言葉の錬金術師(2)
「なあ、ヴィタリー、お前はまだ童貞を捨てていないのか」
二人っきりになった部屋で兄貴はいきなり変なことを聞いてきた。俺はあくまでも勉強を教えてもらうつもりであったのに・・・数学、歴史、化学・・・テストのことを考えると頭が痛い。
「今はそれどころじゃないんだよ、賭けをしようとか、兄弟で愛し合うとか、俺はまったくそんな趣味はないから、兄貴はどうかしている」
「そうムキになって怒るな、怒るとこみると図星か」
「ああ、そうだよ、どうせ兄貴は俺なんか高校生の時にはとっくに捨てていたとか自慢するんだろう」
「別に自慢する気はない。ただお前、その状態じゃ、勉強に身が入らないだろうと心配しているだけさ」
「大きなお世話だ!今はテスト前で忙しい。教えてくれないんならよその部屋へ行ってくれ」
「お前にそう言われるとは思わなかった。俺が試験勉強をしている時、いつもまとわりついていたのはだれだっけ?」
「ああ、そうだよ。俺はいつも兄貴にまとわりついていた」
考えてみれば俺はいつも兄貴の側にいた。兄貴が好きというより我が家には他の人間がいなかったからだ。父はユダヤ教会の集まりとかにしょっちゅう行っていて、家にはいないことが多い。母は店の仕事が忙しい。そばに誰かいないと落ち着かない俺はしかたなく兄貴にくっついていた。なぜそうなってしまったのか。詳しくはわからない。ただ、ウクライナを出る船に乗ったとき、空も海も灰色でひどく暗く、心細くなって兄貴の手をずっと握っていた。そんな子供の頃の記憶があるからだろうか?
「お前、うちの商売についてはどう思う?」
「どう思うって別に悪くないけど・・・・」
「あの料理、うまいと思うか?」
「あんまりうまくはないけど、別にそう悪くはない」
「お前はあんまり他で食ってないからそういうことが言えるんだよ。いいか、はっきり言うぞ。うちの店の料理はマズイ。リトル・オデッセでまずいと評判の店にいくつか入ってみたが、うちほどひどくはなかった」
「兄貴、そこまで言うことないだろう」
「俺だって身内の悪口なんか言いたくはない。だけど、うちの店のものがマズイ。これはもう疑うことのできない真実だ」
「俺は別にそれほど・・・・だって客は結構入っているし、みんな喜んで食べているだろう」
「それはみんなお前にだまされているからだよ。お前がうまそうに食べるから、客はおいしいものだという幻想を刷り込まれてしまうんだ。なんならお前の苦手な数学で証明してやろうか」
「やっと数学の話になったか」
兄貴は多分単純な思考回路しか持っていない俺よりも数倍頭がいいのだろう。だが苦手な数学に結びつくかもしれないと思うと俺も真剣に聞かざるを得ない。
「いいか、じゃ、まず俺の舌が最高で絶対的に正しいと仮定するぞ」
「兄貴の舌は最高なのか」
「数学だよ、数学、まず仮説を出し、それを証明して結論を出す」
「わかったよ」
「俺の舌はうちの店の料理はマズイという結論を出した。これはどこからくるか。他の店をいろいろ食べ歩いて、そう結論を出した。これは他の店という評価基準が他にある。つまり俺の個人的主観だけではない」
「なんか、よくわからないな」
「次にお前の舌が正しいと仮定する。お前の舌はうちの料理がそうまずくはないと判断した。だがその根拠はどこにある?お前はいったいうち以外のどこで他の料理を食べたことがある」
「ほとんどないよ」
「ということはつまり、お前は子供の頃からうちの料理を食べ続け、これはうまいものだと刷り込まれている可能性がある。そんなお前の判断でうちの店の料理の絶対的な判断はできるか」
「もういいよ、わかったよ、どうせ兄貴は俺がうちの料理しか知らないから、まずいものも平気で食べるといいたいんだろう」
「ああそうだ。はっきり言おう、お前は味覚オンチだ」
「味覚オンチ、なんだそりゃ」
「味がまったくわからないやつのことだよ。お前、確かこの前の作文で将来はコックになってうちの店を継ぎたいとか書いてあったよな」
そんなことまで知られていたのか。まあ俺はあまり気を使わずに学校の宿題でも手紙なんかでもそのへんにちらかしていたりするが・・・・
「本気でコックになるつもりか」
「ああ、そうだよ、だって俺、頭あんまりよくないから大学行けそうもないし、大学出た兄貴ですらなかなか仕事が決まらない。店を継ぐのが一番かなと思って・・・それに俺、けっこう店の手伝いとか好きなんだ」
「好きはいいけど、だったらお前の舌、どうにかしないとな・・・・はっきり言う、今のお前の味覚で作った料理、金を出して食べるやつはいない!」
「でも、いま店にはたくさんの客が・・・・」
だんだん反論できなくなってきてつい涙ぐんでしまう。口げんかで兄貴に勝てたことなど一度もなかった。俺が涙ぐんでいるのを見た兄貴は慌てて少しやさしい口調になった。
「おい、ヴィタリー、そんなに悲観するな。俺の言い方が悪かった。今のお前は無理だけど、別に方法がないわけではない」
「じゃあ、どうすりゃ、いいんだよ!コックになろうとしているのにお前の作った料理はまずくて食べられない、なんて言われてさ」
「ヴィタリー、泣くなよ・・・・ほら、いい子だからさ・・・・」
別に悲しいわけでもないのに、ふいに涙が出てきた。兄貴は俺を抱き寄せ、そっと頭をなでている。なぜだかわからないが、俺は素直にされるままになっていた。
「ヴィタリー、悪かった。お前を泣かせるつもりはない。ただ俺はお前に真実を伝えたいだけだ」
「真実?」
「ああ、そうだ。真実と向き合うのは辛いことだ。結果の悪いテストが返ってきたり、好きだった女の子に勇気を出して告白したら、あんたなんか大嫌いと言われたり、生きている間には常に自分を否定されるような真実と向き合わなければならない。お前は今、コックになろうとしているのに、舌が役にたたないという真実を突きつけられた。お前はハンサムだからまずいものを出してもそこそこ客はやってきて、うまそうに食べるかもしれない。でもそれは真実ではない。ただみかけがいいというだけで店を始めれば、必ずいつかは足元から崩れ崩壊する」
言葉どおり、俺は今目の前が真っ暗になり、足元が崩れて落ちていくような気分を味わい、あわてて兄貴の体にしがみついた。
「なぜ、俺がお前を不安にさせるようなことばかり言うか、教えてやろう。お前を愛しているからだ」
「愛しているって・・・・」
「弟としてではない。いつの間にかお前を本気で愛しているのに気がついた。随分前から、お前の行動にやたら腹が立ったり気になったりしていた。憎らしいからではなくて愛していたからだ。ずっとお前が好きだった。だから真実に目をつぶり、女の子にキャーキャー言われてマズイ料理をうまそうに食べているお前に我慢がならなかった」
「だって、俺達は兄弟でしかも男同士・・・・」
「そんなことは関係ない。これが俺の真実だ。お前も心の奥底でそれを望んでいた。よく思い出して考えてみるがいい。いろいろ理由をつけてどれだけお前が俺の側にやってきたかを・・・普通の兄弟でこんなにいつも相手のことばかり考えていられるかい?兄弟ということや男同士ということに惑わされて、俺達は真実から目をそらそうとしていた。あれだけいつも女の子にキャーキャー騒がれ、ラブレターを山のようにもらって、バレンタインデーに食べきれないほどのチョコをもらうお前が、どうして特定の女の子と付き合わず、いつまでも童貞のままでいた。おかしいとは思わないのか」
そうではない、兄貴の言っていることはおかしい。俺は別に兄貴が好きで童貞を守っていたわけじゃない。いくら騒がれても自分がいいと思った女の子ではなかった、ただそれだけのことだ・・・・
「愛している、ヴィタリー!誰よりも・・・誰にどう非難されてもかまわない・・・俺はお前が欲しい」
俺を抱く兄貴の腕に力が入り、唇を押し付けられた。俺はまだ女の子とキスをしたこともなかった。唇を強く押し付けられ舌を差し込まれた。違う、何かが違う!兄弟でこんなことをしてはいけない!心で叫んでも体は少しもいうことを聞いてくれない。体中がほてって熱くなり、思わず大きく開いた口に舌が絡み付いてくる。舌だけではない。肩をつかまれ、腰がぶつかり合い、体のあちらこちらで血が激しく脈打っているのを感じた。激しい勢いで押し流され、知らず知らずのうちに俺も舌を兄貴とからませ、喘ぎ声を漏らしていた。
「いい子だ、ヴィタリー、愛している」
兄貴の手はゆっくり俺の体の中心へと進んでいった。
−つづくー
後書き
これは言葉の錬金術師というよりも詐欺師ですね(笑)相手にショックを与えて不安にさせ、それからこうすれば大丈夫と安心材料を見せ、言いなりにしてしまう。詐欺師の手順と同じです。ただユーリがどこまで弟をだまそうとしているのか、言葉の中で自分でも酔ってだんだんその気になってきているのか、書いた本人もわからなくなっていますが・・・
2006.2.16
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