風のジェラシー(13)
フィリッポス王が暗殺された原因について、さまざまな噂が流れた。一番多いのはパウサニアスの個人的な恨みであろうという説だが、アレクサンドロスやオリンピュアス王妃が関係しているだろうという話もあった。王妃の美しさに迷ったパウサニアスがこっそりディオニュソスの秘儀をのぞいて捕えられ、命と引き換えに暗殺を命じられたという話もあった。その他にもテーバイのしわざだ、アテネのディモスティネスが関係あるらしい、いやペルシャの陰謀だ、などとありとあらゆる話が囁かれた。そんな中、怖ろしい事件が起きた。
「アレクサンドロス、いいものを見せてあげるわ。ちょっといらっしゃい」
オリンピュアス王妃に言われて僕達はついていった。王宮の隅のオリンピュアス王妃や他の王妃、侍女達などが暮らす部屋が並んでいる。その一つの部屋に王妃は鍵を開けて入り、僕達を中に入れるとすぐ内側から鍵を閉めた。昼間だというのに部屋の窓は厚いカーテンが閉められて暗く、いやな臭いがした。
「母上、ここはだれの部屋ですか?なぜこんなところに・・・・」
「上を御覧なさい。お前と私をさんざん苦しめたエウリディケがいるわ」
僕達は同時に上を見て、小さな声をあげた。天上からぶらさがった女の死体、エウリディケのものであった。そのすぐ下には小さな女の子の、死体がむぞうさにころがっている。
「母上が殺したのですか」
「いいえ、あの愚かな小娘は自分で死んだのよ。私が赤ん坊を奪い取ったら、あの小娘、どうかこの子の命だけは助けてくださいと、泣きながら跪くのよ。私は言ったの、それならお前はこの紐を首にかけ、自分の命を絶ちなさいと・・・ホホホ・・・王を誘惑したのになんてバカな小娘、私が赤ん坊を助けるとでも思ったのかしら、言われるままにすぐに首を吊って、ああして惨めな姿をさらしたのよ。私は泣き叫ぶ赤ん坊の首をゆっくりと絞め・・・ホホホ・・・エウリディケは気付いたのよ、子供も殺されるって、でももう首が絞まっていて声を出すこともできない・・・赤ん坊とどっちが先に死んだのかしら・・・この私とお前を追い出そうとするから・・・バカな小娘・・・」
「なんてむごいことを・・・母上は・・・・」
「あら、お前のために当然のことをしたまでよ。よく見ておきなさい。こうして復讐は果たされるものなのよ」
「父上を殺したのも母上ですか!」
「違うわ、パウサニアスよ。お前も見ていたでしょう。間違いなく彼が殺したのよ」
「でも母上が指図した」
「私が?バカバカしい、なんのために・・・・」
「エウリディケに男の子が生まれれば、父上はその子を跡継ぎにしてしまうかもしれない。そうならないために・・・」
「みんなそう言っているわね。でもそれは違うわ。フィリッポスはかわいがっていた小姓に殺されたの。いろいろ手を出すから、恨まれるのも当然よ。私一人ではないわ。でもフィリッポスが死んでくれてよかったわ。これで私のかわいい息子、アレクサンドロスがマケドニアの王になった。マケドニア国王、なんて素敵な響きでしょう。お前は私の思い通り立派な男になり、王になってくれた」
オリンピュアス王妃はアレクサンドロスの頬をなで、唇にキスをした。
「触らないでください!たった今、こんな小さな子どもを殺した汚れた手で・・・・」
「母は子を愛し、守ろうとするものなのよ。あのエウリディケでさえ、子を守ろうとして自らの命を絶った。女は子を守ろうと命を絶ち、子によって蘇るものなのよ、かわいいアレクサンドロス。私はお前を誰よりも愛しているわ」
「やめてください。その手で一体何人殺したことか」
「何人殺そうと、みんなお前のためなのよ。わかってちょうだい。私が愛するのはこの世界でただ一人・・・」
悲痛な呻き声が聞こえた。アレクサンドロスが床に倒れ、胸を押さえている。
「どうしたのです、アレクサンドロス。誰かがお前に毒でも・・・・」
「違う・・・母上が・・・母上が・・・何もかも俺の人生をメチャクチャに・・・助けてくれ・・・ヘファイ・・・うわあああー」
怖ろしい叫び声をあげて彼は部屋の中を走り回った。
「アレクサンドロス、落ち着きなさい。大声を上げたら誰かが変に思うでしょう。お前はもうマケドニアの王なのよ。王にふさわしい・・・」
「やめてくれ、はなしてくれ・・・うわあああー・・・・体が熱い・・・燃えるように熱い・・・・助けてくれー」
激しく暴れた彼は鍵を開き、部屋の外へと出て行った。僕もすぐに後を追った。叫び声は突然途絶えた。アレクサンドロスは廊下で倒れて意識を失っていた。
「こちらから異様な声が、何があったのです」
大臣のアンティパトロスが数人の従者と一緒に駆けつけた。
「アレクサンドロス王が、いろいろ心労が重なり、倒れてしまった。それに王妃が・・・」
「わかった。後のことは私に任せて、王をすぐ部屋につれていきなさい」
「でも、オリンピュアス王妃が・・・・」
「私はアレクサンドロス王が不利になるようなことは決してしない」
力強い言葉で言われ、僕は従者と一緒にアレクサンドロスの体を彼の部屋へと運んだ。途中で意識を取り戻した彼は苦しそうな呻き声をあげた。
アレクサンドロスは何日も高熱にうなされ、苦しんでいた。医師を呼び、何種類もの薬を試したが効果はなかった。僕は彼につきっきりで看病していた。アンティパトロス大臣が部屋に入ってきた。
「申し訳ございません、アレクサンドロス王。どうしても王のサインが必要なのです」
「王、父上なら書斎にいないか。遠征に出たという話は聞いてない」
「何をおっしゃいます。フィリッポス王は、パウサニアスによって殺され、今はあなたがマケドニアの王なのです」
「ああ、そうだった・・・私が王なのか・・・この手は怖ろしいほど血に染まっている・・・アンティパトロス、この手が何色に見える?真っ赤だろう・・・生まれて間もない子が・・・母親が天井からぶらさがり、その血と汚物にまみれた子が・・・笑っていた・・・こんな顔して笑っていたんだよ・・・」
「しっかりしてください。フィリッポス王が亡くなられ、みな気が動転しております。若いエウリディケなど、悲しみのあまり自分の子を殺し、後を追って自ら命をたってしまわれました。オリンピュアス王妃も感情の起伏が激しく、医師と相談して、お薬を飲んでいただいているのです。あなただけではありません。フィリッポス王の死に、みながおかしくなっているのです」
「かわいそうなエウリディケ、父上に愛されたばっかりに・・・」
「彼女の遺体は、フィリッポス王の隣に丁寧に埋葬いたしました。どうかあまり気になさらずに・・・ただエウリディケの死を知らせるとアッタロスが何をするか不安です。一足先にパルメニオン将軍に知らせて・・・」
「アッタロスを殺させるのか。それを認めるサインが欲しいというのだな」
「よくおわかりで・・・」
「サインでよければいくらでも書く・・・どうせこんな王位は長続きしない。俺もまたすぐに誰かに殺される・・・そうでなくても、復讐の女神はほら、あんな近くに見えている・・・復讐の女神が・・・・母上の側に行ってくれればいいものを・・・」
「アレクサンドロス王、気を確かにお持ちください。では私はこれで失礼します」
昼も夜もアレクサンドロスの呻き声は続いた。僕はその体を冷たい水で冷やし、隣に横たわって体をさすった。彼の細くなった腕が僕の体に伸びた。
「ヘファイスティオン、側にいてくれ・・・俺はどんな国の、どんな敵でも恐れることはなかった・・・でも、今は怖い・・・復讐の女神にとりつかれ、どうしたらいいかわからない。時々体が燃えそうに熱くなり、頭が割れそうにいたくなる。何も考えられなくなり、口からは思ってもいない言葉が飛び出す。どうしたらいい・・・」
「代われるものなら、僕が君の代わりに苦しみを受けたい。体が燃えるような熱さも、頭が割れるような痛みも、君のためなら耐えられる。でも僕が代わることはできない。ただこうしてそばにいるだけだ」
「お前は俺が怖ろしいとは思わないのか」
「何があっても、君が君であることに変わりはない。この病が治ったら、一緒に遠乗りに出かけよう。馬に乗ってどこまでも走ったら、きっと君の気分も晴れると思う」
「お前はそばにいてくれるんだな。母上のあんな怖ろしい姿を見た後でも・・・」
「何があっても君のそばにいる。約束するよ」
数日後、また新しい事件をアンティパトロス大臣より知らされた。
「アレクサンドロス王、大変です。アミュントス様が自害されて亡くなられました」
アミュンタスというのはアレクサンドロスのいとこで、フィリッポス王の兄で前の王だったベルディッカス王の息子である。王族ではあったが、これといった役職も与えられず王宮から離れた場所でひっそり暮らしていた。
「遺書もあります。ごらんください」
「これは本人が書いたものではないな」
「そうかもしれません、ですが目を通してください」
「ヘファイスティオン、声を出して読んでくれ」
「はい、私は父を早くに亡くし、いつもフィリッポス王を恨みに思っていました。フィリッポス王さえいなければ、いくら年が若くても、私が王になれたからです。でもそれはかなわず、長い間、機会を狙っていました。パウサニアスが恨みを抱いていると知り、彼を利用して王の暗殺を企てました。けれども心の弱い私が王になるなど、到底無理な話でした。目的を果たしたすぐ後には復讐の女神に追われ、精神を病み、苦しみのあまり死を決意しました。私が自分で引き起こした騒ぎです。ですがどうかこの罪を私に関係する者には負わせないでいただきたいと、ただそのことのみをお願いいたします。アミュントス」
「それで私はどうすればいいのだ、アンティパトロス」
「お体の具合がよくなられましたら、テーバイを攻めてください。テーバイが反乱を起こし、今すぐにでもマケドニアに攻めてきそうな勢いです」
「テーバイめ、こんなに早く条約を破って・・・フィリッポスのいないマケドニアなど怖れることはないとでも思っているのか。マケドニアにはアレクサンドロスがいる。すぐに遠征の準備をしろ」
「しかしアレクサンドロス王」
「私の体の心配などしなくてよい。熱にうなされていても指揮ぐらいはとれる。いや、戦いもできる。マケドニアにはアレクサンドロスがいることを思い知らせてやれ」
「かしこまりました」
アンティパトロスは部屋を出て行った。
「アレクサンドロス、本当に大丈夫なの」
「心配するな。ブーケファラスと一緒だ。あれの背に乗って走れば復讐の女神も追いつけなくなる」
「もっと早く君を馬に乗せるべきだったのかもしれない」
「いや、お前がそばにいてくれたから、俺は自分を支えることができた。自分を見失わずにいられた・・・」
「この遺書は・・・・」
「気の毒なアミュンタス。王族であるというだけで真犯人にしたてられ殺された。でもこれで俺や母上の噂は少しは減るだろう。ここにとどまっていれば、また噂や陰謀に巻き込まれてしまう。テーバイへ行こう」
「そうだね、テーバイへ」
彼の体に触れると、熱はかなり下がっていた。でもげっそりとやせこけ、強く抱けば折れそうな体になっている。
「元の体を取り戻すためにも、俺は戦わなければならない」
−つづくー
後書き
オリンピュアス王妃のエウリディケへの復讐、そういう場面を書くと自分のおりん的部分がはっきり出てきて怖いです。フィリッポス王が暗殺されてから、遠征に出るまでも映画では省略されていたけれど、実際にはかなりいろいろなことがあったのではないかと思います。
2006、1、31
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