「わー、すごい、こんなにたくさんの人がいるなんて。あそこで何売っているの?ちょっと見てきていい?」
「これこれ、ヘファイスティオン、落ち着きなさい。急いで走って転んだりしたら大変だ。前から言っていただろう。今日はマケドニア王フィリッポス陛下にお会いする特別な日なのだから、怪我でもしたら困る」
「そんなことわかっているよ。7歳になったらペラにある王宮に連れて行ってくれるって、父さんはもう何百回も言っているよ。そのために家庭教師の先生を家に連れてきて僕が完璧なギリシャ語を話せるよう勉強させたんでしょう」
「話せるだけではだめだ。お前もやがては書記官として働くようになるのだからあらゆる国の言葉を覚えて、文字も正確に書けるようにならなければいけない。だいぶ歩いた。足は痛くないか?」
「大丈夫、珍しいものばかり見ているからかな。足のことはすっかり忘れていた」
「それはよかった。お前が他の子と同じように歩く姿を見たら陛下はさぞ喜んでくださるだろう」
「陛下ってフィリッポス王様のこと?」
「ああそうだ。お前が生まれてすぐ足に大きな怪我をしたことを陛下に話したらとても心配してくださった。臣下でである私達のことも気にかけてくださるお方だ」
「そうか、そして僕はアレクサンドロス王子に仕えるんでしょ」
「そうだな。お前がもう少し大きくなって母さんと離れて眠れるようになったら王宮でアレクサンドロス王子と一緒に勉強するようにと陛下は言ってくださった。今すぐにではないけどな」
「僕はもう母さんとは別の部屋で1人で寝ているよ」
「おや、そうか。それならば父さんと一緒に王宮で暮らしてもいいんだぞ」
「それはちょっと・・・・やっぱり母さんと離れて暮らすのは・・・・」
「ハハハハ、まだ甘えたいか。それでいい。お前まで出て行ったら母さんが寂しがるからな」
マケドニア王フィリッポスに仕える書記官のアミュントルは7歳になったばかりの息子ヘファイスティオンを連れてペラの街に来ていた。彼の家はペラから離れた丘の上にあり、街までは子供を抱いて馬に乗ってきた。ヘファイスティオンはアミュントルと血が繋がった本当の子ではない。わけあって彼が育てることになったのだが、実の子と同じように接してきた。アミュントルは普段は王宮で生活し、丘の上にある家に帰るのは1ヶ月に1度くらいであった。子供の世話は主に妻に任せていたのだが、家庭教師だけは自らが選び、どのように言葉を教えているかを厳しく調べた。ヘファイスティオンは生まれてすぐの怪我が原因で走るのは苦手であったが、それでも勉強が終われば周りの家に住む同じ年頃の子と野山を駆け回って遊んでいた。だがやわらかい土と違って固い石が敷き詰められた道は骨が少し曲がってのびてしまったヘファイスティオンの足にはかなり負担となった。アミュントルがそれに気付いた。
「ヘファイスティオン、足が痛いか。王宮まではまだかなり歩かなければならない。父さんがおぶってやろう」
「でも・・・・」
「石の道で転んだりしたら大変だ。陛下が心配なさる」
「はい・・・・」
普段友達と遊んでいる時は山道で転んで泥だらけになってもそれほど気にしない父が、なぜ王様に会うというだけでこうも自分を子ども扱いするのかヘファイスティオンには納得できなかったが、それでも素直に頷いておぶわれた。
「あの長い槍を持った人達は兵士なの?」
「ああそうだ。訓練が終わって宿舎に帰るところであろう」
「ずいぶん長い列だね。一番後ろを歩いている人はアキレウスのような兜をつけている」
「あれはパルメニオン将軍だ」
パルメニオンはすぐアミュントルとヘファイスティオン父子に気付いて列を離れ近づいてきて、丁寧な挨拶をした。
「アミュントル、その子は・・・・」
「パルメニオン将軍!すまない、ヘファイスティオン、ちょっとおりて挨拶してくれ」
アミュントルは背中からヘファイスティオンを下ろした。パルメニオンは兜をはずして顔を見せた。
「パルメニオン将軍、マケドニアで一番偉い将軍だ」
「アミュントル、そんな説明は子供の前でしなくていい。ヘファイスティオン、私の名前はパルメニオン。ずっと昔からマケドニアの将軍として戦ってきた」
「知っているよ。パルメニオン将軍の名前を聞いただけで敵はみんな怖がって逃げ出すんだって。あれ、でもそれほど怖い顔では・・・・」
「ヘファイスティオン!将軍に向かってなんて失礼なことを・・・・・」
「まあよい。健康そうで何よりだ。だが足が・・・・・」
「大丈夫です。私もそれが一番気にかかりましたが歩くのは問題ありません。ただ固い石の道で転んでは大変と用心していました」
「それはよかった。話は聞いていたが実際にこの姿を陛下に見ていただくのが一番だ。さぞ喜んでくださるだろう。本当によかった。ヘファイスティオン、アミュントルはなお前の足のためにと有名な医者をたくさん集めたのだぞ。お前がこうして今歩けるのは父のおかげだ。感謝しなければな」
「はい、あの、パルメニオン将軍はアキレウスと同じように不死身でどこを切っても死なないの?」
「これ、ヘファイスティオン!」
「そんなことはない。わしとて生身の人間。剣で切られたり槍が体を貫けば当然死ぬであろう。不死身と言うならば陛下のこと、あれほどの大怪我をされながらそれでも敵と戦っていた。わしはその姿を間近で見て体が震えた。あの方こそヘラクレスの血を引くまこと神の子であろう」
「そんなにすごい王様なんだ、早く会いたいな」
「すぐに会える。どうする、ヘファイスティオン?」
「僕は自分の足で歩くよ。だって神の血を引く不死身の王様に会いに行くんだもの」
ヘファイスティオンは張り切って歩いた。
広い街を抜けて王宮の城門をくぐる頃になるとヘファイスティオンはかなり疲れてきた。石の道を歩いたためか、足がズキズキと痛んだ。アミュントルはそのことに気付いた。城門の中へ入れば見張りの兵士などもみな顔なじみの者ばかり、中庭でヘファイスティオンを休ませて先に挨拶に行った方がよいかもしれない。
「ヘファイスティオン、疲れただろう。お前はこの椅子に座って少し休んでいなさい。先に父さんが陛下と話をしてくる。それまで待っていられるか?」
「大丈夫、待っているよ」
「周りにいる兵士は父さんの知り合いばかりだ。何か困ったことがあったら彼らに言いなさい」
アミュントルはヘファイスティオンを中庭の椅子に座らせ、そばにいた兵士に声をかけてそのまま歩いて行った。なんて広い中庭なのだろうか。石の回廊は先が見えないほど遠くまで続き、所々に木が植えられ彫像が置かれている。大きな池があり、その真ん中にはポセイドンの像が・・・・・ヘファイスティオンはじっと座ってなどいられずに彫像を見ながら歩き始めた。ゼウスとヘラ、そして、あの大き像はヘラクレス!粗末な巻き本の絵で見た神々が人間よりも大きな彫像となってあちらこちらに無造作に置かれていた。突然話し声が聞こえヘファイスティオンは大きなヘラクレス像の後ろに隠れた。
「一体どうしたのだ?フィロタスやニカノールならとにかくカッサンドロスに負けるとは、これは気が緩んでいる証拠、今朝の槍投げの時だって・・・・」
「ああ、わかっている。気が緩んで負けた者には罰を与えなければならない。それがスパルタでの決まり。早くやってくれ」
「それでいいのだな」
「いいも悪いも負けた者は鞭で打たれる、スパルタはそうやって強い戦士を育てた。どんな痛みにも負けない子だけが生き残って大人の男となり戦士となった」
強い口調にヘファイスティオンは驚いて彫像の陰から2人の姿をのぞいた。見るからに怖そうな背の高い大人の男と自分より小さな子供、奴隷なのだろうか、みすぼらしい服を着ている。2人はヘファイスティオンには気付かずに通り過ぎ、池のそばにある石段に近づいた。奴隷の子は服を脱いで石段の上に横になった。大きな男は手に鞭を構えている。ヘファイスティオンにとっては初めて見る怖ろしい光景であった。自分のことではないのに足はガタガタ震え目を閉じた。鋭い鞭の音が響き小さな悲鳴をあげた。2回、3回、4回・・・・鞭の音は大きくなるばかりであった。彼は背中をよじり泣き叫んでいるに違いない。体を動かすことも目を開けることもできずに鞭の音が止むのを待った。ちょうど10回鞭の音は響き、そして止まった。ヘファイスティオンは目を開けた。大きな男は鞭を持って歩いて行った。奴隷の子はまだ石段の上にうつ伏せになったまま、痛みで動けないに違いない。一歩一歩静かに近づいた。背中には無数の鞭の痕が残り、そのいくつかからは血が滲んでいた。
「ひどい・・・・」
声に気付いて子供は体を起こし、ヘファイスティオンを睨みつけた。
「お前は誰だ?見かけない顔だな」
「大丈夫?血が出ていた」
「これぐらいいつものことだ。なんだお前、泣いているのか?」
「だってあんなに酷く鞭で打たれて・・・・僕は怖ろしくて・・・・・」
「変なヤツ」
「僕の家にも奴隷はいるけど父さんは鞭なんて使ったことないよ。鞭は馬に使うものだよ。それをこんな小さな子に、いくら奴隷だからって・・・・」
「おいおい、お前何か勘違いしてないか。俺は奴隷ではない。マケドニア王フィリッポスの子アレクサンドロスだ」
「アレクサンドロスって王子様の?」
「王の子だから王子だろう。誰も俺のことそうは呼ばないけどな。みんな名前でただアレキサンダーとだけ呼ぶ」
「アレキサンダー・・・・アレキサンダー王子・・・・僕、前に君に会ったことあるかなあ」
「さあね。こっちはいろいろなポリスの使者や臣下の子供、街の人間まで、毎日数え切れないほど多くの者と会っている。顔なんか覚えていない」
「僕はアミュントルの子でヘファイスティオンていうんだ」
「アミュントルなら知っている。父上が気に入っている書記官だ」
「本当?父さんは王様のお気に入りなんだ。でも僕はこの王宮に来るのは初めてなんだけど、君とは昔どこかで会ったような気がする」
「知らないよ、そんなこと。それよりお前ここで話していていいのか。王宮に来たということは父上に挨拶をしに来たんだろう。それがこんなところに・・・・・」
「大丈夫、父さんはまだ戻ってこないから。でもどうして君は王子なのに鞭で打たれたの?」
「年下のカッサンドロスにレスリングで負けたから。年上のプトレマイオスやフィロタスはしかたないけど、年下のヤツに負けるのは許されないそうだ。あいつがまた6歳になったばかりだというのに卑怯な手ばかり使って・・・・」
「僕は7歳だけど、そのカッサンドロスっていう子には絶対負けると思うよ。僕は今まで勉強はしてきたけどレスリングとか槍投げはやったことないから。一番負けた子が鞭で打たれるんでしょう」
「まあ、その負け方にもよるけどな」
「それなら僕が仲間に入ればいいよ。そうすれば僕が毎日負けて鞭で打たれることになる」
「仲間に入ればいいって遊びじゃないぞ。俺達は兵士になるための訓練としてスパルタのような・・・・」
「君は王子だから・・・・・」
ヘファイスティオンは小さな手を伸ばしてアレクサンドロスの背中に触った。
「どんなに痛くても声を出したり泣くことは許されない。でも僕はものすごい大声で泣き叫ぶからきっとあの大男だって驚いて途中で鞭を打つ手を止めてしまう。僕ならば大丈夫だから・・・・」
「お前、自分が何言っているのかわかっているのか?」
「わからない、わからないけどすごく痛かった。君が鞭で打たれていた時、僕は恐ろしさで震えていた。動くこともできなかった。こんなところ、もし見ないでいたならば何も考えなかったと思う。でも僕は見てしまって、君が辛いと僕も辛いということがわかってしまったんだよ。だから離れていても、家に帰ってもずっと君のことばかり考えて、君が鞭打たれる姿を想像してしまう。それだったら僕もここで暮らして時々鞭で打たれる方がずっといいよ」
「余計な心配はするな。俺はこういうことには慣れている」
アレクサンドロスは立ち上がり、キトンを身につけて紐で縛った。粗末なキトンにたちまち赤い染みがついた。
「慣れてなんかいない!君は夜1人になった時痛みで泣いている。僕もそうだった。生まれてすぐ僕は足に大怪我した。その時のことは覚えてないけど、たくさんの医者が僕の家に来て足をひっぱったり無理に曲げたりされたこと覚えている。僕が歩けるようにするためだと父さんが言っていたから、どんなに痛くても声を出したり泣いたりしなかった。でも本当はすごく痛くて夜1人で泣いていた。君も同じだよ」
「うるさい。俺はこの国の王となる運命だ。どんな試練にも耐えなければならない。書記官の子のお前とは立場が違い過ぎる」
「立場が違っても同じ痛みを感じている。だから僕は父さんに頼んで一緒に訓練を受けさせてもらう」
「やめろ!お前足が悪いんだろう。兵士の訓練を受けてどうする?」
「足はもう治った。僕は歩けるよ!」
「勝手にしろ!俺はお前の痛みをわかってやれるようなやさしい人間ではないからな!」
吐き捨てるように言ってアレクサンドロスはさっさと歩いていってしまった。ヘファイスティオンは彼がうつ伏せになっていた石段に手を触れた。小さな血の染みがあった。
「顔の位置、背中の血ではない・・・・唇が切れるほど歯を食いしばって君は耐えていたんだね・・・・・アレキサンダー・・・・・僕は絶対君と前に会っていたと思うんだけど・・・・・」
「ヘファイスティオン!こんなところまで歩いて来たのか?」
「ごめんなさい、いろいろな彫像があるから珍しくてつい・・・・」
父の声にヘファイスティオンは慌てて立ち上がった。もう彼の心は王子アレキサンダーのことでいっぱいで、これから会う王のことなどすっかり忘れていた。
−つづくー
後書き
双子説での2人の出会いです。双子だったら記憶はなくてもどこかで会ったという思いや痛みの感覚がわかるということがきっとあるのだろうと考えて・・・・
2010、3、23
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