33、絶望と希望

「ここにいたのか」

ただ一人と思っていた私の隣に座る者がいた。

「ここは静かだ。すぐ下の喧騒がうそのように静かな場所だ。月や星も手に届きそうな場所にある。だけど手を伸ばして本当にいってしまってはいけない、ヘファイスティオン。これはもうしまっておけ」

目の前に短剣を差し出された。

「こんなもの、今のお前には必要ない」
「アレキサンダー、なぜここに」
「ロクサネに対する義務は果たした。次はお前に対する義務を果たさなければ・・・・」
「君の顔に今の僕はどう映っている。狂気の影が映っているか?それとも死人のように青ざめた顔をしているのか・・・野生のけもののように残忍な牙をむき出しにしているのか、わからない、僕は自分がどうなっているのかわからない」
「安心しろ、お前の顔はいつもと少しも変わらない。変わってしまったのは俺の方だ。俺は目の前に見えた自分の理想に夢中になってしまい、お前やバゴアスの気持ちなど少しも考えてはいなかった。酷いことをしてしまった・・・お前にもバゴアスにも・・・」
「バゴアスはカッサンドラが連れて行った」
「そうか、それがいいかもしれない、カッサンドラは俺に反抗ばかりしているが、あれはあれでいいやつだ。あいつなりの信念と正義感を持っている」

カッサンドラの信念と正義感、それは私を陵辱し、バゴアスをアレキサンダーから奪うことなのだろうか?私は酷い屈辱を味わい狂気にさらされるほど追い詰められた。バゴアスも同じ狂気の渕に立っているかもしれない。彼は奴隷であっても心まで奴隷になってはいない。アレキサンダーの結婚にあれほど強く抵抗したのだから・・・・

「今ならまだ間に合うかもしれない。たとえ遅かったとしても、君が迎えに行けば必ずバゴアスは君の元にもどる」
「お前はここでどうする気だ。バゴアスのことより自分のことはいいのか」
「僕は大丈夫だ。君とは長い付き合いだから、君の気持ちはよくわかる。だけどバゴアスはまだ16だ。辛い経験ばかりしてやっと君にめぐり合ったのにまたその希望を失ったらこんどこそ本当に死んでしまうかもしれない」
「それで本当にお前はいいのか!」
「心配しないで、僕には君の気持ちがよくわかってしまうんだ。今君がバゴアスを失ったらどれだけ悲しむか、どれだけ彼を愛しているかよくわかるんだよ。僕達の関係はただお互い抱き合い、欲望を満たして、相手を独占しようとするものではない。もっと別のものを目指しているはずだ。だから君はもう行って。手遅れになる前に・・・・・」
「わかった、お前の体も魂も俺の一部だからな」

私達は軽く口付けを交わし、アレキサンダーは走り去っていった。





「愚か者め、せっかくお前にチャンスを与えてやったのに、それをみすみす見逃すとは・・・・彼はお前の元に来て、邪魔な奴隷は残酷な男の慰み者になって魂を失う。お前の願いがかない、苦しみをなくす絶好の機会だったのに・・・彼の結婚など問題ではない。今もこの先も、お前を狂わせ、絶望の渕に追い込むのはあの奴隷だ。わかっているのだろう」
「わかっている。だがアレキサンダーはバゴアスを愛している。彼を失って悲しむ姿は見たくない」
「偽善者め!そうしてお前は自分を狂気に追い込んでも、彼を悲しませたくはないというのか」
「そうだ、私には彼の心がよくわかる。彼の喜ぶ姿を見ることが私の幸せだ」
「同じことを言った愚かな神が昔いた。人間を愛し、他の神を欺いて人間に火まで与えた。自分はどうなってもいい、ただ愛する人間が繁栄し、幸せな暮らしをすればそれでよいと・・・・その愚か者がどれほどの罰を受けたか知っているのか」
「知っている。例えどのような罰を受けることになっても、私も同じ道を選ぶ!」

再び私の体は大きな石の杭に固定され、動けなくなっている。大鷲が現われ、鋭いくちばしで腹を割き、内臓を引きずり出して食い尽くす。私は身をよじらせ絶叫した。生きたまま体を食われる苦痛に泣き叫び、悶え苦しんでいる。これがただの幻覚であり、夢であることがわかっていても苦痛は果てしなく続く。叫び声を上げながら微かに日の光を感じ、ようやく私は解放された。





数日バクトリアに滞在した後、また遠征の長い旅が始まった。王妃ロクサネの周りに仕える者、侍女やコックや奴隷などと新しくバクトリアで兵士として加わった者もいて、隊列はますます長くなった。アレキサンダーは新しくその土地の者が兵士に加わると、その世話は必ず私に任命した。兵士だけではない、王妃ロクサネとその周りに者の監視まで私に任せてきた。

「本当に信用できる者はお前だけだ。下手なやつに新入りの兵士を任せれば、そこで反乱が起き、隊はバラバラになる。ロクサネの命を狙っている者も多い。誰も信用はできない。お前だけだ。すべてを任せられるのは・・・・」
「だからといって王妃の監視まで・・・・」
「ロクサネと一緒にいると疲れる。やはり寝るときはバゴアスが一番よい。あいつは俺の気持ちを細かい所まで察して、どうしたら俺が心地よく寝られるか、それだけを考えてくれている。お前の忠告どおりバゴアスを連れ戻しにいって本当によかった。カッサンドラが手をつけた後だったが、俺はそんなことはたいして気にしない。あいつはもともとダレイオス王に仕えていた奴隷だし、他の誰が手を出したとてたいしたことではない。ただ俺に対して忠実でいてくれればよい。ただロクサネは王妃である以上、何かあったら俺の体面が傷つく、しっかり見張っていてくれ」
「体面が傷つくのか・・・それならばもし僕が誰かに無理やり陵辱されるとか・・・・」
「そんなことは許せぬ。お前が誰よりも大切な俺の恋人であることはみな知っているはずだ。そんなことするやつがいたらそのばで俺が必ず殺す」
「そうか、そう考えていてくれたんだね」

アレキサンダーの考えは単純である。私のことも愛してくれている。それは間違いない。だが私は次々と任務を与えられ、嫉妬と幻覚に悩まされていた。幻覚を見ては叫び声を上げ、自分が正気でいるのかどうかさえ怪しい。だが私は他の人の目には正常で、着実に仕事をこなす有能な側近であった。アレキサンダーのもっとも信頼する部下の一人である。内面がどれだけ狂気にさらされていようとそれは他の人間からはわからない。私だけではない、バゴアスもロクサネもカッサンドラもプトレマイオスも、そして思いがけない告白をしてくれたフィロタスも、結局今何を思っているのか内面まではよくわからない。まして一人一人の兵士達は何を考えこの道を歩いているのだろうか。答えを見出せないまま、大人数に膨れ上がった遠征隊は、ただ王であるアレキサンダーを中心に進んでいく。まるでそれ自身が巨大な生き物のように・・・・中に病んだ者や、狂気に陥ったものなどがいても気にせずに隊列は進んでいく。



                                                     −つづくー



後書き
 ヘファの感情は狂気にさらされているのですが、遠征の流れ、時代の動きは個人の感情などは全く無視して先へすすんでいきます。流れに身を任せることでヘファも救いを見出しているかもしれません。
2006、1、30


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