてきた神の子がふと足を止め自分の前に広がる深い溝に気付いてしまった、どれほど激しく抱かれ力の差を見せ付けられ体の奥に叩き込まれても、私は前とは違う彼に不安を感じた。
−つづくー
後書き
久しぶりのアレキサンダー小説、長編の続きで考えていた話ですが前後の辻褄を合わせるのが難しいかもしれないと独立した話で書き始めました。題名はハルパロスですが主人公はアレキサンダーとヘファイスティオンです。インドでブーケファラスを失い戻る決意をしたアレキサンダー、遠征最初の頃とは激しさが変わってしまった頃起きたのがこのハルパロスの事件ではないかと考えました。公金使い込みのこの事件、遠征途中でも噂は聞いていただろうしバビロンを逃げ出してからもハルパロスはいろいろな人を巻き込みながらけっこうしぶとく生きている、追跡がそれほど厳しくなかったのではないかと思っています。そして彼を追いながらアレキサンダーの過去、両親との微妙な関係を書ければと思っています。
2009、11、10
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