26、降伏

バクトリアの地で、私達の軍はいつも圧倒的な勝利を収めた。険しい山道も、凍えるような夜の寒さも少しも気にはならなかった。アレキサンダーと私は毎晩同じ天幕で休んだ。乏しくなる食べ物を分け合って食べ、快楽を分かち合い、そして互いの温もりを感じながら眠りについた。それは私にとって幸せな時であった。

「ヘファイスティオン、いつもお前には驚かされる。もうお前は俺の陰に隠れてオドオドしていた昔のお前ではない。俺と同等、いやそれ以上に戦えるりっぱな戦士となった。俺達は今、神話の世界に近づいている。俺はアキレス、お前はパトロクロスだ。俺達は共に戦い、共に生き、共に死ぬことができる。何度抱いてもお前との愛は決して飽きたり色あせたりすることはない。お前という存在に引き合わせてくれた神に感謝している」
「アレキサンダー、僕はただ君だけを見つめて・・・」
「俺の隣に並んで立つことができるのは、今はもうお前だけだ。それなのに少しも欲がない」
「君は偉大な王だ、アレキサンダー、僕は君と並ぶ者になろうとは思わない。ただいつまでも君の側にいたい」
「愛している、ヘファイスティオン」




私達の軍は、いくつもの部族民との抗争を繰り返しながら、バクトリアの奥地へと進んだ。すぐに降伏してくる部族に対しては、寛大にそれまでと同じ生活をさせたが、抵抗を示した部族の住む場所は徹底的に破壊され、皆殺しにして、生き残った者も奴隷にして売り飛ばした。アレキサンダーが一度裏切られて怒りを感じれば、それは神の怒りと同じに情け容赦のないものであった。この地方ではアレキサンダーの名はある村では偉大な英雄として伝えられるが、別の村では、残酷な虐殺者として伝えられるかもしれない。そして私もいつのまにか人を殺すのに慣れてしまい、返り血を浴び、殺される人間の苦悶の表情を見ても何も感じなくなっていた。私達は今、神話と同じように世界を変えようとしている。この勢いを止めることは誰もできない。

「いいか、ヘファイスティオン、俺達は神の子だ。神は弱さを見せてはいけない。敵に情けをかけたら欺かれ、世界はまた混乱する。俺達は新しい秩序を作ろうとしている。そのための犠牲はやむをえないものだ。お前はわかってくれるか」
「わかっているよ、君はアレキサンダー、神の子だ。思うままに進めばいい。我が軍の通った後には新しい道ができる」




私達の圧倒的な強さに恐れをなしたのか、それとも大虐殺の噂が先に伝わたのか、抵抗する部族は次第に少なくなっていった。私達はバクトリアの最深部までたどり着いた。この地方を支配していた最大の部族長もアレキサンダーの前に跪き降伏した。敵がすべて降伏したという知らせはすぐに届けられ、遠征に参加した数十万の者が山を越え、谷を渡ってこのバクトリアの奥地までやってきた。この土地は作物もよく取れ、昔から交易の中心地として栄えた場所だった。族長は私達を歓迎して何日も続く宴を催した。数十万の者が滞在しても困らないほどここは豊かな土地であった。ここの族長と和平を結べたことにアレキサンダーも満足そうであった。




途中で別れた部隊と合流すると、アレキサンダーはまた王にふさわしい特別の天幕で寝るようになり、バゴアスがつきっきりで身の回りの世話をするようになった。数ヶ月会わないでいる間に、バゴアスの背は伸び、髪も長くなって以前よりいっそう美しくなっていた。前はまだあどけなさを残していたのだが、今見る彼は少年らしさは消え、男でも女でもない妖しい美しさをかもし出していた。そのバゴアスが毎晩アレキサンダーの服を着替えさせ、髪を念入りに梳り、族長が開く宴へと連れてくる。アレキサンダーもまんざらではなさそうである。戦いが終わって和平が結ばれると、私はパトロクロスの座を追われ、ただの側近として仕えなければならない。




「ヘファイスティオン、あの真ん中で踊っている娘はどうだ」

バクトリアの娘が数人で踊っているのを見て、アレキサンダーがつぶやいた。

「どうって、別にみんな同じに見えるけど・・・」
「お前にはダレイオス王の姫以外は女はみんな同じに見えるのか。ペルシャの姫も美しかったけど、あの踊り子はそれとは違う魅惑的な雰囲気がある。バクトリアの娘もいいな」
「アレキサンダー、お前はペルシャの後宮から女をたくさん連れてきているだろう。そんなにたくさん囲っても相手ができなくて困るだろう」
「ああ、そっちの方は半分以上お前に譲ってやってもいい、カッサンドラ。後宮の女にはもう飽きてきたバクトリアの女を試してみたい」
「イスカンダル王、この後私が踊ってもよろしいですか?」

後ろで控えていたバゴアスが遠慮がちに小さな声で言った。

「ああいいだろう。バゴアス、お前の踊りを見るのは久しぶりだ」
「どちらの踊りがよいか、判定していただけませんか」
「それはおもしろい。もしお前の方が上だったら褒美は何が欲しい」
「イスカンダル王の口付けを・・・」
「そんなこと、いつもやっているだろう、お前は欲がないな」
「皆の見ている前で、口付けしていただきたいのです」

バゴアスはチラリと私の方を見た。そしてバクトリアの娘達が踊っていた舞台の上に上がった。バゴアスはたった一人で踊った。上半身は裸で腰の辺りにだけ薄い布をつけている。その細い体は少年のものであるが、長い黒髪と顔の表情は完全に女のものであった。太陽の神アポロンを称える歌と踊りを一人で始めた。彼はギリシャの言葉だけでなく、神話も踊りもいつのまにか全て覚えてしまっていた。アポロンに仕える巫女の踊り、やがて彼女は神殿から連れ去られ、一人の男の前に突き出される。無垢な乙女の嘆きと悲しみ、やがて無理やり抱かれてしまう。バゴアスがたった一人で踊っているのに相手役の男の姿まで見えてくる。初めは抵抗した彼女もやがてはその男を心から愛するようになり、乙女から美しく魅惑的な女へと変わっていく。あたりは静まり返っている。それまで酒を飲んで騒いでいた兵士達も、バゴアスの踊りに見とれて感嘆の声を上げ、すすり泣く者までいた。バゴアスの動きは激しさを増し、そして突然バタリと倒れた。

「バゴアス、バゴアス!」

アレキサンダーが叫び声を上げ、舞台に倒れているバゴアスを抱きかかえて口付けをした。周りの者は一斉に拍手をし、アレキサンダーとバゴアスの名前を皆が叫んだ。バゴアスの体をアレキサンダーが高く持ち上げると興奮は最高潮に達した。

「バゴアスはたいそう役に立つ」

いつのまにかそばにきていたプトレマイオスがつぶやいた。

「危ないところだった。アレキサンダーがバクトリアの娘に心を奪われたら面倒なことになっていた。だがバゴアスのあの美しさにはかなう者はいないようだな。よかった」
「・・・・・・」
「ヘファイスティオン、知っていたか?中央で踊っていたのは族長の娘だ。あの族長、バゴアスを見てすごい顔をしていた。まさか自分の娘よりはるかに美しい宦官がいるとは思いもしなかったのだろう」
「どういうことだ」
「お前今までバゴアスばかり見ていたのか。それでは側近として失格だな。万が一にもアレキサンダーがあの族長の娘に心奪われて子供でも生まれてみろ。後継者選びがややっこしくなる。アレキサンダーはいろいろ女にも手を出しているがまだ世継ぎは生まれていない。誰もが王妃と認めるようなマケドニアの女と結婚してくれるまでは、バゴアスに夢中になってくれているのが一番安全だ」
「そういう見方もあるのか」
「バゴアスにボーッとなったり、嫉妬したりしている場合ではない。俺達はもうアキレスの神話に夢中になって遊んでいられる子供ではない。巨大な帝国を支配する王の側近になっているのだ。アレキサンダーやお前のちょっとした行為や感情のもつれで俺達数十万の遠征軍の人間や、国の運命まで変わってしまう。そのことをよく自覚しろ」
「わかっているさ、もう昔のままの自分ではいられない」
「今、アレキサンダーを動かせるのはお前だけだ。お前が強くなってしまったから、カッサンドラは出番を奪われたと嘆いていた。自分の立場をよく考えて行動しろ。アレキサンダーの身の回りの世話や夜の相手なんかバゴアスに任せておけばいいんだ。どうせあいつは奴隷で宦官だ。どれだけ寵愛されても、権力を握ることは決してない。その間に、俺達側近には別にやることがあるだろう。戦いに勝ち、国が大きくなればなるほどまた問題も多くなってくる。お前だけが頼りだ」

プトレマイオスの言うことは確かに正しい。でも私の心は揺れていた。側近としての地位や権力よりも、今の私はアレキサンダーのそばにいていつでも世話をし、話しができるバゴアスの立場をうらやんでいた。アレキサンダーとバゴアスを称える歓声はいつまでも続いている。そして私を見つめる鋭い視線にも気がついた。それはバクトリアで最も大きな力をもっていた族長のものであった。彼はゆっくりと私の方へ近づいてきた。



                 

                                            −つづくー




後書き
 戦いのある厳しい生活の中では、アレキサンダーとの絆を深められ、平和になって王の権力を取り戻すと、バゴアスに愛を奪われる、皮肉ですね。ヘファイスティオンは結局、王とバゴアスの関係に一番苦しんだのではないかと思います。奴隷で宦官であり身分や地位で圧倒的な差がありながら美貌と知性で愛を奪われてしまったのだから、プライドや自尊心をズタズタにされたと思います。
2005、10、20




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