(44)熱病(前編)
宦官の少年の体の熱さに驚き、私はすぐに医師を呼んだ。しばらく彼の様子を観察した医師は私の耳元で小声で囁いた。
「ヘファイスティオン様、彼は私が今までマケドニアでもアテネでも診たことのない熱病にかかっています。今すぐ彼をどこか遠くにやらなければ、この偵察隊の者全員が同じ病気になり、全滅します」
「何か方法はないのか?」
「残念ながら離す以外に方法はございません。誰か他の奴隷をつけて遠くへ行かせましょう」
「この雨の中、外へ連れ出せというのか!」
「やむを得ません」
「それならば、私が彼を皆から離れた場所へ連れて行く。どれくらい離れればいい」
「お待ちください、ヘファイスティオン様、宦官の奴隷のために貴方がそこまで・・・」
「少し薬をもらっていく。もし私が戻らぬ時には、皆ただちに本隊へ戻るようにと伝えてくれ」
「待ってください。ヘファイスティオン様、貴方にもしものことがあれば私は王に・・・」
「すべて私が決めたことだと書き残しておく。誰も咎めを受けぬよう」
「いけません。貴方のような方が命を落としたら・・・」
「私はここで死んだりはしない。彼も助けられる。だが他の者までが同じ病気にかかったら困るから場所を移すだけだ。私もミエザで王と共に医学を学んだ。何も心配することはない。よいな」
医師や他の部下達の制止を振りほどき、私は少年の体を抱えて洞窟の外に出た。激しい雨が降っている。彼をマントでくるみ、足早に密林の中を歩いた。どこへ行けばいいかということはまったく考えてはいない。ただ雨がよけられそうな場所を探し求めた。
しばらく歩いている間に雨は止んだ。日が差すと、今度はむっとするような暑さになった。彼の体を覆っていたマントをたたみ、岩陰に腰を下ろした。苦しそうな息遣いの中、少年は懸命に腕を伸ばそうとしていた。その腕の先には私の腰につけた短剣がある。私は慌てて短剣を手で押さえた。
「何をする!」
「お願いです。それで殺してください」
「そんなこと、できるわけがないだろう」
「貴方は私をここまで連れてきてくださいました。離れた場所に連れて行かれ、殺されると覚悟していました。でも貴方はここまで・・・もう充分です。貴方の手で殺されるなら、少しも怖くはありません」
「私はお前を殺すためにここまで連れてきたわけではない」
「でも、一緒にいたら貴方までが・・・・」
「お前は今未知の病にかかっている。この土地は草も木も生き物も、私達が見たことないものばかりだ。この土地だけではない、私やアレキサンダーにとって、お前達の国ペルシャもまた未知の大国だった」
「私はペルシャの国の中でも、王宮と、市場と自分の生まれた村しか知りません」
「人は誰でも未知のものを恐れ、忌み嫌い、そこから逃げ出そうとする。だがアレキサンダーは違った。彼は未知の世界を進み、その場所を知ろうとした。まるで故郷からなにものかに追われているように・・・」
「王様が故郷に戻られることはないのですか?」
「そんなことはない。いつかはマケドニアに帰る日がくるだろう。お前にも見せてやりたい」
「教えてください。マケドニアはどのような国なのですか?」
「いずれわかる時がくるだろう」
彼は力なく笑った。私は悟った。彼の命はもう長くはない。それはミエザで教えられた医学の知識からではなく勘のようなものだった。
「苦しいか、薬を飲めばいい。熱が下がれば少しは楽になる。体を楽にしなさい。飲ましてやろう」
「ヘファイスティオン様にこのようなことをしていただくなんて・・・・」
「お前のおかげで私は救われた」
「私のような宦官は他にいくらでもいます」
「お前ほど心に沿って仕えてくれる者は他にはいない。お前のおかげで私はどれほど救われたことか。だから頼む、元気になってくれ・・・」
私の声は震えていた。目には涙が浮かんでいるのを感じる。
「バゴアスのこと・・・貴方がどれだけ・・・苦しんだか・・・・貴方の声が聞こえて・・・貴方がどれだけ・・・」
「お前は賢い子だ。私のことをよくわかり、仕えてくれた・・・だから・・・」
「バゴアスに気をつけて・・・彼は貴方を亡き者に・・・・殺そうとしています。貴方が邪魔だから危険な任務をさせるよう王に囁いて・・・この国は危険だ・・・すぐに戻ってバゴアスを・・・危ない・・・」
「何を言っている。熱にうなされて興奮しているのか?」
「早くバゴアスを遠ざけて!危ない・・・殺される・・・・バゴアスが貴方を殺す・・・許せない・・・同じ宦官だけでなく・・・愛しているなら・・・お願いです。早く戻って・・・ここにいたら死んでしまう」
「少し休みなさい。私が見ていてあげる。お前は熱にうなされて・・・」
「バゴアスが貴方を殺す・・・許せない・・・どうして・・・」
「どうしてお前はバゴアスが私を殺すと思うのだ?」
「愛しているから・・・その愛を独り占めしたいと思うから・・・・男として、人間として生きることができないから・・・愛される以外に生きる術を知らないんです。来る日も来る日も王の寵愛を受けることだけを考え、自分を美しく見せて、他の者の寵愛がなくなることを望む・・・ずっとそうやって生きてきたんです。それが突然別の国からやってきた偉大な王に、今度は初めて人間として愛されたのです。うれしくて有頂天になって、やがてどうしたらいいかわからなくなる。もっと愛されたい、もっと自分だけを見て欲しい。自分がただの奴隷だとわかっていても、どうしようもないほどに愛して・・・・」
「わかった、わかったよ。お前の気持ちはよくわかった」
「私の気持ちではない、バゴアスの気持ちです。貴方は少しもわかっていない。彼の恐ろしさが・・・」
「そうかもしれない。私にはお前達のような目に合った者の本当の苦しみや屈辱はわからないかもしれない」
「すみません、興奮して」
「お前の言っていることは正しい。だからこそ病気に負けてはいけない。私のそばにいてくれ・・・・」
「はい・・・」
ひとしきり興奮してしゃべった後、彼は黙ってしまった。また苦しそうな息が聞こえる。私は胸の辺りをさすった。
「ヘファイスティオン様、バゴアスには気をつけてください」
「お前の言いたいことはよくわかった・・・少し黙って休みなさい」
「話していないと不安で・・・闇に包まれてどこかへ連れていかれそうで・・・・」
「そうならないよう見張っている。休みなさい」
「何か話してください・・・故郷のマケドニアのこととか・・・話したいのです。焼かれた村や奴隷市場や王宮の陰謀の話でなくて、貴方のこととイスカンダル・・・アレキサンダー大王の話を・・・・家族に会えたなら・・・・」
「マケドニアの話か。ペラの王宮はバビロンの王宮に比べれば小さなものだった。でも子供の頃の私にとって、そこはどこよりも広く輝かしい場所だった。父に連れられて初めて王宮に行った時、その頃はまだ王子だったアレキサンダーに出会った。6,7歳ぐらいの時だ。そんな子供なのに、会った瞬間はっきりわかった。自分は一生この人についていこうと・・・・そう思える人間に出会えたこと、それはとても幸せなことだ。お前にとって私がそれだけの人間に思えたならうれしいが・・・・すまなかった、私の従者に選ばれたばっかりに・・・ミエザで習った医学の知識などここではなんの役にも立たない。医学だけでない。私達は今まで習ったことなどなんの役にも立たない新しい世界に来てしまった。お前はもう体を傷つけられ、せりにかけられて売られた奴隷ではない。未知の世界を一緒に旅した従者だ。そのことを家族に誇ってくれ・・・・すまない・・・お前を救えなくて・・・」
私は自分の体が異常に熱く、そのくせ背中がぞくぞく震えているのを感じた。歯がガチガチと振るえ、言葉がうまくしゃべれない。手も足もうまく動かない。急に意識が遠くなっていくのを感じた。
「ヘファイスティオン様、どうしたのです。しっかりしてください」
「やっぱり行かせるのではなかった。早くお連れしなければ・・・」
誰かが私の体を揺り動かし、叫んでいるのが聞こえた。だが私の体はそれに答える力さえ残されてはいなかった。
−つづくー
後書き
本当に熱にうなされるような状態の時書いたので、辻褄があっていないかもしれません。第一こんなにしゃべれるのかどうか。それでも彼にバゴアスの気持ちも代弁して欲しかったので、かなりしゃべらせてしまいました。男として人間として生きることのできない彼ら宦官の愛は普通の人間とはまったく違った方向に向かってしまうかもしれないと考えてみました。
2006、12、15
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