21、契約
島を離れる船の上で俺はぼんやりと考え事をしていた。この一週間の間に余りにも多くのことがあり過ぎて、頭の中を整理できていない。
「まさか、君たちが一週間もここで生活するとは思わなかったよ。オーディションはこれで終わりか。ヘファイスティオン役は決定だな」
監督とコリンが話している声が聞こえる。
「いや、ヘファイスティオン役はまだはっきり決めない方がいい。ジャレッドはいいやつだ。俺とも気が合う。だがそのことと役者として本当にその役にふさわしいかは別問題だ」
「彼に不満があるのか」
「ああ、あるさ。ヘファイスティオンをやるには不満だらけだ。第一に体がまるでできていない。あの細くて筋肉もろくについていないような体つきでどうやって古代の戦士を演じる?トロイのアキレスのようになれとは言わないけど、あの体じゃギリシアの戦士はできない」
「ほう、そういう意見か」
「他にもある。あいつには上流階級の人間としての気品がない。ヘファイスティオンは王の宰相にまでなった男だ。王に次ぐ者としての威厳や気品がなければ困る。本人の生まれや育ちはどうでもいい。役者として演技をする時にそれができるかどうかが問題だろう。あいつにそれだけの演技力があるとは思えない」
「コリン、なにもそこまで言わなくても・・・彼は今まであまり注目されてはいないが、役者としての演技力はなかなかのものだと・・・」
「最大の欠点は、あいつはラヴシーンができない!」
この一言が聞こえた時、それまでぼんやりと波間を漂っていた俺の頭の中はブチ切れた。
「今、なんて言った!お前、さっきから言わせておけばいい気になって!俺のどこが気に入らない!ラヴシーンができないだと!さんざん人にそういうことやっておいて、ふざけるな!」
監督が間にいなければ、間違いなく俺はなぐりかかっていただろう。
「そういうふうにすぐ切れるところとか、まあ、ヘファイスティオンは喧嘩っ早い一面もあったというから、その点だけは同じかな」
「そういうお前はどうなんだよ!役としてふさわしい人間かよ。アレキサンダーは歴史を塗り替えた古代の英雄、大王だ。お前のように人気があるからといってちゃらちゃら遊び歩いているばかりのような人間にそんな役ができるのか。どうだ、答えられないだろう。人のことけなす前に自分の演技力はどうだ。お前がアレキサンダーにふさわしい人間として演じるのならば、俺はいくらだってその相手役ができるさ。ラヴシーンがなんだ!相手役さえよければ俺は世界一のラヴシーンを演じてみせる自信がある」
俺が怒鳴った後、しばらくの間、沈黙が続いた。コリンや監督が何も言わない以上、しゃべることはない。やがてコリンがゆっくりしゃべり出した。
「世界一のラヴシーンか、そいつは楽しみだ。そこまで言うなら俺は認めるよ。ジャレッドをヘファイスティオンとして推薦してやる」
「コリン、君は最初からそういうと思ったよ。そうと決まったら、さっそく契約書を書いてくれ。撮影は半年後からと予定している。撮影期間中は他の仕事は一切受け付けないようにしてくれ。それでいいかな」
「わかりました」
「この紙に名前と連絡先の住所だけ書いてサインしてくれればいい。詳しいことはまた追って連絡する」
監督が俺に渡した契約書をコリンは勝手に横取りして、小声でささやいた。
「お前今一人暮らしか」
「いや、兄と一緒に暮らしている」
「それなら俺のアパートメントで決まりだな。俺の今借りている所はセキュリティーが厳しくてプライバシーも完全に守れる、防音対策もばっちりだ。文句ないだろう」
俺の契約書に勝手に自分の借りているアパートメントの住所を書き込んでいる。
「これでよし、後はお前がここにサインをすればいい」
「ちょっと待て、サインをする前に条件がある。俺はロックバンドのボーカルだ」
「その話は何度も聞いた。防音対策は完璧だ。好きなだけ歌って構わない」
「そういう意味じゃない!いいか、ボーカルが声が出なくなったりかすれた声で歌っていたら話にならねえ。ライブやコンサートのある時はそのへんの事情をよく考えてくれ」
「わかった、お前のスケジュールを最優先するよ。それ以外のときは?」
「それ以外のときは好きにしていい。あいつはお前に借りを作ったまま死んでしまったから・・・・俺が返すしかないだろう」
「いつ引っ越してくる」
「戻るとすぐにコンサートツアーの予定が入っている。二週間は身動きが取れない」
「そんなに先か。我慢するのは厳しいな」
「俺の方がお前の何十倍もきついさ。俺は死ぬかと思うような痛みとこの世のものとは思えない快楽を同時に味わった。思い出すだけで体が疼いてくる。二週間もできなければ禁断症状が表れそうだ。麻薬と同じだ」
「お前、やったことあるのか」
「あるわけないだろう、映画での演技だけだ。俺はでも麻薬よりあれの方がよっぽど禁断症状が激しいと思うよ。無事歌えるか心配だ」
「ツアー先に行ってやってもいいぜ」
「いや、いい。禁断症状に苦しみながら歌えば、今までとは違った歌が歌えるかもしれない」
「お前はよっぽどのマゾだ。でもお前のおかげで今までとはまったく違った演技ができるかもしれない」
俺達は夢中になって話をしていたので、監督の顔つきが変わってきたのに少しも気づかないでいた。
「君たち、そういう話は後にして、早くこの契約書にサインをしてくれないか!邪魔者は消えるから後は二人でゆっくり話し合ってよい演技をしてくれ。とにかくサインが先だ」
俺は目の前に差し出された契約書を見た。連絡先はコリンの住所となっている。その下に力強く自分の名前を書き入れた。
−完ー
後書き
オーディション、ついに最終話になりました。この話は私のサイトでは最初で最後ではと思えるほどたくさんの書き込みやメッセージがもらえた話だったので、終わらせるのはすごく心配でもあります。最初の予定では10話まで続かないだろうと思っていたのですが、いろいろなメッセージを読むうちに次々とアイディアが浮かびここまで長い話になりました。読んくださる方のメッセージで成長した、ある意味もっとも幸せな話かもしれません。本当にいままでありがとうございました。
来週から、この話の続編として、島から戻った二人が、周りの人といろいろありながらも同棲生活を始めて、役作りをしていくという話を書く予定でいます。これからもよろしくお願いします。
2005、12,9
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