(56)最後の願い
「アレキサンダー、どこにいる・・・・・答えてくれ・・・・・」
私は馬にしがみつくようにして乗り、喉の奥から声を絞り出した。声ではなくドロドロとした血が口から出ているようにも感じる。馬の背がわずかに揺れるだけで下半身にあの時と同じように熱い塊を差し込まれたような衝撃を受ける。高熱で焼かれた皮膚の内部は焼けただれ、動くたびに血や汚物がドロドロと流れ出ているようだ。私の体は今どうなっているのか。鞭で打たれた場所は膨れ上がり、松明の炎で焼かれた場所は醜い傷跡ができているに違いない。自分の姿が見えないのが幸いかもしれない。体中が痛い・・・・
「アレキサンダー・・・・お願いだ・・・・側に来てくれ・・・・君の腕に抱かれて死ぬ・・・・他にもう望むことなど何もない・・・・アレキサンダー・・・・」
意識を失っては目覚めることを繰り返した。意識はあっても私の精神はもう正常を保ってはいない。わけのわからない言葉をつぶやき、痛みで呻き声を上げ、そしてまた意識は遠のいていく。それでも私の手は馬の背を掴んで離さなかった。夜の砂漠をどれくらい進んだのだろうか。もう考えることもできない・・・・・
「ヘファイスティオン様、ヘファイスティオン様・・・・」
声が聞こえて目を開いた。目の前にいるのはバゴアスだ。馬の背中ではなく固い石の台にマントを敷いて寝かされている。私は助けられたのか。だが星空が見えるから天幕の中ではない。
「バゴアス、か」
大きな声は出せない。絞り出すような声が自分の耳に届いた。
「アレキサンダーは・・・・どこに・・・・」
「イスカンダル王は・・・・ここには・・・・いません」
「お願いだ、呼んできてくれ。お前が何をしたかは言わない。ただアレキサンダーに会いたい」
バゴアスは戸惑うような顔をした。私の言葉は声となって耳に届いてはこない。かすれた音と呻き声が聞こえるだけだ。バゴアスはしばらく考えてようやく口を開いた。
「ここに、イスカンダル王はいません」
「ここはどこだ。お前の他に誰もいないのか!」
「わかりません。昔、街があったようですが、今は誰もそばにいません」
「なぜお前一人がここにいる。アレキサンダーは・・・・他の者はどこにいる!」
バゴアスは私の声ではなく、口の動きを見て何を言っているのか理解したようだ。彼は黙ってうなだれていた。幼い子供が何か失敗をし、叱られるのを恐れているようだ。
「バゴアス・・・・」
私は横に座っている彼の細い手を掴んだ。手のひらをなぞり、彼の指にはめてある指輪に手を触れた。アレキサンダーの顔が彫られてある指輪だ。バゴアスは指輪をはずし、私の手に握らせた。
「アレキサンダーは、このことを知っているのか」
「申し訳ありません・・・・すべて私が考えたことです」
「私を罠にはめ、敵に捕えられるようにしたのはお前か・・・・」
「申し訳ありません・・・・」
バゴアスは泣き出した。嗚咽を漏らし、搾り出すような声で泣いた。
「あなたが憎かった。どれほど思っても、イスカンダル王の心はあなたに向けられ、私に向けられることはなかった」
「アレキサンダーはお前を愛していた。ダレイオス王の奴隷であったお前を引き取って世話し、どれほど慈しんで愛したか、お前はその恩を忘れたのか」
「申し訳ありません。私は奴隷の身、王に慈しまれ、大切にされるだけで充分幸せと思わなければいけなかったのです。でも私はそれ以上のことを願ってしまいました。イスカンダル王が私だけを愛し、心の底から私だけを求めてくださったらどんなに幸せか、それを望んでしまいました」
「そして私を罠にかけた。お前は自分の手を使わずに私を殺す方法を考えた。敵の手に渡った人間がどういう目にあうか、知らないわけではないだろう。そして私はお前の望みどうり拷問にかけられ殺されかけた」
「・・・・・」
「殺すなら、毒でも入れればよかったものを・・・・敵の手に渡った人間がどれほど酷い殺され方をするか、それほど私を憎んでいたのか」
「・・・・・・」
バゴアスは泣きじゃくって何も答えなかった。私は手の平に握った指輪を見た。
「もうよい、死ぬ前に一目アレキサンダーに会いたいと、敵の情けにすがってここまで逃げてきたが、それもかなわないのか。お前以外ここには誰もいないのだろう」
「捜してきます。きっとどこか近くに・・・・」
「お前はまだ本隊に戻ってはいない。私を裏切りながらも気になってずっと近くをつけてきたのか」
「必ず王を連れてきます。どうかこの手を離してください」
私は片方の手でバゴアスの細い腕を掴んでいたことに気がついた。女よりももっと細く華奢な手足、美しい横顔、男として生きられなくなった悲しみ・・・・
「待て、もう遅い。私はもう長くは生きられない。日が昇る前に死ぬであろう」
「ヘファイスティオン様・・・・」
「最後まで側にいてくれ。一人で死ぬのは恐ろしい・・・・」
「でも、私は、あなたを・・・・」
「わかっている、それでも今はお前が必要だ」
手を開き、指輪を月明かりにかざした。
「見事な彫刻だ。こうして見ていると彼の顔をありありと思い浮かべることができる。子供の頃からずっと彼だけを見て生きてきた。それなのに拷問の痛みで彼の顔さえ思い出せなくなるほどだった」
「・・・・・」
「バゴアス、アレキサンダーはお前を愛していた。奴隷のお前に私でさえ嫉妬するほど、彼はお前を愛していた。そのことにもっと早く気付いてくれればよかったのだが・・・・」
「・・・・・」
「お前に話したいことがある。少し起こしてくれないか」
バゴアスは頷き、私の背中を支えて上半身を起こした。傷跡に手が触れた時、顔を歪めたのを彼は見逃さなかった。
「ヘファイスティオン様、申し訳ございません」
「いや、これでいい。こうして体を起こしていた方が話やすい。この体はもう触れられる場所がないほど傷つけられている」
「申し訳ございません・・・・」
「バゴアス、お前のしたことは誰にも言うな。もちろん王にもだ」
「え・・・・」
「もし言えば、アレキサンダーは怒ってお前を殺し、深い絶望と悲しみに襲われる」
「・・・・・」
「私の命はもう長くはない。アレキサンダーを絶望と悲しみの渕から救えない」
「ヘファイスティオン様・・・・」
「どれほど深く愛し、願っても、死にいく者は何もできない。私の体が少しずつ冷たくなっていくのがわかるだろう」
「ヘファイスティオン様、しっかりしてください」
「私はもう何もできない。だから代わりにお前が王の側にいなければいけない。アレキサンダーの父王は昔愛した男に殺された。愛する者に裏切られ、殺される辛さがどれほどのものか、お前にもわかるだろう。多くのことは望まない。生涯彼に誠実に仕え、その命の終わる日まで安らぎを与え続けることができるなら・・・・・」
「できるなら・・・・」
「その日、私はお前のしたことを許すであろう」
一息に言い切った後、口から血が流れ、体が前のめりになって崩れ落ちた。
「ヘファイスティオン様、しっかりしてください」
バゴアスの叫び声が聞こえた。だが、私はもう自分の体を支える力はない。目の前が真っ暗になり、息をするのが苦しくなってきた。あれほど熱く感じた体が今は氷のように冷たく固くなっている。私の体は深く暗い谷底へとまっさかさまに落ちている。
−つづくー
後書き
ヘファイスティオンの最後の言葉にすべての思いを込めました。一番書きたい部分はたぶんここなので、これだけは7月になる前に書いておこうと思いました。でもこれで終わりではなく、話はまだ続きます。
2007 6 29
目次に戻る