ハルパロスの逃亡(8)

カッサンドロスはペラへと戻った。プトレマイオスやエウメネスなどは何か私に言いたいことがあるかのように遠くからチラチラと見ているのだが、直接話しかけてはこない。アレキサンダーがカッサンドロスに向けた怒りの大きさに驚き、私に対しても下手なことを言えば命がないと用心しているのであろう。ドリュペデスは侍女達から話を聞いてすぐにこの出来事を知ってしまった。姉のスタテイラの耳にも入ったであろう。それまで心優しい王と信じていたアレキサンダーの変貌振りにさぞかし2人の王女は驚いたに違いない。だが素知らぬふりをするのが懸命であろう。アレキサンダーは数日変わらぬ態度でスタテイラの部屋へと通っていた。

「今夜はお前の部屋へ行きたい。よいか?」

アレキサンダーの突然のささやきに私は喜んでうなずき、部屋にブドウ酒や菓子などを用意して彼が来るのを待った。遠征時と違い王宮では毎日のように湯を用意させて身を清めていたのだが、念のためもう一度奴隷に湯を運ばせ香油を用意した。

「ヘファイスティオン、すまなかったな。お前はドリュペデスのところにいくつもりだっただろう」
「彼女のところへはいつでもいける。僕も君と話したいと思っていた。声をかけてくれてうれしいよ」

私達はテーブルを挟んだ長椅子にそれぞれ向き合って座った。ミエザの寄宿舎や遠征時の天幕の中ではすぐ隣に座って互いに手を握り、息遣いを感じながら長い間話をしたのだが、今はどちらがというまでもなく自然と離れて座った。

「スタテイラの部屋を何度も訪れた。だがいつもこれくらい離れた場所に座っている」
「アレキサンダー、まさか君も・・・・」
「どれほど礼をつくしやさしく接しても彼女達にとって俺は憎い敵の王だ。そんな男に抱かれるのはさぞ屈辱であろう。だからしばらくはただ話だけをして様子を見ようと思った。ヘファイスティオン、俺は侵略だけが目的の残虐な王か」
「そんなことはない。君はただペルシャを征服しただけではない。ペルシャの文化を取り入れ、ペルシャ人の太守にはそのままその地方を治めさせ、ペルシャの王女を妻にした。普通戦で負ければ王族や力を持つ者は真っ先に殺され、女子供は奴隷となる。だが君はそうはしなかった。みんな君に感謝しているよ」
「ギリシャとペルシャの文化の交流、ペルシャ人の娘を妻とした民族の融合・・・・ハハハ、誰がそんな大それたことを考えた」

アレキサンダーは大きなカップに入ったブドウ酒を一息に飲み干した。奴隷が慌てて継ぎ足すとそれも飲み、抱えていた小さな樽を奪って自分でカップに注いだ。

「ちょっとまってくれ、そんなに急いで飲まなくても・・・・」
「心配するな。俺は今夜はどこにも行かない。お前と飲み明かす。もっと持って来い」
「だめだ、アレキサンダー。これくらい飲めば充分だ。君は酔うと手がつけられなくなる。もう下がっていいぞ」

私は側に立っていた奴隷を別の部屋に行かせた。アレキサンダーの顔は赤く染まっている。これ以上飲ませない方がいい。

「奴隷を下がらせたということはお前が相手をしてくれるということか」
「もちろんそのつもりだ」
「ならば隣に座って酒を注げ。女のようにな」
「アレキサンダー・・・・・」

私は彼の隣に座った。

「お前は俺が怖くないのか。カッサンドロスを殺しかけた男だぞ」
「君を怖がるなんて・・・・」
「すぐにこの話は王宮中に広まった。スタテイラはひどく怯え俺と目を合わせないようにしていた。無理もない、小さなことで怒り狂い昔からの友人ですら殺す男だからな。クレイトスもそうだった。酒の上での口論だというのに殺してしまった。カッサンドロスだって・・・・」
「あれはカッサンドロスがいけない。太守の前で君を侮辱するなどもってのほかだ」
「だが冷静に対処すればよかったのだ。カッサンドロスの言葉など2,3日牢に閉じ込めて冷静にさせ、それからあいつの言い分を聞けばよかったのだ。わざわざこんな遠くまで来たからにはアンティパトロスのことで何か話があったに違いない。それを話も聞かずに・・・・俺には狂気の血が流れているのか?」
「そんなことはない。君に狂気の血など流れていない」
「気休めを言うのはやめてくれ。俺の体に流れる血はアキレウス、ヘラクレスと同じもの、アキレウスはパトロクロスを殺された恨みでヘクトルの死体を馬車で引きずった。ヘラクレスは狂気にとり憑かれ自分の子を殺した。激しい感情で我を忘れる、これこそ狂気だ。父上は昔俺を英雄が描かれた洞窟に連れて行きこう言った。神々は嫉妬深い、英雄はみな栄光を手に入れた次の瞬間奈落の底に突き落とされる。ある者は狂気にとり憑かれ、ある者には死の影が忍び寄り・・・・父上もそうだった。ようやくギリシャを統一できたと思った次の瞬間暗殺された。俺もペルシャを征服し、世界の果てまで行って帰り、民族の融合を果たそうとしている。だが待ち構えているのは神々の嫉妬、それを知らせるためにカッサンドロスはやってきたのかもしれない。いや、フィロタス、クレイトス、ハルパロス・・・・あいつらはみんな驕り高ぶるなと俺に警告してくれたに違いない。それなのに俺は・・・・・」
「アレキサンダー、落ち着いて。君は飲みすぎているよ。カッサンドロスのこと、確かにやり過ぎだと思うが、それをうまく止められなかった僕にも責任はある。君の側にいる僕がいつも君を止めなければいけない」
「そうか、ヘファイスティオン、お前は俺の荒ぶる心を鎮められるのか」
「君はアキレウスやヘラクレスに負けないほどのことをやってのけた。神々は嫉妬するかもしれない。君に流れる英雄の血は時に狂気も呼ぶであろう。でも僕はそんなことは怖れない」
「お前は俺を怖れないのか」

アレキサンダーは強く私の手を引き、唇を求めてきた。愛し合う者同志のやさしい口付けとは違う。噛まれた唇から血が流れ、私の歯はこじ開けられ舌を捻じ込まれる。拷問にも等しい行為に私は思わず彼の背に爪をたてた。アレキサンダーの口から声が漏れ、目が妖しい光を帯びた。

「俺の体には荒ぶる神と英雄の狂気の血が流れている。それでもお前は俺を受け入れるか」
「君を愛している。どんな時でも・・・・・」






私はアレキサンダーの手で服を剥ぎ取られうつ伏せの状態で手足を広げてベッドへとくくりつけられた。彼は隣の部屋で控えている奴隷達を遠くへと行かせた。

「今ならまだ間に合う。お前がいやだと言うなら俺は自分の狂気を封じ込めておく。それはいつまた他の人間に向けられるかわからない。俺の狂気を受け入れる気はあるか」
「僕は君を愛している。君が神々に嫉妬され狂気を送り込まれるのなら僕がそれを受け入れよう」
「いいだろう、左手はゆるめておく。もし耐え切れなくなったらこの手をあげろ。それで終わりとする。声は出させない」

私の口には布が押し込められ、さらに上から猿轡をつけられまったく声は出せなくなった。左手は手の平を持ち上げるくらいはできるが他の手足はまったく動かせない。鋭い痛みを背中に感じた。アレキサンダーが手に持った鞭が何度も背中に当たり、その度に体を震わせた。声はまったく出せない。少しでも痛みから逃れようと体を大きくのけぞらせた。何度か打たれて鞭の音は止まった。背中が痺れるように痛み、目から涙がこぼれる。

「お前はフィロタスに何をした。鞭だけではないだろう」

アレキサンダーは憎しみに満ちた目で私を睨みつけた。私は動かせる首を横に振った。狂気を宿した目、次は何をされるかわからない。左手を動かせば・・・・だが、もがいたために紐が締め付けられたのか全く動かせない。壁にかけてある松明の1本をアレキサンダーは手に持った。たっぷり油を染み込ませてある松明からは大きな炎が出ている。

「やめてくれ、アレキサンダー。手が動かない。そんなことは耐えられない」

必死で叫ぶが口に詰められた布と猿轡で声にはなってない。私はフィロタスを拷問する時松明の炎を使った。数十回鞭で打たれても呻き声一つ上げずに耐えた強情な男が、炎の拷問で泣き喚き自分の罪をすべて認めた。動けなくなるほど長い間体に火をつけたわけではない。火傷の痕がわずかにつく程度、それでも耐えがたい苦痛だったのだろう。意識を失ったフィロタスに水をかけ、私は再び拷問を続けた。パルメニオンの関与を聞き出すためである。フィロタスは泣いて許しを乞うが父が関与したとは最後まで言わなかった。私の体は小刻みに震えた。

「フィロタスは将軍の子として厳しく育てられた。戦場で自分も血を流しながら多くの敵を殺していた。それだけの傷を負ったら俺ならば意識を失っただろう。それほどの男が泣き喚くような拷問をお前はしたのだろう。俺を愛しているから・・・・俺のため・・・・・違うな、お前はフィロタスの才能を妬みその地位を奪いたかっただけだ」

アレキサンダーの声や顔つきはいつもとは違う。カッサンドロスの頭を壁に打ち付けた時と同じ・・・・狂気にとり憑かれている。・・・・・あの時は周りに大勢の者がいて止めることができた。でも今は誰もいない、アレキサンダーと2人だけ・・・・

「お前は俺を破滅させるために生まれてきたのかもしれない・・・・もう1人の自分・・・・そうやって忠実な側近のふりをして俺の命を狙っているのだろう。カッサンドロスと何を話した?俺を怒らせ隙を見て殺そうとでも考えたのか?」
「違う、アレキサンダー、一体どうしてこんなこと・・・・やめてくれ・・・・・」

私は必死で叫ぶがもごもごとくぐもった音にしかならず言葉として聞こえない。松明を手にした彼が近づいてきた。目を閉じ体を固くした。背中に激しい熱さを感じた。

「ぎゃあああー・・・・うわあああー・・・・やめてくれ、あああああー」

悲鳴ははっきり私の耳にも聞こえた。松明の火は一度遠ざけられた。火傷をしたのは背中の一部分のはずなのに何箇所もズキズキと痛み涙が出た。

「お前は感じやすいんだな。ならばあの場所では・・・・・」

ニヤリと笑う彼の顔、次はもっと下半身に火がつけられる・・・・私は暴れまわったが紐はますます固く手首に食い込むだけであった。

「やめてくれ、お願いだ」
「お前はフィロタスにも同じことをしたんだろう。もっともその後で陵辱はしてないだろうが・・・・フフフ、それもまた一興だ。焼け爛れて血と膿を流して熱くなったお前はどんなふうに俺を締め付けるか・・・・」
「やめてくれ・・・・うわあああー・・・・・・」

あまりの熱さに絶叫し暴れまわった。自分では見えないが火傷を負ったその部分が鋭い爪でこじ開けられた。キリキリとした痛みに目を閉じた。額から脂汗が流れ、貫かれる衝撃を感じるたびに絶叫して喉から血を出した。体を捩り暴れればますます強く貫かれる。皮膚は引き裂かれ血がダラダラ流れているのがわかる。腰に何度目かの強い衝撃を受けた時、ようやく私は意識を失うことができた。







目を開けると側に腰掛けているアレキサンダーの顔が見えた。ベッドに寝ている。手足は自由に動かせ縛られてはいない。夢だったのだろうか。だが背中とその下が酷く痛む。口の中には何も入ってないが血の味がする。

「夢ではない。俺の狂気がお前を傷つけた」
「アレキサンダー・・・・・」

喉がひどく痛くかすれた声しか出ない。仰向けに寝かされていたのだが、痛みに耐え切れず横になって体を丸めた。アレキサンダーは毛布をめくって手の平で私の背をゆっくりとなぞりその場所で止まった。私は呻き声をあげた。

「なぜお前にこんなことをしてしまったのか俺にはわからない。俺は戦場で多くの敵を殺した。拷問や処刑にもできるかぎり立ち会ってきた。俺の狂気はそれで満足していたのかもしれない。だが戦いが終わった今・・・・・ハルパロスのしたことは正しいのかもしれない。戦いは狂気にとりつかれた者に任せ、自分は女を愛し贅沢に暮らした。でもそれでこのバビロンには平和がもたらされていたのかもしれない。享楽的な王でけっこう、それでペルシャ人もマケドニア人も、そしてギリシャから連れてきた女達も幸せに暮らせるなら・・・・だけど俺は再びこの地を戦場にするために戻ってきた。戦いがなければ俺の狂気が暴れ出し周りの者を傷つける。ヘファイスティオン、お前はもう俺から離れた方がいい。どこかよい地方の太守に任命するからそこでドリュペデスと静かに暮らせばいい。そしてもし俺がスタテイラやロクサネを傷つけ、自分の命も失うようなことになるなら王位はお前に譲ろう。お前の子はペルシャ王族の血を引く。誰も文句は言わない」
「アレキサンダー、そんなこと・・・・僕は君の側を離れるようなことは決してしない」
「俺のそばにいれば命を失うだけだぞ」
「それでもかまわない。君の狂気は僕が受け止める。僕は君と一緒にずっと戦ってきた。マケドニアを追われた時、ペルシャとの戦い、インドの密林や砂漠、あらゆる場所で一緒に戦ってきた。君の行くところどこへでも僕は行くつもりだし、それはこれからも変わらない。君が狂気にとり憑かれたら、そんな時こそ僕がいなくては危ない。神々は英雄に嫉妬して奈落の底に突き落とす。僕は君のどんな狂気も受け止めるつもりだ」
「ヘファイスティオン・・・・・だがそれではいずれ早いうちにお前を失い孤独に苦しむことになる・・・・・こんなにも愛していながら傷つけてしまうとは・・・・」

アレキサンダーは横を向いて目をそらせた。私はベッドから立ち上がり彼の横に腰を下ろした。激しい痛みに小さな呻き声が出た。

「ヘファイスティオン・・・・お前の体は・・・・・」
「大丈夫、君から与えられた痛みは僕にとって喜びでもある。初めての戦いがある時僕は君から力と勇気を与えられた。君が僕を殺すなんてありえない。僕達は共に生き共に死ぬように運命付けられている。どれほどの嫉妬や呪いを受けようとこの絆を断ち切ることはできない」
「お前は俺にとって・・・・・神・・・・・・なのかもしれない」
「神だなんて・・・・まるで僕が死んだようだ」
「あ、そうか。悪いことを言った」

彼はようやく笑顔を見せた。私も微笑を返した。だがその時予感した。私はアレキサンダーよりも先に死んで彼の神となる。それはいつなのか。できるだけ遅らせなければならない。私の死でアレキサンダーの狂気を受け止める者がいなくなれば・・・・・





                                    −つづくー



後書き
 自分でも思いがけない展開になってアレキサンダーの狂気をヘファイスティオンに向けてしまいました。彼は生涯の大半を遠征で過ごし、戦いと厳しい自然に晒されていたので、逆に王宮で贅沢な暮らしをしている時にこそ狂気を宿してしまうのではないかと考えてみました。



2010 2 9





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