風のジェラシー(2)

怖ろしい光景を想像して僕は思わず目を閉じた。アレクサンドロスが馬に踏み殺される!それなのに僕は助けにいく勇気もない。

「何をおそれている?怖がらなくていい、ここにはお前が怖れるものなど何もない。僕の目をよく見ろ」

僕は恐る恐る目を開いた。アレクサンドロスは馬に語りかけている。

「そうそう、いいか・・・・そうか、わかったぞ、お前はこの黒い影を怖れているんだね。黒い悪魔が今にも食いつきそうで怖いんだろう。これは悪魔じゃない。太陽の影、アポロンのいたずらさ。でもお前にはこの影が怖ろしいものに見えてしまう。僕もそうだよ、いつも黒い影に襲われて、ここにはいられない、どこかに逃げなければと思ってしまう。お前と同じ黒い影に怯えている」

アレクサンドロスが怯える黒い影、そんな話を彼から聞いたことはなかった。僕の知っているアレクサンドロスはいつも太陽のように明るく、強くて堂々としていた。影に怯えるアレクサンドロス、そんなのはアレクサンドロスではない。

「僕を乗せてくれるかい?そうだ、一緒に走ろう。お前をブーケファラスと呼ぶことにする。最強のものという意味だ。ブーケファラス、お前と僕が一緒になった時、その力で世界は圧倒される」

ヒラリと馬に飛び乗り、そのまま駆け出した。市場を抜け、山の方へ向かって走っているアレクサンドロスの姿はもう見えない。声を聞くこともできない。それなのに僕は感じている。今アレクサンドロスがどれほどの興奮をもって馬の背の上にいるか・・・ふりそそぐ日の光、草の匂い、馬の鼓動、彼が走っているのはマケドニアの野山ではない。遠いトロイの平原を、神々が人間を作ったばかりの太古の世界を自由自在に走り回っている。彼の見るものは僕にも見え、同じ声が聞こえる。けれども僕の心は今の彼には届かない。ずっと前から一緒にいたのに、僕はその影を知ることもそこからときはなしてあげることもまったくできずにいた。





「素晴らしい!わが息子アレクサンドロスはなんて素晴らしいんだ!皆の者、よく見るがよい。これがわが跡継ぎ、ティターン神族の血を受け継ぐわが息子、アレクサンドロスだ!」

もどってきたアレクサンドロスをフィリッポス王が高く抱きかかえた。大きな歓声とどよめきの声が上がる。

「フィリッポス王、アレクサンドロス王子は素晴らしい跡継ぎですな」

大臣の一人のアッタロスが、無理に微笑みを浮かべて王の機嫌をとっている。彼は本当はエペイロスから来たオリュンピアス王妃の子であるアレクサンドロスではなく、マケドニア人の娘を王妃にしてその子を跡継ぎにしろといつも言っているが、こんな場面ではアレクサンドロスを認めざるをえない。

「素晴らしい乗馬の腕前でした」
「そうだな、クレイトス、じきにお前など追い越されてしまうぞ」
「もうとっくに追い越されています。あのような乗り方ができる者は他にはいません。フィリッポス王とアレクサンドロス王子だけです」
「アレクサンドロスは完璧な俺の跡継ぎだ。不満と言えばオリュンピアスの血を引くということだけ・・・」
「王、王妃様が近くにおられます」
「うまいこと言っといてくれ、お前のことはオリュンピアスも気に入っている」
「申し訳ございません。私は王妃様はどうも・・・」
「苦手だというのか・・・・ハハハ、まあよい、俺も苦手だ・・・・お互い気が合うな、クレイトス。お前とは何から何までぴったりあって怖いくらいだ」
「フィリッポス王、王子の前でございます」
「気にするな・・・これもすぐにわかる時がくる。アレクサンドロス、オリュンピアスのところに行ってこい。うれしそうな顔で待っているぞ」
「は、はい」

アレクサンドロスの輝くような笑顔はフィリッポス王とクレイトスの言葉でたちまち曇ってきた。彼は泣き出しそうな顔で、少しだけオリュンピアス王妃のところに挨拶にいくと、すぐに僕の方にやってきた。

「ヘファイスティオン、俺もわかっている。わかっているけどさ・・・父上と母上が仲悪いこと、アッタロスが俺のことどう思っているか、父上とクレイトスが何をしているか、全部わかっているよ」

僕は彼に声をかけ、慰めたかった。できるなら、僕の胸の中で泣いて欲しかった。でも大勢の人がいる場所でそんなことはできない。

「アレクサンドロス、馬が、なんて名前だっけ、ブーケ・・・」
「ブーケファラス」
「そうそう、ブーケファラスがさっきから心配そうに君のこと見ているよ」
「そうだった、俺にはブーケファラスがいるんだ」

彼はもう一度馬に飛び乗った。今度は走らせることなくゆっくりと歩かせて人込みを離れ、ペラの王宮へと戻っていく。僕も慌ててその後を追った。

「ブーケファラス、わかるか、僕の周りには黒い影がたくさんあるんだよ。お前が怖れる影はアポロンのいたずらだけど、僕の影は昼も夜も決して消えることはない。僕はどうすればいい?誰を愛すれば・・・・お前を愛すればいいのかな、人間はわからない。にこやかな顔をしていても心の中では何を考えているんだか・・・ブーケファラス、お前と一緒の時、僕は別の景色を見たよ。僕とお前にしかわからない別の世界を僕達は走っていた」

僕もわかるよ、そう話したかった。僕だってアレクサンドロスの心を感じることができる。同じ景色を見ることができるんだよ。そう叫びたかったが口をつぐんだ。今彼が語りかけているのは僕ではなくてブーケファラスなのだから・・・今彼の目は僕の姿などちっともとらえてはいない。ずっと一緒に育った僕とアレクサンドロス。でもこの時始めてお互いが別の人間であることを知ってしまった。もう一度同じ人間のようになるにはどうしたらいいのだろう・・・

「おーい、ヘファイスティオン、疲れたのか?代わりに馬に乗って帰るか」

遠く離れた場所からアレクサンドロスの声が聞こえた。いつの間にか見失ってしまうほど彼との距離は離れてしまっていた。



                                                 −つづくー


後書き
 ジェラシーどころか、ヘファの心、アレクにはちっとも届いていません。まあアレクにしてみればヘファは空気のようにいてあたりまえの存在になっているのかも知れませんが・・・
2006、7、26


目次へ戻る