(26)奇蹟(前編)
波の音が聞こえる洞窟の中、俺は再びジャレッドを抱いた。彼は途中から泣き出した。すすり泣きはやがて激しい慟哭へと変わった。
「ジャレッド、無理しなくていい・・・このまま逃げよう・・・二人だけで遠いところに・・・」
「それはできない・・・・」
「大丈夫だ。お前の命が短いのならなおさら最後の時を一緒に・・・・」
「だめだよ・・・もう一度逢うためには・・・君の魂が砕けてしまったら僕らは二度と逢えなくなる」
「そんなことないだろう。俺達は何度も廻りあった」
「君は忘れている・・・僕が死んだ後君がどうなったかを・・・僕は見たんだ・・・君は長い間たった一人でさまよっていた。誰も近づけず、誰とも離さず、身につけた毛皮はボロボロになり、剥き出しの体も魂も日に焼かれ風にさらされ、日増しに擦り切れていくんだ。ヒリヒリとした痛みをいつも感じながら君は僕を探してさまよっていた。もう二度と君のそんな悲しい姿は見たくない。だから戻ろう。僕は自分の運命を受け入れる」
「受け入れるって、お前は体を切り刻まれ、死ぬより辛い思いをするんだぞ」
「怖いよ、たまらなく怖い・・・・」
「せめてもう1日一緒にいよう。戻るのはそれからでも・・・・」
「だめだよ・・・いますぐに戻らなければ間に合わなくなる」
どれほど激しく泣いてもジャレッドの決意は変わらなかった。彼は過去も未来も俺よりずっとよくわかってしまう。今ここで二人で逃げ続け、ジャレッドが力尽きて死んだら俺はどうなるか・・・・狩の時代と同じように一人でさまよってボロボロになり、今度は魂も砕け散ってしまうかもしれない。ジャレッドはそのことを何よりも怖れた。
「ねえコリン、ここを握って寝てくれる」
俺の手を取り、足の間の彼自身を俺の手に握らせた。俺と違ってまだ柔らかいその場所は彼自身の欲望を一度も満たしてはいない。
「こうしていれば僕は夢を見続けられるよ・・・ずっと君と一緒にいる夢を・・・・」
波の音が懐かしく耳に響く。眠れぬはずの夜、疲れ果てている俺達はゆっくりと深い眠りに陥っていた。
馬に乗って俺達は来た道を引き返した。ジャレッドの手にはあのモザイクの絵がしっかりと握られている。彼も俺もほとんど口を利かなかった。ただ黙ってお互いの体がすぐそばにあることを確かめ合っていた。日が暮れる頃には自分の家に着いてしまった。随分遠くまで行っていたような気がしたが実際には少しの距離を馬で移動しただけのようだ。父が顔色を変えて飛んできた。
「コリン、こいつを連れてどこへ行っていた。今日、王宮の使者が来た。屋敷の中をすべて調べられ危うく殺されるところだった。お前、まさかジャレッドを逃がそうと・・・・」
「ああそうだよ!俺は逃がそうとした・・・・散々酷いことをしてきて、今度は王様の命令で去勢されて連れて行かれる、そんなのあるか!奴隷だからといってどうしてそこまでされなきゃいけないんだ!だから俺はジャレッドと一緒に逃げた・・・それなのにこいつは戻ろうと言って聞かないんだ・・・このまま逃げたら俺の家族が殺されるからって・・・今まで散々酷いことされているのに、自分の意思で戻ってきたんだよ・・・・ジャレッドは・・・・」
「コリン、だめだよ、そんな言い方をしては・・・・」
ジャレッドは父の前で跪いた。
「申し訳ありませんでした。私が余りの恐怖に泣き出し、逃がされました。けれども逃げ続ける恐怖に負けこうしてまた戻って来ました。どのような罰も覚悟しています。どうか私を逃がすのに手を貸した他の人を罰するのはやめてください」
「お前はたった2日の間に随分大人のような口をきくようになったものだな。これならば王の前に出ても・・・罰を与え体に余計な傷をつけては王からのお咎めがある。すぐに去勢をするところに連れて行け、今度こそ逃げられぬようにな」
「もうけっして逃げません。ただ最後のお願いです。彼と一緒にその場所まで・・・」
「うまいこと言ってまた逃げようというのか、どうせ食べる物もなくなって戻ってきたのだろう」
「違います」
「いいだろう、早く連れて行け。なるべく早いほうがいい」
何人かの奴隷に腕を捕まれたジャレッドと一緒に俺はその場所の門をくぐった。見たところかなり金持ちの家らしいりっぱな建物である。だがここで行われることを想像するだけで俺は気分が悪くなった。低いうなり声や呻き声がどこからともなく聞こえる。一人の男が出てきた。これもまた自分の父と同じような普通の商人の顔で、かえってぞっとするような薄気味悪さを感じた。
「これがあの王宮にすら噂が届いたという・・・なるほど、きれいな目をしている・・・顔立ちも体つきも申し分ない・・・失敗しないように気をつけねば・・・・」
男はいやらしい目つきでジャレッドの体をじろじろ見た。
「もったいないな・・・・噂さえ流れなければまだまだこの街の人間を楽しませたものを・・・去勢などしたら3人に1人は死ぬというのに・・・」
ジャレッドがガタガタ震えているのがわかる。俺も熱くもないのに背中にべったりと汗をかいていた。
「心配するな、あんまり苦しまないよう薬を使ってやる。ここから先はお前は入らないほうがいい。子供の時そんなところを見てショックで自分のものが使い物にならなくなったやつもいる。もう家に帰っていろ」
「ここで待っている・・・もし何かあったら・・・」
「それなら好きにしろ」
俺は震えるジャレッドの体を抱きしめた。
「大丈夫、もう覚悟はできている」
「嘘をつくな、それがどんなに怖ろしいことか知っている。殺されるよりも怖い・・・いいか、ジャレッド・・・生きるんだ・・・ただ俺のために耐えて生き延びてくれ・・・きっといつかまた一緒に暮らせる日が来る、必ず来る・・・だから耐えてくれ」
「大丈夫、耐えられるよ・・・・君の幻を見て・・・」
「だめだー!やっぱりだめだー・・・ジャレッド、逃げるんだ!・・・お前をそんな目に合わせるなんて、殺してやる!ここにいるやつら全部殺してやる!・・・お前を守るためなら」
俺はとっさに手にしていた剣の鞘を抜いた。周りの者がいっせいに後ろへ下がった。だがジャレッドは静かに俺の方にやってきた。
「だめだよ、コリン、こんなことをしては・・・僕はもう怖れていないから剣を下ろして」
「なぜ、お前はそんなに落ち着いていられる。生贄のために体を切り刻まれる羊と同じなんだぞ。なぜ抵抗しない!」
「僕の代わりに君が抵抗してくれるから・・・君が逃げてくれるから・・・僕の代わりに君が何もかもやってくれて夢を見させてくれるんだよ。学校で勉強をしていろいろ教えてくれたのも君だった。普通の暮らしをして結婚して子供が生まれる、僕のできないことを君が代わりにやってくれて夢を見せてくれる・・・ただそれだけでいいんだ・・・君が僕に夢を見せてくれれば・・・だからもうこの剣を下ろして・・・コリン」
「いやだ!そんなのいやだ!・・・・俺は許せない・・・許せないんだ!」
いつのまにか何人もの男が俺の周りに集まっていた。何人もの男に取り押さえられ腕を捕まれている間にジャレッドは連れて行かれた。俺はただもうわけもわからず暴れて騒ぎまくっていた。激しい怒りが後から後からこみあげてきた。やがて暴れまくる俺よりももっと鋭く悲痛な叫び声が聞こえて来た。俺はその場にしゃがみこんだ。苦しげな叫び声に自分の声はまったくでなくなっていた。何度も繰り返される叫び声、早く終わってくれ、早く楽にしてやってくれ!俺は心の中で叫び続けた。
どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。周りには誰もいなくなっていた。俺1人が長い間冷たい石の床に座り込んでいた。
「目を覚ましたぞ、会って慰めてやれ・・・ただし水は絶対に飲ませるな」
「え、今なんて言った」
「水を飲ませるな。3日間ちょっとでも水を飲んだら傷口が詰まって確実に死ぬぞ、いいな」
「3日もなんて、そんな話は聞いてないぞ」
「前もって言えば余計暴れていただろう。あいつの方がよっぽど落ち着いていた。やられる本人よりも他の人間がこんなに暴れるなんて・・・」
「俺、自分でも何がなんだか」
「そんなに大切な友達だったのか・・・だったら早く慰めてやれ・・・・いいか、水だけは絶対に飲ませるなよ・・・3日間頑張って生き延びればあいつは王宮でもきっと王のお気に入りになる。お前の家もここも褒美がたんまりもらえるさ、元気出せ」
「褒美などいるか!あいつを差し出した代わりの褒美など!」
「声が大きいな・・・・早く行け・・・・」
その部屋には大きな木の枠がおいてあった。手足を固定するためのひも、たくさんの刃物や薬などが棚に置かれている。薬と血の匂いで気分が悪くなるのを懸命にこらえてジャレッドが寝かされているベッドに近づいた。下半身には幾重にも布が巻かれているが、その布にも赤いしみがところどころついていた。ジャレッドは苦しげな呼吸の中、目をそっと開いた。
「コリン・・・そこにいるの・・・」
「ジャレッド、大丈夫か!」
「君の声がずっと聞こえていた」
「俺は情けないよな・・・結局お前のために何もできずただわめきちらしているだけだった」
「うれしかった・・・・・」
「え、・・・・?」
「君の声がうれしかった・・・・あんまり君がいろいろ騒ぐから僕は君が何を叫んでいるのかつい聞き耳を立てて聞いてしまった。怖さを忘れられたよ」
「ジャレッド、よくがんばったな・・・・俺だったら耐えられなかった・・・だけどこれで終わりじゃないんだ・・・お前は3日間水を飲むことができない」
「それならあと3日間君と一緒にいられるんだ」
「ジャレッド・・・・」
「だって水も飲めない状態なら王宮に連れて行かれたりはしない。君と一緒に3日間は過ごせる」
「傷の痛みと水も飲めない状態のままで・・・・」
「でもこうして君と話すことはできる。何を話そうか・・・君と一緒にいられる最後の3日間」
「最後の3日間なんて・・・・」
「宿屋でもらったあのモザイクの絵はここにある?」
「家においてきてある」
「それをもってきてほしい。君は学校でいろいろなこと習ったんだよね。昔の偉大な王様の話や大きな帝国の話、全部聞かせて欲しい」
「ジャレッド、お前はもうすぐ・・・・」
「だから聞かせて欲しいんだよ・・・ずっと君のこと思い出していろいろな夢が見られるよう・・・僕達の話は悲しいから昔の偉大な王様の話を聞きたい・・・・僕達の話は悲しすぎる・・・・」
「・・・・・・・・」
「もう一度生まれ変わって出会った時、どんなこと覚えているのかな・・・辛すぎる記憶ばかりじゃ何もかも忘れてしまいそうだから、君にいろいろな話を聞いておきたいんだ。偉大な王様や英雄の話、こうして二人で話したこと、わくわくするような昔の話はずっと覚えていられるよ・・・君と過ごした日の記憶、ほんの少しでもいいから覚えていたいんだ。また出あった時に話せるように・・・」
「わかった、ちょっと待っていろ。いろいろもってきてやるから・・・俺の知っている話全部お前に話してやる・・・お前が覚え切れないほどたくさん・・・・」
俺はその部屋を飛び出して自分の家に向かって走った。目から涙が溢れて止まらないがかまわずに走り続けた。
−つづくー
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