(49)密林での迷い

私達の遠征隊はついにインドへと足を踏み入れた。先にその地を偵察した私は、全軍、兵士だけでなく女や子供、奴隷、技術者など多くの人間を抱えたこの隊でそこへ行っていいのか迷いもしたが、アレキサンダーの目に迷いの色はなかった。インドはヘラクレスも旅した土地、ならば行けないことはないだろう。彼が敢えて危険を冒してまで進もうとする気持ちは私にはよくわかる。それに今の私にはもう彼を引き止めることなどできない。フィロタスのことがあって以来、アレキサンダーは私によそよそしくなった。フィロタス、プトレマイオス、カッサンドラ・・・・ミエザでもペラの王宮に戻ってからも私達はいつも一緒に行動していた。その一人に裏切られたこと、果たして本当に裏切りがあったかどうかさえ疑わしいが、その出来事は彼の心をよほど傷つけたに違いない。側近は信用できない、そう思われてもしかたがない。口に出してそれを言わなくても、私がアレキサンダーと二人だけで話す機会は減り、代わりにバゴアスがいつも彼の側にいるようになった。奴隷の身分であるバゴアスならば決して裏切ることはない、そう思って溺れてしまうのだろうか。事実私とて奴隷の少年の一途さに心を打たれたことがある。私達の間には余りにも多くのことが起こり過ぎ、ただ黙って抱き合い、体を温めあうことなどもはやできなくなってしまっている。

「ああ、この雨はいつまで続くんだ」
「ヘビに気をつけろ。ここのヘビは噛まれたら命がないぞ」
「水はないのか」
「雨水をためろ!川の水は決して飲むなよ」
「待ってくれ、もうこれ以上は歩けない」
「こんなところで死ぬくらいなら、ガウガメラで戦死した方がどれだけよかったか」
「ああ、苦しい・・・・水をくれ・・・・」

隊はいくつにも分断されて、密林の中を亡霊のように歩いた。歩ける者は先に進み、熱病に倒れた者は残されたが、歩いている者とて空腹と疲れ、そして水代わりに飲んだ酒の酔いでいつ倒れるかわからないような状態だった。時には部族民にも襲われた。だが私達はもう遥か離れた場所を進む者のために援軍を送り助けを出す余裕すらなくなっていた。進める者だけが先へ進み、自分を襲ってきた敵を倒し、そしてまた先へ急いだ。見通しの悪い密林で襲われる恐怖に皆苛立ち、たまたま集団で移動していただけの原住民ですら皆殺しにされてしまった。誰かが飛び出せば、もう誰も止めることなどできない。狂気の進軍を続け、ようやく大きな街が見えてきた。

「ヘファイスティオン、ここに偵察の時に来たか?」
「いや、その時とは別の方向に進んでいる。この国では道はあってないようなものだ。それなのになぜ突然これほど大きな街が・・・・」
「ここの支配者が友好的ならよい。そうすれば皆ここで休めるだろう」
「私が交渉に行ってくる。アレキサンダー、君はここで兵をまとめていてくれ。向こうがどのような態度に出るかわからない」
「頼んだぞ」

危険な交渉役、かってフィロタスは率先してこのような役を引き受けていた。手柄が欲しいため、それともアレキサンダーの信頼を得たいのか、おそらくその両方だったのだろう。今度は私がそれを引き受けるようになった。初陣の頃やガウガメラの戦いで、アレキサンダーは必ず私に無理をしないようにと言った。だが、今はもう引き止めることも、いや、振り返ることすらせずに彼は歩いて行った。私は小数の従者を連れて街の中へと入った。

「アレキサンダー、朗報だ。この街にはもう私達遠征軍のことや君の噂が届いていた。ここの王は絶対的な忠誠を誓うと言ってきた。すぐに城門を開いて兵士達が休める場所を提供してくれるそうだ」
「そうか、それは何よりだ。ご苦労だった。交渉はお前に任せれば安心だ。他の者ではかってに王と密約を結び、陰謀を企むかもしれない・・・・」
「アレキサンダー・・・・・誰もそんなこと・・・・」
「ハハ、ヘファイスティオン、そう心配した顔をするな。そういう可能性もなくはないと言ってみただけだ。大変な行軍だった。ゆっくり休むがよい」

彼の手が私の頬に触れた。私はその手を上から押さえた。これ以上望んではいけない。私に触れれば彼はミエザを思い出し苦しんでしまう。だが彼は私の手をどかし、頬を摺り寄せてきた。

「ヘファイスティオン、すまない。誰よりもお前を愛している。でも俺は・・・・」
「わかっている、君の気持ちが僕にはよくわかる・・・・」
「バゴアスがまだ来ていない。お前は先に行っていろ。俺は少し戻って彼を捜す」
「どうして・・・・バゴアスが・・・・」
「朝、出発する時は一緒だったが、部族民に襲われて隊列が乱れた。すぐに追いつくだろうとそのままここまで急いで来てしまったが、まだ到着していない。ロクサネなど主な女達のいる隊は無事ここまで来たのだが、そこに一緒ではなかった。バゴアスはいつも一緒だったからどこの隊というように決めてはいないし、特に護衛もつけてなかった。一人で迷っていたら大変なことになる」
「でもアレキサンダー、まだ半分近くの人数がここに来ていない。どこの隊であれ、一緒に来れば皆ここへ向かって来ているはずだ」
「それはそうだ。だがあの密林では何が起こるかわからない。バゴアスは宦官だ。自分の身を守るものを何一つ身につけてはいない」
「ならば、誰か信頼できる者を迎えに行かせれば・・・・君が行かなくても・・・・」
「誰を信用できる?誰もがバゴアスを妬んでいた。一人でさ迷っているところを見つければ、密かに殺してしまうかもしれない」
「それならば私が行く。まさか私も信用できないとは・・・・」
「ヘファイスティオン・・・・だけどお前だって疲れて・・・・」
「君が何を望んでいるかよくわかるから・・・・」

私は彼に微笑んで見せた。何を言っているのだろう。バゴアスのことなどほっておけばいい。すぐに他の隊と一緒にここへ来るだろうし、迷って命を落としてもそれは彼の運命だったと思えばいい。元々バゴアスはダレイオス王の奴隷で、アレキサンダーに仕えるようになったのは、幸運に恵まれてそれまで殺されずすんでいたからだ。それにバゴアスが来て、自分はどれほど苦しめられたか。嫉妬の感情は抑えきれず、アレキサンダーに抱かれるたびに焼け付く痛みを味わったのはそう遠い昔ではない。そのバゴアスをなぜ自分が捜しに行く?それともいっそうこの手で彼を殺してしまおうか。そうすれば二度と苦しめられずに済む。アレキサンダーもまた寂しさに私を必要とするであろう。

「ヘファイスティオン、本当に行ってくれるのか?」
「ああ、必ず彼を見つけ出し、君のところに連れて帰る」
「頼んだぞ」





私は小数の従者を連れて来た道を戻り、再び密林へと入った。途中で多くの隊とすれ違った。私は自分が戻る目的を後から来る隊の無事を確認するためと伝えた。寵愛されている奴隷を捜しに行くと言えば、彼らの不満も募るであろう。疲れきって歩く者達に街は近いと励まし、さらに奥へと戻った。1日、2日と歩き続けるうちに後から来る隊に出会うこともめったになくなり、会う兵士の数も少なくなってきた。

「ヘファイスティオン様、もうこのあたりが最後の隊では・・・・そろそろ戻りましょう」
「バゴアスはどこにもいなかった」
「この密林の中で迷ったならば、見つけ出すのは不可能です。私達ですら迷ったら危険です」
「わかった、もう少しだけ、今日1日だけ捜させてくれ。それで見つからなかったら明日は戻ろう」

さらに歩いていくと5,6人かたまって歩いている兵士に出会った。みんな怪我をしているようである。

「おい、しっかりしろ、どうした?」
「あれはここらの部族民ではない。盗賊だ」
「盗賊に襲われたのか」
「ヘファイスティオン様、彼らと一緒に戻りましょう。盗賊が出たとなると危険です。私が先を行く隊の者に知らせてきます」
「そうしておくれ。被害はひどいのか」
「俺達、あんまり金銀財宝は持ってなかったけど、一緒にいたあの綺麗な子が財宝と一緒に盗まれた」
「綺麗な子って、バゴアスのことか」
「おい、黙っていろと言っただろう。彼は陛下の一番のお気に入りだぜ。目の前でさらわれたとなれば、どんな処罰を受けるかわからない」
「陛下には私からうまく話す。決してお前達を罰したりはしない。バゴアスを奪われたのはどこだ?」
「もう少し前のところです。助けようにもこの人数ではどうしようもなく・・・・お許しください、どうか・・・・」
「わかった、話してくれてよかった。お前達は彼らと一緒に行けばよい。2日歩けば街に出る。そこまでがんばれ。歩けないほどの重傷者はいないだろう。急げば前の隊に追いつく」
「はい、ヘファイスティオン様」
「私はバゴアスを捜してくる。先を急いでくれ」
「お待ちください。盗賊に襲われたなら捜し出すのは無理です。私達と一緒に戻りましょう」
「この先は危険が大きい。私一人で行く」

言い終わらないうちに私は走り出していた。確信があった。バゴアスはきっと盗賊達から逃げ出すだろう。怪我をしているかもしれない。少し歩くと争った跡が見えた。そこから別の方向に続く足跡をたどった。





しばらく歩いていると呻き声が聞こた。あたりを見渡すと洞穴があり、声はそこから出ている。呻き声でありながら澄んだ高い声、バゴアスに間違いない。中に入って行くと彼は驚いて後ずさりした。足に怪我をしているようだ。

「ヘファイスティオン様!」
「バゴアス、よかった、お前を見つけることができた」
「私を見つけるために・・・・」
「アレキサンダーが心配していた。歩けないのか?」
「いえ、怪我は大したことありません。彼らの隙を見て逃げて・・・・でもどこへ行ったらいいかわからずここで・・・・」
「夜を明かしたのか。心細かっただろう」
「ずっとこれを握り締めていました。イスカンダル・・・・アレキサンダー王が私の誕生日祝いだと言って、この指輪と馬を贈り物にくださったのです」

バゴアスの手のひらにある指輪にはアレキサンダーの顔が彫られていた。

「あのような立派な方に愛されて幸せだった。だから少しも恐くはありませんでした」
「そうか、お前が無事でよかった」
「なぜ、あなたが私を・・・・・」
「アレキサンダーは自分でお前を捜しに行くと言った。王である彼にもしものことがあれば、この遠征隊はどうなる?だから私が代わりに捜しにきた」
「私は王に愛されて幸せです。でも、なぜあなたのような方がいながら・・・・」
「お前はただ真っ直ぐな心で彼を愛することができる。私はそうはいかない。私達の間には余りにもたくさんの思い出がある。その一つ一つが今となっては彼を苦しめてしまう。いいか、バゴアス、王とは孤独な者だ。側近、友人、部下、兄弟、いつ誰に裏切られるかわからない。アレキサンダーの父フィリッポス王は、愛していた側近の一人に殺された。誰も信用できない。それがどれほど孤独か、お前もわかるだろう」
「でも、王はあなたには・・・・」
「信頼は得ている。だが、私の存在は彼にフィロタスのことを思い出させてしまう。私達は子供の頃から王宮で生活し、ミエザでもずっと一緒だった。それにフィロタスを殺したのも私だ。この手で槍を投げた」
「・・・・・」
「私はどれほど恨まれようと、何を言われようとかまわない。ただ、彼を苦しませたくない。お前がいなくなればアレキサンダーはどれほど悲しむか、それがわかっているからここまで来た。お前のために来たわけではない」
「ヘファイスティオン様・・・・・」

ひざを抱えてうつむいて座っていたバゴアスが顔を上げた。なぜ彼はこれほど美しい顔をしているのか。

「あの方が王でなければ、あなたと同じ人を愛したのでなければよかった・・・・」
「バゴアス・・・・」
「申し訳ございません。私は奴隷の身分です。誰かを愛してなどいけない立場です。それなのに私は・・・・」
「お前がいるからこそアレキサンダーは慰められている。そう思うことにするよ。さあ、もう行こう。暗くなる前に前の隊に追いついた方がいい」

私はバゴアスの手を引いて歩き出した。





「偽善者め、なぜお前はそいつの命を助けた?自分の手で殺すために捜しに行ったのではないのか」

どこからか声が響いた。人間の声ではない。

「私はアレキサンダーを愛している。彼を悲しませることはしたくない」
「それが偽善者だというのだ。お前は今にきっとその男の命を助けたこと、後悔するぞ。助ける振りだけをしてもう少し前の場所で戻っても彼はお前の愛を疑ったりはしないだろう」
「彼に疑われるからではない。私の心が助けることを選んだ」
「ハハハ・・・・おもしろい・・・・愛がどのような結果を生み出すか、お前は彼の父親の死を知っているのにまだそんなことを言うのか。おもしろい、人間の愛がどれほどのものか、ゆっくり見させてもらうよ」





「バゴアス、見てみろ。前の隊が野営している。これでもう安心だ」
「ヘファイスティオン様、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

この時、彼の心に何が宿ったかなど、私には知る由もなかった。


                                 −つづくー


後書き
 久しぶりの更新なので、前に書いた部分はもう忘れていてズレているかもしれません。DVDを見て、またあらたに書いてみたい話ができたので書き出してみました。フィロタスの死後、アレキサンダーとヘファイスティオンはもう今までとまったく同じではいられず、アレキサンダーはバゴアスに溺れ更なる困難な旅を求めてしまう。そしてクレイトスの刺殺事件が・・・・そのあたりを少しまとめて書きたいです。
2007、5、15

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