22、バビロンの王宮
私達の一行はバビロンの都に戻った。アレキサンダーと私は宮殿の一室でダレイオス王の二人の王女、スタテイラとドリュペデスに会い、王の死を報告した。二人ともすすり泣き、伝えるアレキサンダーも痛みをこらえるかの表情で、途切れ途切れに話しかけていた。
「ダレイオス王は、臣下の者に裏切られ、殺されていました。私どもは最後まで王と直接お会いして和平交渉を進められるよう願っていたのですが、それはかないませんでした。その後、ダレイオス王と一緒に逃亡した臣下の者を捕らえ、一部の者を除いてその場で全員処刑しました。家臣の身でありながら、王を裏切って殺すという行為が許せなかったのです。ダレイオス王の無念を思うと・・・」
アレキサンダーの目から涙が溢れ、言葉を続けることができなかった。私も、二人の王女も何も話せず長い沈黙の時が流れた。
「ダレイオス王は偉大な王でした。私の名において、偉大な王にふさわしい立派な葬儀を行い、また貴方方王の家族は今までと変わらぬ生活ができるようにいたします。どうか貴方方の御父上の命を救えなかったことをお許しください」
「いいえ、敵の娘である私どもに対してこのような心遣い、本当に感謝しております」
スタテイラがアレキサンダーに向かって頭を下げた。ドリュペデスはうつむいたままである。アレキサンダーが私に向かって目で合図をした。これで報告すべきことはすべて話した。もう出て行こうという意味であろう。このまま別れてしまっては、いつまたこの二人に会えるかわからない。
「お待ちください。私のような者が、ダレイオス王の死の報告を聞き、悲しみに沈んでいるお二人に何を言ってもなんのなぐさめにもならないことはわかっていますが、それでもお伝えしたいことがあります」
私は本の間にはさんであった薄い紙を取り出した。その紙の間には白い花をはさんであった。
「この白い花がダレイオス王が亡くなられていた場所の周りでたくさん咲いていました。殺された王の無念や苦しみは私にはわかりかねるものでございます。ですが死の直前、この花を見て少しでもお心が慰められれば、そうであってほしいと願い、1本だけ摘んでまいりました。この花をお二人にさしあげます。私のせめてもの気持ちです」
「ヘファイスティオン、俺は王の死を見た時、激しい怒りにかられ、裏切り者を追いかけることばかり考えていた。俺の目には花も周りの景色も少しも映ってはいなかった。その同じ時お前は死者を悼み、同じ景色を見ていたのだな」
「私はそのような立派な思いを抱いていたわけではありません。ただ花が目に映り、持ち帰ってしまっただけです。どうかお受け取りください」
「ヘファイスティオン様、あなたのお心使いは私も妹も生涯忘れないでしょう」
スタテイラが答えて、紙にはさんだ花を受け取った。ドリュペデスはただ私の方を見て、頷いただけであった。私の恋は終わった。もう二度と彼女達に会うことはないだろう。
ダレイオス王の葬儀が終わると、バビロンの王宮の王が住んでいた部屋でアレキサンダーも生活するようになった。バゴアスを始め、たくさんの宦官や奴隷が彼の身の回りの世話をして、同じ宮殿の中に住んでいてもめったに会えなくなった。遠征の時のような天幕での生活とはわけが違う。アレキサンダーとちょっと話をするにもいちいち宦官に話を通さなければならない。素晴らしい宮殿での生活も私にはだんだん不自由に思えてきた。もちろん夜の相手もバゴアスが務めているようで、私の部屋になど全くこなくなった。いや宮殿の中では王が歩き回ることなどめったになく、呼び出されてはじめて王の部屋にいくのであろう。
「ヘファイスティオン様、イスカンダル王がお呼びでございます」
バゴアスが昼間私を呼びに来た。彼のアレキサンダーを呼ぶときの、イスカンダルという言い方がどうも気に触る。名前を呼ぶときですら、特別の想いがこもっている。
「イスカンダルではなくアレキサンダーと私達は呼んでいる。何回言ったら覚えるんだ。お前は他の人間の名前はすぐ覚えてスラスラ言えるのに、どうして王の名前をいつまでもペルシャ風の呼び方で呼ぶ」
「申し訳ありません。アレキサンダー王がお呼びです。すぐに王の部屋までおこしください」
彼のギリシャ語の話し方はほぼ完璧である。言葉遣いだけではない。目上の者に対するお辞儀の仕方から、話しかける時の距離のとり方まで何をとっても非のうちどころがない。まだ15歳の、私よりかなり背も低く、美しいながらもあどけなさも残る少年にこうした態度を取られると私はどうも落ち着かない。しかも彼はダレイオス王だけでなく、アレキサンダーの心も虜にしている。いやな気分だがなるべくそれを見せないようにバゴアスの後について歩いていく。何人もの奴隷や宦官が頭を下げて並んでいる部屋をいくつも通り過ぎ、やっとアレキサンダーの部屋に着く。
「イスカンダル王、ヘファイスティオン様をお呼びしました」
「ご苦労だった」
「では、私はこれで」
「まて、お前もここにいろ。お前に関係ある話だ」
「かしこまりました」
「アレキサンダー、バビロンの王宮は君に会うのも一苦労だ。おまけに宦官は君の名前を別の呼び方するし・・・」
私はかなり皮肉をこめてアレキサンダーに話しかけた。だが彼は私が皮肉を言っているなどとは思ってなくにこやかに笑っている。
「ヘファイスティオン、王宮での生活もなかなかいいもんだよ。お前だって今では王の一番の側近だ。もっと立場を考えて、お前に仕える奴隷や宦官を増やした方がいい。夜の相手だってなかなかのものだ」
「いまいる数で充分だ!そんな大勢の人間に取り囲まれたらそれこそ居心地が悪い」
「大勢といってもいつも俺の側にいるのはバゴアスだけだ。彼は実にかしこい。人の心はよくわかるし、いろいろな国の言葉もよく覚えている。人の名前も顔も一度覚えたら決して忘れない。本当に役に立つ」
「君の名前はずっとイスカンダルのままだろう。どうして注意しない」
「その言い方は結構気に入っている。バゴアスにはイスカンダルと呼ばれた方がいい」
「僕はそんな呼び方で君の名前を呼べない」
「当たり前だ。ヘファイスティオン、お前はアレキサンダーと呼べばいい。呼び名なんてどっちでもいいだろう」
「よくないよ、君はアレキサンダーだ。イスカンダルでは決してない」
子供のようにむきになって叫んでしまった。イスカンダルという呼び名を認めたくはなかった。認めてしまえばアレキサンダー自身もバゴアスのものと認めるような気分であった。私は嫉妬している、バゴアスに・・・敵国の奴隷であり、去勢された宦官でなんの力の権力もないこの少年になぜこれほど嫉妬しなければならないのか?彼が美しい女や男の奴隷に夢中になったり、他の男、特にカッサンドラなどその力に憧れて随分長い間夢中になっていた、そんなことは今までいくらでもあった。でも私とアレキサンダーの関係はそんな一時的なものではない、深い絆で結ばれている、そう信じていたはずなのに、このバゴアスという少年にはカッサンドラとは違った不安をかきたてられた。
「ヘファイスティオン、何をそんなに怒っているんだ。そんな顔お前には似合わない」
アレキサンダーはいきなり私を抱き寄せ、口付けをした。
「ちょっと待ってくれ。バゴアスがみているだろう」
「バゴアスは俺達の関係をよく知っている。気にすることはない」
「君は気にしなくても僕には気になる。だいたい君は僕の気持ちなどまるでわかっていない」
「わかっているよ。お前の気持ちはよくわかっている。お前はダレイオス王の姫の一人、ステラに恋している。俺はスタテイラに夢中だ。俺達は好きになる相手までそっくりだ。いずれはお互いにそれぞれ思う相手と結婚して、この国を治めていきたいと思う。だけどそれは今ではない。ペルシャは俺達が思っていたよりも遥かに複雑な歴史があり、内外に敵も多い。まずその問題を片付けてからだ」
「アレキサンダー、政治の話を話題にするなら、バゴアスには聞かれないほうがいいのではないか。別の部屋に控えさせた方がいい」
「アレキサンダー王、私は別の部屋で控えています」
バゴアスがそう言って出て行こうとするのをアレキサンダーが止めた。
「待て、バゴアス、お前もここにいろ」
「どうして?」
「俺がこの国について知ったことのほとんどはバゴアスから聞いたことだ。彼はダレイオス王に信頼されて、どこに行くのにも一緒についていった。実にいろいろなことを知っている。俺一人なら十数年かかってもわからないようなことまで彼に聞いて、数十日で理解できた」
「そうか、ただ気に入って寵愛していただけではないのか」
「当たり前だ。俺は王だ。マケドニアの王だけでなく、これからはこの広大なペルシャ帝国をも支配下に置き、治めていかなければならない。いろいろな知識が必要だ。バゴアスは実に役に立つ。それだけではない・・・バゴアス、ヘファイスティオンには話してもいいか」
「はい、アレキサンダー王がいいと思われるなら、私に異存はございません」
「他に聞いている者がいないかよく確かめて、部屋の扉を閉め、鍵をかけろ」
「かしこまりました」
バゴアスは周りの様子を何度もうかがい、鍵を閉めた。
「そんなに人に聞かれては困る話なのか?」
「ああ、このことはダレイオス王も他の家臣も誰も知らなかった。バゴアスがただ一人心の中に秘めていたことだ」
「私は5年前、家族が殺され、男であることも奪われ奴隷の身になりました。その日、生き延びるためには自分の過去は捨てなければいけないと悟りました」
「彼は生まれた時から奴隷という身分ではない。ダレイオス王の前の王の重臣の世継ぎだった。宮廷内の陰謀でその重臣や家族は皆殺され、彼一人が生き残った。その後王も代わり、皮肉なことにバゴアスはダレイオス王に仕えることになった。重臣の子としてではなく奴隷の身分でな。それで間違いないか」
「はい、そのとおりです」
「なぜそのことをアレキサンダーにだけは話した。奴隷の身分を抜け出したいのか」
「いいえ、私は自分の過去は誰にも明かさず、一生奴隷のままでいるつもりでした。ただイスカンダル王にだけは、自分が奴隷の生まれではないことをわかっていただきたくて・・・ただそれだけです。奴隷の身を抜けて自由になりたいとは思いません。生涯、イスカンダル王に仕えるつもりです」
「お前が望むなら、自由の身にしてやってもよいのだが・・・」
「そのような望みはありません。奴隷のままの身分で充分幸せです。私が知っていることを王にお話しして、それでお役に立てるのならそれで充分です」
「いや、お前の本当の身分を知った時は正直驚いた。だがこれからも同じように仕えてくれるのだな」
「はい」
「ヘファイスティオン、そういうことだ。バゴアスは少し運命が違っていれば、ペルシャ帝国の重臣として俺達に出会っていたかもしれないのだ。このことは誰にも話さない。だけどお前だけはそのことを理解して彼を大切にしてやってくれ」
「わかったよ、アレキサンダー」
私はしぶしぶ答えた。やはりアレキサンダーは私の気持ちなどまるでわかっていない。バゴアスの生まれや身分の高い子だったという話を私に話してどうするというのだ。私の嫉妬心や苛立ちがかきたてられるだけではないか。そっとバゴアスの方を見ると彼も私の方を見た。その顔は王の愛と信頼を得て勝ち誇っていた。
−つづくー
後書き
アレキサンダーは彼なりにヘファイスティオンを愛し、彼の初恋を実らせようと必死なのですが、どうも細かい所はまるでわかっていません。バゴアスのことでは本当に無神経です。2005、10、4
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