1、幼少の頃
初めて会った日、彼は真っ先に名前を聞いてきた。
「君の名前は」
「ヘファイスティオン」
「えっ?」
「ヘファイスティオン」
「覚えにくい名前だな。僕はアレキサンダー、覚えやすいだろう」
「アレキサンダーってあのフィリッポス王の・・・」
「そうだよ、王の子供だ」
「王様の子がこんなところ遊びに来ていいのか」
「平気だよ、父上も母上もいつも忙しくて、僕の相手などしてくれないから・・・」
「そうか・・・」
僕は彼の顔を近くでじっと見た。金色の髪、青い目、白い肌・・・やっぱり王様の子供は違う。なんてきれいな顔をしているのだろう。それに比べてこの僕は・・・どこにでもいる普通の子供・・・手を伸ばしかけてあわてて引っ込めた。
「どうしたの」
「ごめん、汚い手で君をさわろうとした」
僕はさっきまで一人で土の上で転げまわって遊んでいたことを後悔した。僕の手も、顔も体もどろだらけだ。こんな日によりよって彼と出会うとは・・・だが彼は僕の汚れた手をつかみ、自分の顔を触らせた。
「だめだよ、こんなことしたら、君の顔が汚れてしまう」
「僕はいつも一人だった。広い宮殿の中、何人もの先生に囲まれて勉強させられていた。時々窓から君の姿が見えたよ。君は一人で走ったり、友達と遊んだりしていた。今日は一人なのか」
「うん、一人になりたい気分だったから」
「じゃあもう帰るね、遅くなるとまた先生にしかられるから。もう一度君の名前を教えて」
「ヘファイスティオン」
「覚えきれない、ここに書いて」
彼は髪とペンを僕の前に差し出した。僕は字など書けない。
「ごめん、僕は字が書けない」
「ゆっくり言って、僕が書くから・・・」
僕が自分の名前を何度も唱え、彼は紙に書き写した。
「これがヘファイスティオン君の名前、こっちがアレキサンダー、僕の名前だよ」
「字はこんなふうに書くんだ。知らなかった。他にどんな字を知っているの?」
「また、明日教えてあげるよ。ここに来てくれる」
「きっとくるよ」
「約束だよ」
彼は帰って行った。僕は彼が宮殿の門に入るまでその後ろ姿をじっと見送った。
次の日僕は念入りに顔と手を洗った。めったに洗わない髪も丁寧に洗って念入りに引っ張った。彼のきれいな金色の髪を思い出した。僕の髪は真っ黒でいくら洗って引っ張って真っ直ぐにしても、たいして代わり映えはしない。それでも少しでもきれいに見えるよう時間をかけて整えた。それから自分の一番気に入っている白い服を着た。真っ白な服はお祭りなど特別な日しか着ない。でも今日は特別の日だ。王様の子供に会うのだから・・・
きのうアレキサンダーと会った場所で、僕は待ち続けた。彼はいつ来るだろうか?王様の子供だからそんなにいつでも外に出られるわけではない。忙しい毎日の中で、やっと空いた時間に出てくるのだろう。僕は遠くに見える宮殿の方を時々見ながらその場所でいつまでもうろうろしていた。
暗くなってもアレキサンダーは来なかった。でも僕はそれほど気にはしなかった。今日はいろいろ忙しかったに違いない。明日はきっと来るだろう。次の日も、その次の日も僕は身なりを整え、お気に入りの服を着てアレキサンダーを待った。でも彼はなかなか来なかった。
3日間待った夕方、宮殿の門番が僕のいる方に歩いてきた。毎日宮殿の方ばかり見てうろうろしていたので怪しいやつだと思われたのだろうか。あわてて走って逃げたが向こうも追いかけてくる。いくら一生懸命逃げてもその距離はどんどん縮まっていく。
「待て、お前がヘファイスティオンとかいう者か」
「そうです。何も悪いことはしていません。ただあの場所で待っている人がいて・・・」
「アレキサンダー王子から、これを渡すように頼まれた」
門番は僕に1枚の紙を渡すとまた走っていった。その紙には何かびっしりと字が書いてある。でも僕には字が読めないからなんて書いてあるかわからない。一番下に赤いインクで彼の指の判が押してあった。
「アレキサンダー、君は僕のこと忘れたわけではないよね。こうして手紙までくれたのだから。でも僕は字が読めないからこの手紙に何が書いてあるかわからないよ」
僕は手紙の字を一字づつ指でなぞった。それから赤いインクの判のところにそっと口付けをした。
「まったく君はひどいよ。この手紙になんて書いてあるか知るためには、君に会わなければいけないんだから・・・」
僕はまた待ち続けた。彼の手紙を何度も眺めた。手紙の最初にある短い言葉は僕の名前だろうか?そして最後にあるのはアレキサンダーの名前に違いない。僕はアレキサンダーの名前をまねして、指で地面に書いてみた。なかなかうまく同じようには書けない。アレキサンダーの字は力強く美しい。僕はいくつもいくつも彼の名前を地面に書いた。これではまったくだめだ。彼の名前はもっときれいな字で書かないと・・・あわててその字を手で消そうとした時、誰かに腕をつかまれた。
「消さなくていいよ、ヘファイスティオン、きれいに書けている」
後ろにアレキサンダーが立っていた。彼はしゃがんで僕が書いたすぐそばに指で字を書いた。
「これが、ヘファイスティオン、君の名前だよ」
「アレキサンダー、どうして今まで・・・うんいいけど、君は忙しいから僕と遊んでいるひまなんか・・・」
「約束を破って悪かった。急に熱を出してずっと寝込んでいた。やっと起きられるようになって手紙を書いたのだけど・・・」
「僕には字が読めない」
「そう、そのことを後から思い出してあわててここに来た」
「もう大丈夫なのか」
「まだ頭が痛くて体がフラフラする」
僕は彼の額に触った。まだかなり熱があるようだった。僕は地面に字を書いていたから、僕の手についていたどろで彼の額を汚してしまった。
「ごめん、また君の顔を汚してしまった」
「かまわないよ、君がここにいてくれてうれしかった。もう会えないと思っていた」
「どうして」
「約束を破って来なかった上に、字の読めない君に手紙なんか送ったから、怒って二度とここには来ないかと思った」
「字は読めないけど、でも手紙をもらってうれしかったよ。なんて書いてあるか読んでほしい」
「だめ、恥ずかしくてとても読めない」
「ちょっとだけでいいからさ」
「だめ!もう君に会えたからこの手紙は必要ない!」
彼は僕の手から手紙を奪い取るとそれを粉々に破いてしまった。
「やめて!なにするの」
「これでもう安心だ。いくら熱でうなされていたからといって、あんな手紙を書くなんて・・・」
彼はその場にしゃがみこんでしまった。
「大丈夫?」
「ちょっとめまいがした。まだ熱があるかもしれない」
「早く帰った方がいいよ。僕が送ってあげるから」
「また会ってくれるかな」
「もちろんだよ」
それから後、僕達は時々、いや毎日のように会うようになった。彼に教えられて、僕もかなり字が読めるようになった。でも最初の手紙に何が書いてあったのか、彼は決して教えてはくれない。
後書き
アレキサンダーとヘファイスティオンの出会いの場面、二人とも十歳ぐらいでしょうか?破かれてしまった初めてのラヴレター、きっと熱にうなされての熱い思いが綴られていたのでしょう。
目次に戻る