風のジェラシー(9)

僕達は戦場へと向かっている。初めて身につける鎧兜は重くて身動きがとりにくい。それでなくても乗馬が得意でない僕は、皆に遅れまいと必死で手綱を握っている。

「ヘファイスティオン、そう悲壮な顔するなよ。見ろよ、天気はいいし、馬を走らせるのにちょうどいい草原が続いている」
「そ、そうだけどさ。今日のキャンプ地まではあとどれくらいあるの?」
「今日はかなり遠くまで行けそうだな。歩兵隊とは別れて騎馬隊は先に進むと思うよ。お前の馬、なんか元気がないな。ちゃんと世話しているか?」
「も、もちろんだよ」
「ちょっと一緒に来い。話をつけてくる」

アレクサンドロスは僕達の隊の指揮官に簡単に何か伝えると、すぐに戻って来た。そして馬に何か囁くと、皆が進むのとは反対の方向へ走り出した。彼の後ろ姿は見る見る小さくなっていく。僕も慌てて自分の馬を走らせた。手綱にしがみつきながらもアレクサンドロスに追いつくために視線を遠くの方に移し、胸を上げた。体中に風が向かってくるのを感じる。春の風は暖かく、寒さは感じない。草の匂いがする。蹄の足音が心地よい。僕はただアレクサンドロスの姿だけを追いかけた。手綱を握る手が痛い。光の中、彼は草原をケンタウロスのように走り抜けていく。彼を見失ってはいけない。空が赤く染まり、遠くの山が黒い影に見える頃、ようやく彼は止まった。すぐ近くに別の道を通ってきたらしい騎馬隊が到着した。僕の乗馬用の手袋は血で真っ赤に染まっている。

「お前はまだ完全に馬を乗りこなせていないんだよな。力が入りすぎているし、馬に余計な負担をかけている。それでもこれだけ走れば少しは慣れただろう」
「うん・・・・」
「戦場では武器を手にしたまま走り回らなければならない。何度も訓練をしたからわかっているだろうけど・・・」
「うん・・・・」
「でもお前は、ずっと後方部隊にいればいい。前の方には出るな。ただ戦いの様子を見ているだけでいい」
「・・・・」
「そんなに心配するな。俺は自分よりお前の方がよっぽど心配なんだ」

馬から降りる時、アレクサンドロスは僕の手をひいてくれようとした。自分の手袋が血で汚れているのを見て、あわててその手を引っ込めた。

「だめだよ、血で汚れている」
「構わない、どうせしばらくすれば、この手は血で真っ赤に染まるはずだ。でもお前の血がこれ以上流れることは許せない」

彼は僕の手を引いて小川へと向かった。手袋を取り、冷たい水で汚れを落とすと、血が細かい筋となって滲み出た。彼は僕の手のひらに口をつけ、血を吸い取った。痺れるような痛みを感じた。

「決してお前の体から、これ以上の血は流させない。俺が吸い取れる以上の血を、お前が流すことはない」

怖ろしいほど真剣な表情で彼は同じ言葉を繰り返した。





戦いの日の朝、太陽は普段よりももっとまぶしく輝いていた。僕達が進む草原には、よく見れば小さな花がたくさん咲いている。その先は湿地帯になっている。敵の姿が見えてきた。僕達は騎馬隊と歩兵隊に分かれて隊列を組んで進んでいく。歩兵隊は長い槍を手にしている。合図が聞こえ、騎馬隊も歩兵隊もまっすぐ前に走り出した。だが湿地帯では馬が足を取られ、思うように進めない。そこに敵も流れ込み、たちまち激しい戦闘となった。僕はアレクサンドロスの忠告を守り、列の後ろの方をゆっくりと進んだ。アレクサンドロスはもう敵の真っ只中に飛び込んでいた。彼の黒い馬ブーケファラスは、湿地帯で足を取られることもなく、まるで神の馬が宙を浮いて走っていくように、まったくその速さは変わらなかった。何千という敵兵の真ん中にいて、アレクサンドロスとブーケファラスの姿を見失うということはまったくなかった。彼らは実に巧に敵兵の攻撃を潜り抜けて進んでいく。誰も近づくことができず、そのまわりだけ敵兵は慌てて逃げていた。彼の勢いは衰えない。すさまじい雄叫びをあげながら、敵を一人ずつ確実に剣で刺し殺していた。僕の周りでも絶叫が聞こえた。振り返れば周りには血が飛び散り、敵味方入り混じっての激しい攻撃が続いていた。馬から落ちる者、矢があたる者、手足を切られた者、あたり一面血で真っ赤に染まり、すさまじい呻き声が聞こえた。僕も夢中になって馬を操り、剣を振り回した。その剣で致命傷を与えることは到底できなかったが、自分の身を守ることはなんとかできた。そう、僕の剣は敵の体に深く突き刺し、肉体を切り裂くことなどとてもできず、ただ体の表面をかすっているだけだった。それでも僕の体も乗っている馬も返り血でいつのまにか汚れていた。たくさんの馬と人間が倒れている中、遠くに目をやれば、目の前の戦いとは全く別の戦いをしているアレクサンドロスの姿が見えた。彼もブーケファラスもそこに存在しながらそこにはいない。自由自在に姿を現すことができる神のように、自らが傷つくことはけっしてなく、冷静に敵を倒していた。





随分長い間戦いは続き、僕は剣を振り回し続けていたように感じたが、実際には太陽の位置が高くなる前に戦いの決着はついていた。わずかに生き残った敵兵はみなうなだれてフィリッポス王の前に立たされていた。全員を殺すことはしないという王の言葉に、ほっとした表情をしていることは遠くからでもよくわかった。アレクサンドロスはフィリッポス王のすぐそばに立っている。クレイトスが王に話しかけた。

「アレクサンドロス王子の活躍はすばらしいものでした」
「いや、お前の働きに比べれば、あんなのはまだまだ・・・」
「初陣であそこまで勇敢に戦えるとは・・・まだ16歳の王子とは思えませんでした。まるでアキレウスかヘラクレスのような勇者の魂がのりうつっていたかのようです」
「アキレウスかヘラクレスのような勇者の魂がのりうつっているか。ならばもっともっと活躍してもらわんとな・・・」
「しかし、フィリッポス王、アレクサンドロス王子はお世継ぎとして・・・」
「世継ぎか・・・ふむ・・・そのことについてはわしにもいろいろ考えが・・・・」

アレクサンドロスの姿は見えなくなっていた。僕は慌ててあちらこちらを捜した。






「ブーケファラス、今日はよく走ってくれたな。お前のおかげでほら、僕は体中どこも、かすり傷さえ負わなかった。そんな心配そうな目で見なくても、全部敵の返り血だよ。お前の体もこんな血だらけになって・・・待っていろ、今きれいにしてやるから」

アレクサンドロスは小川のほとりにブーケファラスと一緒にいた。

「こんなに泥だらけになって・・・あんな場所で戦いをしなくても、ここまでくればこんなに走りやすい草原があって、きれいな水が流れているのにな。でもあそこでよかったのか。この場所で戦ったら、川の水も、草も血で汚れてしまうからな・・・お前は本当は、森の中や草原を自由に走りまわりたいんだよな。泥沼の中、死んだ体や血の上を踏んで走るよりも・・・でもこれは父上にとってどうしても必要な戦いだった。そして僕にとっても必要な戦いなんだよ。だからお前を連れてきた」

やさしく体をさすりながら汚れを落とすアレクサンドロスの耳元に、ブーケファラスは耳を近づけた。

「フフ、くすぐったいよ・・・フフフ・・・僕は生きていたんだね。この戦いに生き残ることができた。もし死んだらどうなるのか、すごく不安だった。本当だよ・・・・だって僕は一番先頭に立って、敵に向かって真っ先に攻撃しろと父上に命令されたんだよ。どうしてかわかるか?父上は僕が手柄を立てることを期待していたわけではない。僕が死ぬことを期待していたんだよ。僕は知っていた。知っていてお前を連れてきた。ごめんよ、ヘファイスティオンには無事帰って欲しかったから、彼の血が流れるのはいやだったから、離れているように言った。彼は僕だけでなく、カッサンドロスのことも愛している」

木陰に隠れてこっそり見ていた僕は大声をあげそうになった。アレクサンドロスは何もかも知っていた。フィリッポス王が彼の死を望んでいるような話も聞いてしまったし、僕がカッサンドロスに抱かれたことも気づいていた。

「ヘファイスティオンだけは無事に帰してやりたかった。あいつは不器用で本当は兵士に向いてないやつだけど、気が優しくて誰からも好かれるから・・・ちょっと馬で走ったぐらいで、手に血が滲んで真っ赤になっているんだぜ。緊張して、強く握りすぎるからだよ。そんなやつ、戦いには連れていけないよな。僕はいいんだ、あいつが幸せになってくれたら・・・・だけど、ブーケファラス、お前を道連れにしようとした。ごめんよ、お前と一緒なら、どこへ行っても僕は自由に駆け回ることができるからさ。お前と一緒ならどこまでも走り続けることができる・・・」

僕は泣いていた。目から涙が溢れ、口を押さえて嗚咽をこらえていた。ブーケファラスはアレクサンドロスの顔をペロペロと舐めた。

「ヘファイスティオンの前で泣くことはできない。でもお前の前では泣いてもいいよね、ブーケファラス・・・心配しないで・・・僕は戦いに勝って今生きている。自分にどれだけの力を神から与えられているかもはっきりわかった。悲しんでいるわけではない。むしろ喜んでいるぐらいだ。でもそれをわかってもらえるのは・・・・」

アレクサンドロスは顔を馬の腹に押し付けていた。そして悲しみを振り絞り、悲痛な声をあげて泣き出した。僕はそっとその場を離れた。あたりは暗くなっている。遠くから兵士達の騒ぐ声が聞こえる。



                                           −つづくー


後書き
 アレクサンドロス、ヘファイスティオンの前では強くても、一体となって戦うブーケファラスには弱さも見せているのではないかと想像してみました。
2006、11、16

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