(52)最果ての地
インドはペルシャのように巨大な帝国があるわけではなく、それぞれの領主が複雑に入り組んだ土地を支配し、王と名乗っていた。ほとんどの領主は私達に対して抵抗を見せず友好的な態度をとってきたが、そうではない領主を相手に密林での戦いが始まった。
「アレキサンダー、ブーケファラスに乗るのか」
「ああ、これが最後の戦いになるかもしれない。死ぬ時は一緒だと昔約束した」
「アレキサンダー!」
「冗談だよ、ヘファイスティオン。ここしばらくは戦いもなかった。彼は走りたくてウズウズしているだろう」
「でも、彼はもう馬としては高齢で・・・・」
アレキサンダーが初めてブーケファラスに乗った時、彼は手のつけようがない暴れ馬でもう少しで殺されて肉にされるところであった。その馬にやさしく語りかけて不安をなだめたアレキサンダーは見事に乗りこなし、それからずっと遠征中でも大きな戦いでは必ずブーケファラスに乗っていた。けれど、高齢になった馬の衰えは私の目からもはっきりわかった。アレキサンダー自身もそのことはよく理解していて、最近ではほとんどの戦いで別の馬に乗っていた。
「年はとってもブーケファラスは俺と一緒に戦うことを望んでいる。お前だってそうだろう、ヘファイスティオン」
「アレキサンダー、僕は君と同じ年だ。君に年老いたとは言われたくない」
「はは、そうだったな。しっかり頼むぞ。お前は今回クレイトスの・・・・」
彼の声は途中で途切れた。クレイトスの隊、そして昔はフィロタスが率いていた隊などさまざまな隊を私が引き継ぎ、指揮をとることになった。そのことで私はいっそう皆に嫌われるようになった。中にはクレイトスの殺害も、私が前からアレキサンダーに彼の悪口を吹き込んでいたためだと噂する者もいた。クレイトスのことが話題に出れば、必ずフィロタスのことも話される。すべて出世を狙う私が仕組んだこと、そう話はまとまっているだろう。それでいい、アレキサンダーへの不満は私の悪口でおさまってくれればいい。このインドでの先の見えない生活に皆の不安や苛立ちは頂点に達している。
「ヘファイスティオン、敵は像を使っている。馬に乗った敵とはわけが違う。絶対に側に近づかず、遠くから上に乗った人間を狙え。乗り手がいなくなれば、像はどう動いたらいいかわからなくなる。さあ、行くぞ、ブーケファラス、最後の戦いだ。恐れることはない。僕達は今、お前に話した最果ての地にいるのだから。死を乗り越え、永遠の命を生きるために、行くぞ」
アレキサンダーを乗せたブーケファラスが飛び出した。私も自分の隊の者に命じ、すぐその後を追った。だが、密林での戦いはすぐに隊列が乱れいつもどおりにはいかなくなった。巨大な像が木をなぎ倒して進んでくる。敵がどこから来るのかわからなくなってきた。像の声と足音は馬の神経を尖らせ、勝手な方向に走らせてしまう。狂った馬が像に近づき、恐ろしい呻き声があちらこちらで聞こえた。こうなるともう統制の取れた行動などまったくできない。自分の馬を制御するのが精一杯だ。周りには像に踏まれて敵か味方かもわからなくなっている無残な死体が散らばり、避ける余裕すらない。興奮した馬に乗っていては槍や矢を放つこともできず、ただ逃げ惑うばかりであった。アレキサンダーはどこにいるのか。こうなったらもう戦いは無理で撤退し、逃げることを考えた方がいい。私は夢中でアレキサンダーの姿を捜した。
「アレキサンダー!この戦いは不利だ。撤退した方がいい」
「ヘファイスティオン、お前は下がっていろ!いくぞ、ブーケファラス、最後の戦いだ」
馬が一際大きくいななき、前足を高く上げた。私は自分の目を疑った。ブーケファラスは地上の重力を離れ、翼を持つ馬であるかのように駆けていた。彼は巨大な像の足元を自由自在に走り回り、アレキサンダーの投げる槍が大きな耳に当り、地響きをたてて巨体が倒れた。馬は何事もないようにそのすぐそばを駆け抜け、次の敵へと向かっていった。だが後方からも別の敵が近づいていた。
「アレキサンダー、危ない!」
大きな槍がブーケファラスの体を貫いた。同時にアレキサンダーの体にも矢が刺さった。馬はいなないたがすぐに振り返り、私に向かって歩いて来た。アレキサンダーは馬の背で倒れている。ブーケファラスは私の目の前で膝を曲げ、ゆっくり倒れた。
「アレキサンダー!アレキサンダー!」
私はすぐに駆け寄り、アレキサンダーの体を馬から下ろした。馬の苦しそうな息遣いが聞こえる。アレキサンダーの背中と足に矢が刺さっていた。
「誰か、来てくれ。アレキサンダーが、王が倒れた!助けてくれ!」
「ヘファイスティオン、俺は今・・・・」
「大丈夫、アレキサンダー。少し怪我をしているけど、手当てをすればすぐによくなる」
「ブーケファラスは・・・・」
倒れた馬の方を見た。もう息をする音が聞こえない。
「死んだのか・・・・ああ、ブーケファラス・・・・」
アレキサンダーの悲痛な声が聞こえた。
「ヘファイスティオン様、陛下の状態は・・・・」
「ひどい怪我をしている。静かにここから運び出してくれ。敵に出会わないよう早く」
「わかりました」
近くに来た数人の兵士と一緒に私はアレキサンダーの体に刺さった矢を抜き、大きな盾に体を横たえた。何度か呻き声を上げたが、やがて声が聞こえなくなった。
「陛下、しっかりしてください」
「ヘファイスティオン様・・・・」
「大丈夫、意識を失っているだけだ。できるだけ早く手当てが受けられる場所へ連れて行け」
「あなたは?」
「残りの者に呼びかけて撤退する。急いで行け」
アレキサンダーの体は盾に乗せられて運ばれた。私は倒れたブーケファラスの上に手を乗せた。
「すまない、私もすぐに行かなければ・・・・お前の体が汚されないことを神に祈る」
馬に乗り、敵味方区別がつかないほど入り乱れた戦いの続く密林を進んだ。プトレマイオス、カッサンドラ、ペルディッカスなどを次々に見つけて声をかけ、兵士達を集めた。皆、敵の返り血で汚れてひどい顔をしている。どれくらい死者が出たのか、どちらが勝ったのかわからないような状態で私達は戦場を離れた。
何日か過ぎてようやく落ち着ける場所までたどり着いた。アレキサンダーは何度も意識を失い、そうでない時はうなされていた。小屋を見つけて寝かせ、すぐに医者に手当てをさせたが、彼の容態はなかなかよくならなかった。私は誰も、バゴアスやロクサネさえ、アレキサンダーの寝ている側には近づけさせなかった。
「ヘファイスティオン、そこにいるのか」
「アレキサンダー、痛みはどうだ。薬を飲むか」
「いい、また意識を失うかもしれない・・・・突然目の前が真っ暗になり、何もわからなくなる。死とはそのようなものなのか」
「君は死んだりはしない」
「ブーケファラスは・・・・死んだのか?」
私はゆっくり頷いた。アレキサンダーの目から涙がこぼれた。
「彼は最後までりっぱだった。君を振り落とさないよう足を曲げ、ゆっくり座ってから倒れた」
「あいつは、ブーケファラスは他の人間を振り落としてばかりいたそうだ。でも、俺を落としたことは一度もなかった。あのままそこに・・・・」
「すまない、君を助け、怪我人をあそこからここまで連れてくるだけで精一杯だった。死んだものは馬も人間もあの場所に置いてきた」
「ギリシャでは、戦いの後は必ず遺体をそれぞれの味方に返し、きちんと埋葬してきた。それが決まりだった。それなのにここでは・・・・」
「ここはもうギリシャではない。ペルシャの、ダレイオス王の領土だった場所からも遠く離れている」
「ヘファイスティオン、ディオニュソスやヘラクレスも旅したこのインドが世界の果てなのか?」
「そうかもしれない。少なくとも僕達はミエザでそう習った。この先は大きな川が流れ、海に続いていると・・・・」
「世界の果てまでくれば何かがわかると思った。でも、俺はまだ何もわからない」
「アレキサンダー、君はひどい怪我をしている。ゆっくり休んだ方がいい」
アレキサンダーがかすかに呻き声を上げた。私は手を彼の傷跡に乗せた。
「今は誰も近くにいない。苦しかったら大声を上げていい。君はいつでも無理をして、痛みを堪えて生きてきた。王であり、神の子としてふさわしい態度を取り続けた。そんな君を僕は尊敬し、愛している。でも、君だって生身の人間なのだから、僕の前では痛みを堪えなくていい。泣き叫んでいい」
「ヘファイスティオン、俺はもうこの先に進めそうもない。世界の果てを見つけようとしてここまで来た。自分は神の子だ、ヘラクレスやアキレウスにも負けない偉業を成し遂げた、そう思うときもあった。でも、そうではなかった。世界の果ては見つからず、これ以上は走れない」
「ブーケファラスを失ったからか?」
「そうかもしれない」
「君は大切な馬を失った。でも忘れないで欲しい。君にはまだ僕がいる。誰よりも大切に思い、愛している」
「そうだな、ヘファイスティオン、俺にはまだお前がいる」
彼は寝たまま私の手を握り、目をじっと見た。何かを言いたそうであったが、ためらってもいる。私は彼の手を強く握り返した。
「ヘファイスティオン、お前にだけは本当のことを言える」
「僕になら、何を言ってもいい」
「引き返してもいいだろうか?」
信じられない言葉を聞き、私はとっさに返事を返すことができなかった。引き返す、多くの者がそれを考え、私もそれがいいと思ったことが何度もあったが、その一方で彼からこの言葉を聞くのは大きな驚きであった。何を言えばいいのか、今彼の心を占めているのはブーケファラスを失った絶望なのか、それとも・・・・
「ディオニュソスはヘラに狂気を送られ、長い旅をしてインドまでたどり着いた。この国でヘラの呪いは解けた。俺にかけられた呪いも・・・」
「君の呪い・・・・」
「母上は俺を王位につけるため、父上を殺した」
「その事件の犯人なら別にいて、君の母上が・・・・」
「そうかもしれない。でもそれを望んでいた。ヘラがディオニュソスを憎むよりももっと深く父上と結婚したエウリディケを憎み、父上も憎んだ。同じ血が俺にも流れている。傲慢で憤りやすく、時には仲間すら殺してしまうような呪われた血が・・・・」
「アレキサンダー、君の呪いはもう解けた。だから安心して戻ればいい」
「なぜ、そんなことが言える?」
「君は人間でありながらここまで来た。もう充分君の罪は清められ、呪いは解けている。君がどれだけ大きな国を作ったか、君自身よくわかってないんじゃないかな。君は果てしなく大きな国を作った。今度は君の王国を統治しなくてはいけない」
「お前も一緒だぞ、ヘファイスティオン」
「もちろんだよ」
「俺は戻って許されるのだろうか?多くの者の命を奪った。クレイトス、フィロタス、パルメニオン・・・・名前も知らない敵の兵士など、数えきれないぐらい」
「それ以上の偉業を君は成し遂げた。安心して帰ればいい」
私はアレキサンダーの隣に横たわった。手で彼の体を撫でると、震えているのがわかった。
「ヘファイスティオン、側にいてくれるか。こうしてお前に触れていると、安心して眠れそうだ」
「僕はいつだって側にいるよ」
「フィロタスは、クレイトスは、許してくれるだろうか?」
「許してくれるよ、きっと・・・・」
「お前の体は温かく心地よい。何もかも忘れられる」
静かな寝息が聞こえてきた。
「お前にブーケファラスという名前を与えよう。いいか、ブーケファラス、あいつらにお前の力を見せてやれ。一緒に世界の果てを見つけよう。・・・・立て、立つんだよ・・・・どうしてお前は立ち上がれない・・・・ブーケファラス!」
泣きながら眠る彼の涙を私は指先で拭い、そっと口に入れた。
「アレキサンダー、僕は君の何もかもを愛している。だから安心して眠ればいい」
−つづくー
後書き
アレキサンダーはヘファイスティオンがいたからこそあんなに遠くまで遠征を続け、また帰る決意もついたのだろうと思います。彼がいなかったらもっと前の場所で精神的にボロボロになり、インドまでは行けなかったでしょう。それがはたしていいことだったのかどうかはわかりませんが・・・今日5月31日はアレキサンダーを演じた懲の31歳の誕生日です。アレキサンダーの栄光と孤独を見事に演じた彼の誕生日を祝い、ますますの活躍を願っています(といって、ずっと忘れていて、他のサイト様を見て思いだしたのですけど)
2007、5、31
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