(53)魔の砂漠
「アレキサンダー、何を考えている。砂漠を通って一番近い道でバビロンに戻るなど、誰も考えたことはない」
「歴代のペルシャ王も、砂漠には足を踏み入れず、別のところに道を作った。この地方の部族民とて、ゲドロシアを通過した者など誰もいない。考え直せ」
ゲドロシアの砂漠を通ってバビロンまで戻ると言い出したアレキサンダーに、カッサンドラとプトレマイオスが反対意見を述べた。フィロタスが処刑され、クレイトスがアレキサンダーの手で刺されてからというもの、彼の意見に誰かが反対するという光景は滅多に見られなくなった。ミエザの時からの友人であるカッサンドラやプトレマイオスさえ、あたりの様子をうかがい、時には私に前もって聞いてから遠慮がちに意見を述べていた。だが、砂漠を通るという意見に二人は冷静さを失っていた。
「よく考えてくれ、今我々の隊にいるのは兵士ばかりではない。女や子供、奴隷、学者などあらゆる人間がそろっている。体力のない者が砂漠を越えられるわけない。安全を考え、元来た道を引き返そう」
「私がお前ならそうしていただろう、プトレマイオス。だが、私はアレキサンダーだ。神の子に不可能ということはない」
「お前は、いえ、陛下は神の子かもしれない。だけど兵士以上に数が増えた女や子供達、私の妻や子もその中にいます。そうした者が砂漠を越えるのは無理です。どうか考え直してください」
「私は神の子だ、通れぬ道などない」
誰がどう止めてもアレキサンダーの考えは変わらない。私は皆の前では一言も話さなかった。夜、アレキサンダーの天幕に呼ばれた。
「お前はどう思う、ヘファイスティオン。皆と同じに砂漠は通らない方がいいと考えているのか?」
「アレキサンダー・・・・」
「ブーケファラスは死んだ。俺はもうこれ以上先へは進めない。だが、負けて退却するのではない。新しい道を作り、国を豊かにするために進んでいくのだ。俺達は砂漠を行き、ネアルコスには川を下って海からの道を行かせる。やがてはバビロンからここへ通じる道がいくつもできる。この土地との交易が進めば、国はもっと豊かに栄える。そのために進むのだ」
「わかったアレキサンダー、砂漠を進もう」
私はそう答えた。だが、私も彼も後にそのことを激しく後悔することになる。なぜ、アレキサンダーを止められなかったのか。ブーケファラスを失った今、彼には新しい夢が必要だ。だが、その夢のために多くの者が命を落とした。そのことで私はいくら非難されてもしかたがないだろう。
砂漠に入り、3日ほどは携えていた水が飲めたので楽だった。砂漠は昼の間、想像を絶する暑さとなる。昼の間は天幕を張って休み、夜の間に移動することにした。4日目、5日目と日が経つにつれ、水も食糧も乏しくなってきた。私は隊列の後方部隊を任されていた。少ない水を横取りしようと、兵士達の間でしばしば争いもおきた。ある夜、手を後ろに縛られた男が私の目の前に連れてこられた。
「ヘファイスティオン様、こいつは水を奪おうとして、仲間を殺しました」
「それは本当か」
「俺は悪くない。あいつが先に俺の水を奪った」
「嘘をつけ、お前がいきなり剣を抜いて殺した」
縛られた男は日頃から皆に嫌われていた。どちらが先にやったのか真相はわからないが、この男を処罰しなければ暴動が起きるかもしれない。アレキサンダーはずっと先の方にいて指示を仰ぐことはできない。
「よくわかった。ならばこの男の手足を縛り、ここへ置き去りにしろ」
「待ってくれ、俺は悪くない。アレキサンダー王を呼んでくれ。王ならば正しい裁きが行える」
「王をここまで呼び戻すわけにはいかない。お前は人殺しという罪を犯した。潔くここで裁きを受けろ」
「ならばせめて水をくれ。喉がカラカラに渇いている。たのむ、水をくれ」
「だめだ、苦しみが長引くだけだ。もういい、縛っておけ」
「ちくしょう!お前らを呪ってやる。何が神の子だ。この砂漠で全滅すればいい。ハハ・・・水、水ならすぐそこにあるじゃないか」
男は手を縛られたまま、フラフラと歩き出した。笑い声が聞こえる。喉の乾きと恐怖で気が狂ってしまったのか。私はそっと後ろへ行き、背中から短剣を突き刺した。乾いた悲鳴が聞こえ、男の体が砂の上に倒れた。大量の血が流れているはずなのに、乾いた砂にしみこんだためか少しも血の匂いがしない。
「ヘファイスティオン様」
「半分狂っていた。苦しみを長引かせることはないだろう。急ごう」
私は兵士達をまた並ばせ、歩かせた。途中でまた何人かの死体を見たが、それが誰なのか、本当に死んでいるのか近寄って確かめる気力もなくなっていた。私達はただ砂の上を歩き続けた。白くなった人間の骨もいくつか見た。私達以前にここを通った人間がいたのだろうか。
ついに私達側近さえ、わずかに残った自分用の水を少しずつ飲むようになった。兵士や奴隷達に割り当てる水はなくなり、目の前で人が倒れてもそのまま進むようになった。昼間は天幕の中でじっとして、夜がくるのを待った。焼け付くように喉が痛く、話をする気力もなくなった。アレキサンダーが無事でいることを天幕まで行って確かめるのだが、お互い目で見るだけで言葉は交わさなかった。バゴアスがかいがいしく働き、水を彼に飲まそうとするのだが、断ってばかりいる。
「俺はまだいい。バゴアス、お前が飲め」
「奴隷である私が、王が飲んでいない水を飲むわけにはいきません」
「いいから飲め、お前は随分やつれてしまった。このままでは死んでしまう」
「でも、私が水を飲んだこと、他の人に知られたら・・・・」
「ヘファイスティオンは何も言わない。そうだろう」
アレキサンダーの目が私を見たので黙ってうなずいた。彼は私に水を飲めとは言わない。顔の様子を見てまだ大丈夫だと判断したのだろう。バゴアスがわずかにたまっているカップの水を飲んだ。
「もうすぐ砂漠を抜ける。俺達は困難を通り過ぎたのだ」
「もうすぐ砂漠を抜ける」
同じ言葉を何度聞いたであろう。だが、夜通し歩いても同じような砂の道が続き、がっかりして朝日が昇るのを見る。これほど朝日が恨めしく思ったことは今まで一度もなかった。わずかな水で喉を湿らせ、そして天幕の中で体を横たえているのである。体は疲れているのに、暑さと渇きと飢えでなかなか寝られない。天幕の中にいても砂漠の上にある太陽がジリジリと砂を焦がしているのがわかる。干からびた体はもう汗も出ず、熱くほてってくる。時々唸り声を上げると、かろうじて生き残って同じ天幕にいる従者の少年や奴隷がビックリして体を起こすが、私のところまでやってくる元気もないらしい。夜になると昼間のうちに死んだ者の遺体が集められて山積みになった。きちんと葬儀を行い、埋葬する余裕はなく、ただそのまま置いて出発してしまう。それでもそうして集められ、名前を確認された者はまだ幸せだろう。移動の途中で倒れて死んだ者の方がずっと多いに違いない。それに生きている者とて、もはや人間ではなく亡霊のように歩いていた。何かを考えることもできない。喉の乾きに絶えず苦しめられ、ただ遅れないように後をついていくだけになった。こうなるともう誰が指揮官で誰が普通の兵士なのか、他の者から見たならばまったくわからないだろう。砂粒が顔につき、目に入る。足はひび割れ、血が流れているかもしれない。熱い、焼け付くように熱い、体が熱いのか、それとも足元の砂が熱くなっているのか。星空が見える夜なのに、なぜこれほどまでに熱いのか・・・・
「ヘファイスティオン様、もう少しです。オアシスが見えてきました。人も住んでいるようです」
誰かの声が聞こえた。幻のような声、だが遠くに確かに木が見えた。兵士達は歓声をあげて走り出し、途中で何人も倒れた。
「ここで走るな!ゆっくり歩け!オアシスは本物だ。水も充分にある。走ってはいけない」
私は大声で叫んだ。だが、走り出した者を止めることはできなかった。周りに何人もの兵士が倒れている。
「しっかりしろ、あと少しの辛抱だ。すぐに水を運んでくる。待っていろ」
思った以上に大きなオアシスを見つけ、私達はほっと一息ついた。そこに住んでいる者に聞けば、近くに街もあると言う。どれだけ多く死んだかわからないが、それでも私達は神に守られているのだろう。数万の人間が飲んでもオアシスの水はほとんど減っていない。ずっと昔から地下水が湧き出ている場所だという。地図にも書いてないオアシスに向かって確実に進んでこれたこと、これもまた奇跡であろう。アレキサンダーは神に感謝をこめて生贄を捧げるに違いない。だが、そのアレキサンダーの様子がおかしい。さっきからそわそわと落ち着かなく、近くにいるものに怒鳴り散らしている。
「アレキサンダー、どうしたんだ?」
「バゴアスが来ていない。途中まで確かに一緒にいた。オアシスを見つけたという知らせを受け、皆が走り出した時に見失ったが、すぐに見つかると思っていた」
「途中まで一緒にいたなら、すぐに見つかるよ。この近くなら途中で倒れていたとしても助けられる」
「それなのに誰も見ていないと言っている。どこではぐれてしまったのか、バゴアス・・・・ヘファイスティオン、少しここを頼む、俺はバゴアスを捜しに行く」
「それはだめだ。ここには命がけで砂漠を越え、疲れきった兵士達が続々とやってくる。兵士だけではない、女や子供、奴隷までみんなここに来て水を飲み、君の顔を見てやっと安心するんだよ。君は彼らにねぎらいの言葉をかけなければいけない」
「だが、バゴアスは・・・・マケドニアの連中は彼のことをよく思っていない。見つけても置き去りにするか、殺すかもしれない。俺はバゴアスに約束した。どんなことがあっても決して見捨てないで守ってやると・・・・捜しに行かなければ・・・・」
「それなら僕が捜しに行く。君がバゴアスを守ろうとしているなら、僕も同じだ。それでいいだろう」
「ヘファイスティオン、お前は本当に俺のことを・・・・」
アレキサンダーに抱きしめられ、軽く口付けをされた。もともと小柄な彼の体はもっと細くなっている。
「バゴアスは軽々と体を持ち上げられるほど軽い。あいつは今まで奪われ続けてきた。大人になることも自分の身を守ることもできない体にされた。過酷な砂漠の旅はバゴアスにはもっと大変だったに違いない」
「アレキサンダー、バゴアスは僕がすぐに見つけてくる。だから心配しないで・・・・」
「俺が神になろうとして無理に砂漠を越えたからこんなことに、もし、バゴアスが死んだら、俺は・・・・」
「僕には君の気持ちがよくわかる。だからそんなに嘆かないで・・・・砂漠を越え、ここまで来た者が皆、君を一目見ようと待っている。ほら、聞こえるだろう。君を慕う多くの者の喜びの声が・・・君はもうマケドニアだけの王でない。この広い世界の王であり神の子でもあるのだから・・・・」
「ヘファイスティオン、すぐにもどってきてくれ。お前がいないと俺は不安だ」
「すぐに戻ってくるよ」
私は水と食糧を少しだけ持ち、数人の従者を連れてバゴアスを捜すために砂漠に戻った。
−つづくー
後書き
ゲドロシアの砂漠越え、ここではアレキサンダーがやっと見つけられたわずかな水を差し出されたが、皆が乾いているなら自分も飲むわけにはいかないと水を捨ててしまったという有名なエピソードがありますが、実際に砂漠で飢えと乾きに苦しんでいたらそんなことはしないで、すぐに自分で飲まなくても少しでも身近な者が飲めるようとっておくだろう、などと考えて入れないことにしました。戦闘より遥かに多く死者を出した砂漠越え、そこまでしてどうしてアレキサンダーがその道を選んだのか、その気持ちはよくわからないです。ただヘファイスティオンの場合は、みんなが否定してアレキサンダーさえ不安を感じる時ほど逆に「君は神の子だ」と彼を励まし(煽っている?)続けたのではないかと思います。
2007、6、8
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