16、後宮
アレキサンドリアの出来上がったばかりの宮殿の寝室、私を抱きながらアレキサンダーはつぶやいた。
「お前と離れるのは辛い。だがお前の幸せのためならば・・・」
「何を言っている。僕は君と離れたりはしない」
「もうすぐ俺はここエジプトを離れ、再びペルシャへの遠征を始めるつもりだ。だがお前はここに残れ。俺に代わってこの国を治めるよう総督に任命する」
「ちょっと待ってくれ。僕は総督になどとても・・・」
「自分を低く見るな、ヘファイスティオン。お前はこの国で元のファラオや大臣、神官は元より、この街に住む普通の民にまで敬われ、慕われている。俺に代わってりっぱにこの国を治めることができる」
「それならばアレキサンダー、君もこの国にとどまればいい。君がファラオとなってこの国を治めるなら、僕は喜んで君の手助けをする」
「それはだめだ!俺はペルシャに戻ってダレイオス王を追い、そこからさらに東へ向かわなければならない」
アレキサンダーは私の体の中に入り、激しく腰を打ち付けてきた。嵐のようなその行為の間、私は口を利くことも何かを考えることもできなくなる。苦痛に顔を歪め、叫び声を上げながらも彼を受け止めるため必死でシーツを握り締める。私にはわかっていた。彼が一つの場所にとどまることはない。それならば私も・・・
「東に行くなら一緒に行く」
「お前は戦いには向いていない。この国なら民に慕われ、ファラオと同じような栄光と名誉に包まれた生活ができる。俺はお前を戦いで失いたくはない。頼むから残ってくれ。もうこれっきり会えなくなるというわけではない。ダレイオス王を殺し、ペルシャを支配下に置いたらまたすぐに戻ってくる」
「いやだ。僕は君を愛している!一緒についていく」
「子供のようなわがままを言うな。誰もが密かにここに残ることを望んでいる。プトレマイオスもカッサンドラも他の誰もかも・・・だけど俺は他の者を総督に任命したりはしない。お前以外の誰かに王と同じ権限など与えはしない。誰よりもお前を愛しているからここで王となって欲しいのだ。わかるか?」
「わからない、王になどなりたくない。君についていく」
「戦いで必用なのはプトレマイオスのように知恵のある男やカッサンドラのように力のある男だ。俺は戦いの前、彼らを愛して抱き、その力を自分のものにする。お前ではだめだ。足手まといになるばかりだ」
「足手まといにはならない。一緒についていく。愛している」
「強情なやつだ。これでも愛していると言えるのか」
アレキサンダーの動きはいっそう激しくなった。彼の体は刃となって内側から私を切り裂いていく。私は悲鳴を上げ続けた。この愛の行為はお互いが思いやって行ってもいくらかの苦痛を覚悟しなければならない。それがアレキサンダーのような気性の激しい人間が一度暴れれば、拷問と同じ苦痛を味わうことになる。どれだけ酷い拷問を受けても彼への気持ちが変わることはない。絶叫の中、途切れ途切れになりながらも私の言葉は変らなかった。
「愛している、愛している・・・・愛している!」
痛みがふっと軽くなり、意識を失った。
数日後、私はアレキサンドリアから出港する船の中にいた。たくさんの人が見送りに来ていた。私は手を振って彼らに別れを告げた。一年に満たない滞在であったが、多くの人に愛され慕われ、最も充実した時を過ごした国であった。見送りの人々は誰もが皆アレキサンダーと私の名前を呼んでいた。
「大した人気だな、ヘファイスティオン。俺よりもお前の名前を呼ぶ者の方がずっと多い。今からでも遅くはない。お前はアレキサンドリアに残るか?」
「いや残らない、アレキサンダー、君と一緒に行く」
「強情なやつだ。アレキサンドリアに残したやつはお前の代理ということで、総督には任命しなかった。ここがお前の故郷だ。戻りたくなったらいつでもそう言え」
「もし君の遠征が終わって、ファラオとなる決心ができたなら僕は喜んで君と一緒にここに帰ってくる。この国が君にとっても故郷になるならば・・・」
船の旅は砂漠の旅とは比べられないほど快適なものであった。エジプトを支配した私達の軍隊はたくさんの船と財宝を手に入れることができた。エジプト人の傭兵や新しくマケドニアから来た者も加わり、兵士の数も急激に増えた。その大軍でエジプトからペルシャへと向かった。ペルシャの首都バビロンではダレイオス王を失って抵抗する者もなく、私達は熱狂的な歓迎を受けて入城した。バビロンの街に入り、私は街の建物の大きさ、華麗さ、技術の高さに圧倒された。自分も多くの技術者を連れてエジプトへ行き、新しい街を作った。アレキサンドリアは素晴らしい街だと褒め称えられたが、このバビロンと比べると急に色あせて見えた。ペルシャ帝国の圧倒的な富と権力と文化と技術の全てがこの街に集まっていた。
「エジプトも素晴らしかったが、ここペルシャの財宝もかなりのものだ。わがマケドニアの兵士全員が一生かかっても使い切れないほどの財産がある。ダレイオス王はこれほどのものを独り占めしていたのか」
アレキサンダーはうれしそうに言った。この街には彼を喜ばすものはいくらでもある。やがて私達は王宮の隣にある後宮へと足を踏み入れた。そこはもう別世界であった。珍しい花や飾り物がおかれている広大な部屋に、色とりどりの衣装を身につけた女が歩いたり踊ったり、寝そべったりしている。気の早い兵士達は早くもどの女がいいか物色している。
「よくもまあダレイオス王はこれだけの女を集めたものだ」
アレキサンダーが感心してため息をついた。
「いかがでございますか、アレキサンダー王。そしてそちらの・・・」
「ヘファイスティオンだ。王である私と並ぶほどの者である。しっかり名前を覚えてくれ」
「失礼しました、ヘファイスティオン様、お気に入りの女がございましたら、すぐに別の部屋にご用意いたします」
ペルシャ人の男が流暢なギリシャ語で案内してくれる。だがこの男、どうも変である。どう見ても四十歳は越えているはずなのに髭がなく、声も妙に高い。色白ででっぷりと太り、その手足や胸元にはほとんど毛が生えていない。だがアレキサンダーは案内の男のことなど少しも気にしてはいない。彼の目はさっきから一人の女をじっと見ている。その女は他の女とは違う不思議な魅力があった。まだ歳若いのだろうか、手足はすらりと伸びているのに胸のふくらみはほとんどない。黒い目と長い黒髪・・・
「あの女、お前とよく似ているな」
「僕にもペルシャ人の血が流れているから」
「魅力的で美しい・・・」
「アレキサンダー王、あの者は女ではありません。宦官です」
「宦官?」
アレキサンダーが驚いて聞き返した。宦官などという言葉は私も聞いたのは初めてであった。
「元は男ですが、去勢しました。私も宦官です」
「なぜそんなことをする?」
「後宮に王と宦官以外の者が入ることは許されません。私は元は貴族でもなんでもない貧しい家柄でしたが、自ら去勢して宦官となり王に仕えることができるようになりました。幸い私は他の国から来た人の言葉を覚えるのも早く、高い地位を得ることができました」
「あの者も自らの意思でここに来たのか」
「いいえ、あれは奴隷市場で売られていたのを買ってまいりました。たいそう美しくきっと王も気に入られるだろうと・・・ところが王は別の宦官が買ってきたバゴアスという者を気に入り、こちらはさっぱりでございました」
「奴隷市場」この言葉に胸が痛くなった。まだ歳若いあの少年は奴隷として売られるために無理やり去勢されたのだろうか。もちろんマケドニア、いやギリシャ中に奴隷はたくさんいるが、それは働くために使われ、去勢されるという話は聞いたことがない。
「本当に美しい、ゼウスが愛したガニュメデスもあんな感じだったのかな」
「本当はもっと美しい者がいました。バゴアスという名前で、おそらくペルシャ中、いやどこの国を探してもあれほど美しい者はいないでしょう。バゴアスが後宮に来てからはダレイオス王は彼だけをお相手に選び、他のものが選ばれることはなくなりました」
「それほど美しいのなら、ぜひ見てみたい。どこにいる、そのバゴアスとか言う者は」
「今バビロンにはいません。ダレイオス王は逃亡の時ですらバゴアスを手放したがらず、一緒に連れて行きました」
「そうか、それは残念だな。それではあそこにいる宦官でもよい。さっそく用意してくれ」
私はとっさにアレキサンダーの手をつかんだ。私とよく似た顔立ちの去勢された男をアレキサンダーが抱く。それは耐え難い苦痛であり屈辱であった。性器を切り取られる苦痛はどれほどのものか、そうした体で男に抱かれるのは苦痛なのか喜びなのか、いくら彼が私とは全く別の人間だと考えようとしても、よく似た顔立ちが、体に流れる同じペルシャ人の血が激しく拒絶している。
「だめだよ、アレキサンダー、宦官なんて絶対にだめだ。そんな行為、神の怒りに触れる」
「ヘファイスティオン、顔色が真っ青だぞ、何をそんなに怖れている」
「去勢して奴隷として売るなんてそんな怖ろしいこと」
「なにを言っている。この辺りの国では普通に行われていることだろう」
「そうでございます。ヘファイスティオン様、此処にいる者は女でも宦官でも王に選ばれることが全てです。今新しい王に選ばれ、仕えることができた者は幸せです。どうか貴方様も気に入ったものをお選びください」
「そんなことできない。どうしてもそうしたいならアレキサンダー、君はかってにそうすればいい。僕はこんな場所にはいられない。今すぐここを出て行く」
私は一人で後宮を出て行こうとした。アレキサンダーや他の兵士たちが褒め称え、放心状態になっているこの場所が私には酷く呪わしい所に思えた。
「お待ちください」
どこからか、美しい威厳のある声が響いた。
−つづくー
後書き
前半のエジプト、もしヘファイスティオンがアレキサンダーよりも長生きしたらここはプトレマイオスではなく彼が引き継いだのではないかと思います。(クレオパトラはプトレマイオスの子孫だから世界の歴史は大きく変っていただろう)
後半の後宮の宦官の話。私も本で読んでかなりショックを受けたので、そのままのセリフをヘファイスティオンに言わせてます。
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