(35)死の恐怖
フィロタスは連れて行かれた。皆の天幕から離れた場所で拷問を受けていた。悲痛な叫び声が聞こえた。耳をふさぎ、そばに行ってすぐにでもそれを止めさせたい衝動を懸命に押さえた。アレキサンダーは目で私に厳しく命じていた。決して止めてはならないと・・・その彼の表情も苦悩に満ちている。
「やめてくれー!・・・たのむ・・・・ゆるしてくれー!・・・俺がやった・・・俺が悪い・・・命だけは・・・お願いだ・・・・うわー!・・・」
叫び声は遠くからでもはっきり聞こえる。それが一瞬途絶えた時、私もまた止めていた息を吐き出すことができた。拷問の手が止まったのか、フィロタスが意識を失ったのか、それとも息絶えたのか・・・このまま静寂が続くことを祈った。
「もういいだろう。フィロタスの様子を見てくる。ヘファイスティオン、お前も行くか?」
アレキサンダーの声にはっと我に返った。私は黙って頷いた。今まで見たこともないような険しいアレキサンダーの顔、圧倒的に優勢だったペルシャとの戦い、ガウガメラの決戦の前夜でさえ、これほど厳しい表情はしていなかった。一言も言葉をかけることができない。
「イスカンダル王、お顔の色が・・・私も一緒にお供をしましょうか?」
「来てはならぬ!フィロタスは副将だったパルメニオンの子だ。お前のような身分の者に哀れな姿を見せるのはさぞ屈辱的なことであろう。ここで待っていろ」
「もうしわけありませんでした。つい出すぎた真似を・・・・」
アレキサンダーの拒絶の声にバゴアスはあわてて跪き、頭を地面にこすりつけるほど低く体を曲げて許しを乞うた。私はもう一度アレキサンダーの顔を見た。私にはついてこいとはっきり言っている。またフィロタスのうめき声が聞こえてきた。弱々しい声である。彼が泣きながら許しを乞うている姿が、目の前に見えなくてもはっきりと浮かんだ。
離れた場所にある大きな木に縛られてフィロタスは鞭打たれていた。アレキサンダーが近づくと官吏たちは一斉に手を休めた。
「フィロタスは白状したか」
「はい、アレクサンドロス王、彼は自分が小姓たちに命じて毒を入れさせたとはっきり言いました」
「よくわかった、その場にいた小姓5人とフィロタスは明日の朝、日の出とともに石打の刑により処刑する。もうここから降ろせ・・・」
縛られた縄を解かれるとフィロタスはふらふらした足取りでアレキサンダーに近寄り、足元に跪いて泣き声で話した。
「アレキサンダー、お願いだ、助けてくれ!・・・・俺じゃない・・・・拷問が苦しくてつい・・・本当だ・・・」
「フィロタス、王である俺を毒殺しようとしたほどの男が、このように惨めな姿で許しを乞うとは・・・・」
「俺ではない・・・たのむ・・・命だけは助けてくれ・・・殺されるのはいやだ・・・何もいらない・・・ここを追い出されて身分も名誉も全て失ってもいい・・・命だけは・・・お願いだ・・・・」
「あれほど名誉を重んじ、勇ましく戦ったパルメニオンの子がこのような惨めな姿で命乞いをするとは・・・立て!フィロタス!お前も戦士であるならば潔く死を受け入れろ!」
叱責されたフィロタスは地面を這うようにして私の足元へたどり着き、足の先に口付けをした。
「お願いだ、ヘファイスティオン・・・助けてくれ・・・お前はわかってくれるだろう。俺が命令したんじゃない・・・頼れるのはお前だけだ・・・お願いだ・・・命だけは助けてくれ・・・俺が父から受け継いだ千人隊も役職も名誉も全部お前にやる・・・頼む・・・たすけてくれ・・・」
「アレキサンダー・・・・フィロタスが命令したとはどうしても思えないんだ・・・・マケドニアに彼を帰して・・・」
「いくらお前の頼みでもそれはできない・・・フィロタスが有罪であることは裁判で決まった。俺にすらその決定を覆す力はない」
「あいつら俺を妬んでいるんだ・・・・俺が父から権限を受け継いだから・・・・みんなそうだ・・・みんなで話し合って俺を死刑にしようと・・・そうだ、そうに決まっている・・・そんなのおかしいじゃないか・・・俺はやってないんだ」
「フィロタス、静かにしろ・・・・明日の朝までお前に見張りをつけておく・・・そして朝はやく・・・」
「ヘファイスティオン・・・・ヘファイスティオンを見張りにしてくれ!最後に話したいことがある・・・ミエザの時からの親友だ」
「いいだろう、だが万が一お前が何かしたらヘファイスティオンまで罪に問われることになるぞ」
「わかっている・・・・」
私はフィロタスを抱きかかえるようにして、離れた場所に置かれた彼の天幕まで運んだ。酷く鞭打たれた彼の体は熱く、ところどころ血が滲んでいた。彼をベッドに横たえるだけでも、苦しそうな呻き声をあげた。
「体が熱くなっている・・・水で冷やしてそれから薬を何か・・・これだけの傷・・・さぞかし・・・・少し待っていてくれる?」
「ヘファイスティオン・・・もういいよ・・・どうせ明日には殺される・・・・何もしなくていいから側にいてくれ・・・」
「僕には君を救うことができない・・・」
「泣いているのか?・・・・ミエザのころからお前だけはちっとも変わっていない・・・俺が昔鞭打たれた時もお前は大声をあげて泣いていた」
「あのころも今も僕には何もできない」
「できることはある・・・お前を抱いてもいいか?」
「なぜ・・・僕を・・・・」
「ずっとお前が好きだった・・・・それにアレキサンダーがこんなことを言っていた。もし明日死ぬとわかったら最後の夜に抱くのはヘファイスティオンだって・・・・」
「アレキサンダーがそんなことを・・・・」
「ヘファイスティオンはすべてを受け入れてくれる・・・俺の情熱も狂気も何もかも・・・・ヘファイスティオンと共にいるとき、俺は死の恐怖を忘れ、死を受け入れることさえできる・・・お前がそういう存在なら今晩一晩だけでいい、俺に死の恐怖を忘れさせてくれ」
「僕にはそんな力はない」
「あるんだよ・・・・たった一度でいい・・・死の恐怖を忘れさせてくれ・・・俺は弱い人間だ・・・イッソスもガウガメラも前の晩は怖くて眠れなかった」
「僕もそうだよ・・・戦いの前、誰でも死を恐れる」
「それでも戦死なら名誉が与えられて救われる。俺もいっそうのことガウガメラかイッソスで死んでいればよかった。二つの戦いで、俺はどうしたら自分が殺されないか、怪我をしないかを考えて逃げ回ってばかりいた。こんなことになって裏切り者として処刑されるぐらいなら、戦いでもっと勇気を出して死んでいればよかった」
「フィロタス・・・・」
「俺の父親はパルメニオン将軍だろう・・・カッサンドラもそうだと思うけど小さな子供の頃から立派な戦士となるように・・・それだけを期待されて育てられた。だけど俺、たいして強くはならなくて、いつも父の期待を裏切ってばかりいた」
「そんなことないよ、君は走るのも格闘技も槍投げも僕よりはずっとうまかった」
「お前と比べるなよ・・・お前頭はいいけど、それ以外は最低だった」
フィロタスがやっと笑顔を見せた。私も少しほっとして笑い出した。確かに私の格闘技や槍投げなどの成績は惨憺たるものであった。
「俺いつもすごい落ち込んだけどさ、自分よりもっとひでえやつがいると思って救われたんだ。槍投げなんてお前、どうしたらあそこまでっていうくらい見事にはずしてさ、俺が教えてやったんだよ」
「そうだね、そんなこともあった」
「何をやっても下手なのにそれでも目を輝かして一生懸命やっていた。そんなお前を見ているとなんかうれしくなってさ・・・まあそのころからお前の目はいつもアレキサンダーばかり追いかけていたが・・・・」
「そうだね・・・」
「あのころと変わらないのはお前だけだ・・・みんな変わってしまった・・・カッサンドラもプトレマイオスもネアルコスもベルディッカスもそしてアレキサンダーも・・・変わらないお前を見ているとほっとする・・・もう一度あの頃に戻ってやり直したい」
「やり直すって・・・」
「もし、こんな形で死を迎えることがわかっていたら、もっと戦いの時に勇気を出していただろうな・・・父が数多くの戦いでたてた手柄を俺が台無しにしてしまう・・・こんなことになるならどうしてもっと・・・・ううー・・・・・」
「どうしたの・・・・くるしいの・・・・」
フィロタスの声は途中から呻き声に変わった。私が背中に軽く手を置くと、手の平に血がべっとりついた。
「ヘファイスティオン、お願いだ!俺を助けてくれ・・・・ちくしょう!・・・散々鞭で打たれた。罪人になったとたん、今まで俺に頭を下げていたようなやつが、ののしりながら鞭で打つんだ。大声で悲鳴を上げて、うその自白でもすればもう自分達が手柄でもたてたように興奮して・・・自白して、意識を失って、それでもまだ拷問は終わらなかった。明日の朝には石打の刑で殺される。どうしてこんなことに・・・俺は何もしていないんだ!」
「・・・・・」
「お前を抱かせろ!あのアレキサンダーすら死ぬ前にはお前にすがるんだろう・・・お前にどんな力がある・・・教えてくれ・・・だめだ・・・気が狂いそうだ・・・・石に打たれて殺される・・・みなのさらしものになって大きな石をぶつけられ・・・他の処刑方じゃないのか、俺は貴族の、将軍家の人間だ・・・そんなことはどうでもいい、助けてくれ!助けてくれ!」
「フィロタス・・・・君の苦しみが少しでも和らぐのなら・・・・僕を抱けばいい」
私は裸になり、彼の隣に横たわった。
「ヘファイスティオン、愛している、愛している・・・お前は俺のものだ・・・・アレキサンダーには渡さない!ずっと好きだった、愛している・・・俺と一緒に死んでくれ・・・・お前と一緒なら死も怖くない・・・・・」
フィロタスは激しい勢いで私に口付けをしてきた。私は黙って彼に身を任せた。拷問の痛みと死の恐怖で半狂乱に陥ったフィロタスの余りにも激しい欲望が私の体を刺し貫いた。決して逃れることのできない痛みと苦痛に私もまた身をよじり、絶叫し続けた。
−つづくー
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