(41)風の中の叫び
数週間の間、私は救援部隊の到着を待って忙しく働いた。要所要所に兵士を配置し、その安全と異常はないかの確認のため、1日中馬に乗って見回りをした。
「ここは特に異常はないな。あと数日で救援部隊がここに来る。そうしたら合流して本隊に追いついてくれ。何か足りない物はあるか?」
「いえ、食糧も装備も充分すぎるほど用意してあります。ヘファイスティオン様こそ、そのような軽装でこんな遠くまで・・・どちらまでいかれるのですか?」
「日が暮れるまでにはまだある。もう少し先まで行ってみるつもりだ」
「誰か他の者に行かせるわけには・・・」
「お前達一人一人が王から任された大事な兵だ。全員の無事を確かめるまでは安心できない」
「そうでございますか、ではお気をつけて・・・・」
見回りなど他の者に任せればいいのかもしれない。だが私は一つの場所に留まることができなかった。温暖な地域に留まり、1日を命令と報告を聞くだけで終わらせてしまっては、またあの声に悩まされることになる。日が出ている限り数人の伴を連れて馬を走らせ、夜は冷たい風の吹きすさぶ場所に好んで天幕を張った。
「ヘファイスティオン様、すみませんでした。風のため、なかなか天幕が張れずに、すっかり暗くなってしまいまして・・・中に入ってください。温かな飲み物も用意しました」
宦官の少年が走って私の元にやってきた。冷たい風の中で働いた頬は真っ赤に染まり、しなやかな指にはひび割れができて、血が滲んでいた。
「気にすることはない。山の景色を見ていた。山一つ越えれば、見える景色も風の強さも、足元にある草も全く違ってしまうのに、頭の上の星空だけは決して変わらない。まだ海を渡る前、故郷ペラで見た時と同じだ。お前はずっとバビロンで暮らしていたのか」
「バビロンに来る前のことは、覚えていません」
「血が滲んでいる。バビロンの後宮では、こんな大変な仕事はなかっただろう。すまないな、私に付き従ったばかりに・・・」
痛々しい状態の手をそっと握ると、彼は俯いて涙を流した。
「今が一番幸せです。長い間、選ばれることはないと知りながら待ち続ける日々、何もすることはなく、選ばれた者を妬んで嫉妬し、彼に不幸が訪れるよう呪いをかけ・・・・今はただお役に立てることがうれしくてたまりません」
「私はそんなに出世はできない。厳しい生活ばかりだぞ。すっかり体が冷え切っているようだな」
私は彼の凍える華奢な体を抱きしめた。風はもっと吹きすさび、凍えるほどの寒さが訪れればいい。激しい風音は、あの声を掻き消し、厳しい寒さは、小さな少年の体の温もりを充分に感じさせてくれる。私の魂の中には、アレキサンダーと同じ地の果てまでたどり着きたいという強い意志が宿っている。できるだけ遠くの場所に馬を飛ばし、へとへとに疲れ果ててこそ、意志を眠らせ、体を休めることができる。
「ヘファイスティオン様」
宦官の少年は、奴隷である自分の立場をわきまえ、多くの言葉は語らない。だが呼びかける名前に全ての思いを込めていた。バゴアスもまた今頃はすべての思いを込めて、アレキサンダーの名を呼んでいるのだろうか。
「イスカンダル王・・・我が王・・・わたしのすべて・・・・」
「おい、クラテラス、ヘファイスティオンが戻っている時は用心した方がいいぞ。せっかくクレイトスとお前の二人に分配されたフィロタスの千人隊、また取り上げられるかもしれない」
「それはないだろう、カッサンドラ。あのヘファイスティオンに何ができる。夜の相手をよっぽどうまく務めたから、あれだけアレキサンダーに気に入られたんだろう。でも最近は終わりだな・・・毎晩バゴアスがアレキサンダーの天幕に張り付いている」
「あれだけ俺達の反対を押し切って野蛮人の長の娘なんかと結婚したけど、結局さっぱり行ってないじゃないか。まだ世継ぎの一人もできてない」
「ヘファイスティオンが女だったら、世継ぎができすぎて困っただろうに・・・あいつはそれもできないから、アレキサンダーにいいとこ見せようとフィロタスを殺したんだろう」
「同じミエザの仲間をな・・・俺もそうとう冷酷な男だと言われているけど、あいつほどじゃない。俺はてっきり楽に死なせてやるかと思っていたらそうじゃない。かわいそうに、フィロタスはけっこうヘファイスティオンのこと気に入っていたから、助けてくれると思ったんじゃないか、それなのにわざと急所をはずして、何度も槍を投げた」
「あれは本当にぞっとしたさ。俺、それまではあいつのことバカにしてたけれど、自分が認められるためにはそこまでやるやつだったんだな。みんなそう思って、それでアレキサンダーも千人隊をあいつに任せたんじゃないか。それなのにあのざまだ・・・」
「結局ヘファイスティオンは縛られた仲間を残酷に嬲り殺すことはできても、敵に向かって勇敢に戦うことはできないんだな」
「アレキサンダーもさぞがっかりしただろう・・・最近はバゴアスにイーリアスを教え込んでいるという噂だぜ」
「バゴアスをパトロクロスにしたてようっていうのか、それは無理だろう。あれは宦官だぜ。大事なトコ切られているから、戦いどころか、剣を持つ力もない」
「ハハハ・・・ヘファイスティオンだって似たようなもんだ。お前やったことあるんだろう、カッサンドラ。どうだった、ちゃんとついていたか?」
「そっちまで、よく見てねえ。まあそこだけは抜群によかったことだけは覚えている。下手な女や宦官よりよっぽどいいことだけは確かさ」
「へー、そうか、俺もぜひ・・・」
「危険だぞ、それよりもせっかく手に入れた千人隊だ。うまく動かせよ。パトロクロスの地位も夢じゃない」
「俺がアレキサンダーの相手をやるのか?」
「それはバゴアス一人で充分だろう。アレキサンダーはフィリッポス王とは違う。一人の相手とだけ、深い関係を結びたがる」
「そんな深いところまで入れられるのはいやだな。俺はもうずっと女ばかりを相手にしていたから・・・」
「あの深い喜びを知らないで人生が終わるとは・・・・いつ死ぬかわからないんだぜ・・・・」
カッサンドラとクラテラスの二人は、私が近くにいるのも気づかずに、夢中になって話していた。私は静かにその場を離れた。かってはミエザで私達と一緒に学んだカッサンドラ。その頃は理想の王について、政治のあるべき姿について、何時間でも討論を続けていた。今はもうそうではなくなっている。理想は失われ、みないかに自分が手柄を立て、認められるかに夢中になっている。噂話や中傷で人を貶めることさえある。フィロタスもその犠牲になった。根も葉もない噂話が広がって、みんながそれを信じたとき、彼の処刑は決まってしまった。それ以来、皆の気持ちの中で何かが崩れた。それを立て直すことなど、私にはできない。私はアレキサンダーに愛されたという理由で、皆からもっとも嫌われているのだから・・・・
「ヘファイスティオン、ご苦労だった。救援部隊の者、護衛の者、一人も犠牲者を出さずに合流できたのはお前の働きによるところが大きい。やはりもう一度フィロタスの隊を・・・・」
「それはだめだ。今クラテロスやクレイトスに不満を感じさせてはいけない。私を出世させれば、それだけ不満も大きくなる」
「お前の働きに報いることはできないのか」
「地位や手柄はいらない。・・・・ただ君だけが・・・・」
「俺の心はいつもお前のものだろう、ヘファイスティオン。毎夜、バゴアスにイリアスを読んで聞かせてやった。彼はパトロクロスの死の場面で涙を流したよ。彼は俺達の言葉や神話を完全に理解することはできない。でもその心を感じることはできるのさ。カッサンドラ、プトレマイオス、クレイトス、クラテラス・・・・みんな変わってしまった・・・手柄を争い、誰が出世したかを一番に気にするようになった。だがお前とバゴアスだけは違う。パトロクロスの勇気を、アキレウスの怒りと悲しみを理解する心を持っている。アキレウスの悲しみがどれほど深いか・・・俺はお前と離れていて、そのことがよくわかった」
「アレキサンダー・・・・・」
「お前が欲しい。だがこうして話していても、クラテラスやカッサンドラ達がどう思うか?フィロタスの死後、彼らが勢力をつけてきた。侮ることはできない」
「わかっている、彼らは私のこと酷く嫌っている。自分の天幕に戻るよ」
「新しく付けた宦官はどうだった」
「気立てのよい少年だ。純粋で美しい」
「俺はお前と離れる時、最もよい宦官を与えようと考えていた。美しさだけではない、お前の心に安らぎを与え、俺の代わりに側にいて慰められるほどの気高い心を持った少年を・・・気に入ってもらえてよかった。俺はどんな時でもお前とは心の奥深く、魂で結ばれていると信じている」
「アレキサンダー、私の心は変わらない・・・・永遠に・・・・・」
天幕に戻ると宦官の少年が湯を用意して待っていた。
「湯浴みは一人でできる。今夜はもうさがってよい。すまない・・・離れた場所で寝てくれないか」
「かしこまりました」
彼は私の顔を一目見ただけで全てを察し、静かに去っていった。体を横にすると、吹きすさぶ嵐の音が聞こえる。天幕の外は星空だったというのに・・・やはり外に出てみると穏やかな夜だった。マンとを羽織、静かに馬の背にまたがった。乗りなれた馬は暗い中でも私の思い通りに進んでくれる。声が追いかけてくる。私をあざ笑う声が・・・嘲笑する声が・・・・
「イスカンダル王、よいのですか?やっとヘファイスティオン様がお戻りになられたというのに・・・・」
「彼を寵愛すれば他の者の不満が大きくなる。バゴアス、お前の方が気が楽だ。宦官のお前に嫉妬する者は誰もいない。どれほど大きな愛を与えようとも・・・・」
「イスカンダル王・・・・」
馬の背の上で、私の目には彼らが愛し合っているその姿まで、ありありと見えてしまう。アレキサンダーはバゴアスの切り取られた部分をやさしく愛撫し、丁寧に舐める。まるで自分がそこを切り取り、彼に苦痛を与えたのを悔いるように・・・私も宦官の少年に同じことをした。男であることを、人間であることを奪われた彼らの前にして、私達は同じやり方で、同じ心で愛を与える。
「お前、やってみたんだろう、どうだった。ちゃんとついていたか?」
「あることはあるけどさ・・・あいつは宦官と同じだ。剣もまともに握れないからな」
「縛られた友は残酷に殺すことはできても、敵の前に勇敢に戦うことはできない」
「結局あいつがいいのはあそこだけなんだろう。それだったらバゴアスに・・・・・」
「いい加減にしろ!お前らに何がわかる!」
自分でもびっくりするほどの大声で、馬の背から叫んでいた。周りは強い風の音、遠く離れたこの場所で、私の声を聞く者など、誰もいない。
「出世や、自分の名誉ばかり考えているお前らに何がわかるっていうんだ!アレキサンダーの悲しみが、深い孤独がお前らにわかるのか?わかるわけないだろう・・・フィロタスが何を思って死を受け入れたか・・・何もわかってはいない!」
私の声は人間のものではなくなっていた。驚いた馬に振り落とされ、呻き声をあげて地面の草を握り締めた。馬はいななきの声を残して、遠くへ走り去ってしまった。
「戦いの中で、誇りや勇気を置き去りにして、ただ中傷や噂話を広げ、面白おかしく人を貶め、自分がのし上がる。そんなお前達の醜い欲望のいけにえにフィロタスはなった。彼は何もかもわかっていて死を受け入れた。何がわかる!仲間達に裏切られ、拷問にかけられて自白を強要された者の絶望が・・・・誰がわかる?私の絶望の深さが・・・・私はただ理想を追い求める魂だけ与えられ力は与えられなかった。全く同じ魂を持ち、目の前に見えているのに、それを実現する力がない。うわー・・・アアアー」
地べたを這いずり回って叫び声を上げている私をもう一人の私がじっと見ている。私のこの慟哭の叫びは彼の耳にも届くだろうか?いや届いてはいけない。この叫びは風に吹き消され、地中の奥深くに埋められなければならない。私の苦しみは私だけのもの・・・戦いに疲れた彼にはただ栄光と安らぎだけを・・・・私の叫びはただ心の奥深くへ・・・夜の闇へ消えていけばよい。
−つづくー
後書き
理解されない苦しみ、自分の能力のなさへの苛立ち、そんなものがヘファイスティオンの心の底にはいつも渦巻いていただろうなと・・・
2006、10、11
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