(57)神の選択

私は暗い場所を1人歩いていた。あれほど激しかった体の痛みがなくなっている。砂の上を這いずり回るのではなく、自分の足で真っ直ぐ立っている。だが、足に触れるはずの地面の感覚がない。星空のような小さな明りが見えるだけで、他には何もない。ミエザで一晩中起きて星の動きを観察したことがあった。空はそこが動いているようには感じられない。それなのに天空の星は形を崩すことなく少しずつ移動する。太陽も月も同じこと、この世界にあるものはすべて移動し、移り変わると教えられた。遠くから川の流れる音が聞こえる。そこが死者が渡らなければならないステュロス河なのだろうか?ミエザの森を流れる小川の冷たい水にアレキサンダーと2人体を浸し笑い会った日々、あの河を越えてしまえばもう戻ることはできない。

「待ってください!」

遠くで別の声が響いた。決して大人になることのない甲高い少年の声、バゴアスだ。彼は私の目の前に立った。光があたりに満ち溢れバゴアスの顔がはっきり見えた。漆黒の長い髪、切れ長の黒い瞳と艶やかな褐色の肌、赤い唇の端からは一筋の鮮血が流れ、より官能的に見えた。こんな場所にいる時ですらこれほど美しく魅惑的なバゴアス、アレキサンダーの寵愛を受けてなければ私とて魅せられていただろう。

「バゴアス、なぜお前がここに?」
「ヘファイスティオン様、あなたの後を追いかけてきました」
「だが、ここは死者の国へ通じる道、生ある者は神以外通れぬはずだ」
「私も毒を飲み、死者となりました」
「なんということを・・・・お前に私の言葉は伝わらなかったのか。話したはずだ、お前のしたことは許す、その代わり生涯アレキサンダーに忠実に仕えろと・・・・それなのになぜ・・・・」
「あなたの言葉、確かに聞きました。でも私の目に、イスカンダル・・・・アレキサンダー王があなたを失って嘆き悲しむ姿がはっきり見えてしまいました。私ではどれほど深く愛してもあなたの代わりにはなれない・・・急に自分のしたことが恐ろしくなり無我夢中であなたを追いかけてしまいました」

バゴアスの体は不安げだった。幼い子供が親に怒られ、必死に許しを請うているようだ。私は彼の体を抱きしめた。

「お前の体はまだ温かい。私の体がどれほど冷たいかわかるだろう。命を失った者を呼び戻すことなど決してできない。今ならまだ間に合う。アレキサンダーのところへ戻って、温もりを分けてやってくれ。彼の苦しみ、悲しみを私はもうどうすることもできない」
「いいえ、戻るのはヘファイスティオン様、あなたの方です。私はありとあらゆる神に祈りました。私の故郷の村に伝わる神、ペルシャの神、そしてイスカンダル王に教えてもらったギリシャの神、私のまだ名前の知らない多くの神にも祈りました。どうか自分の命と引き換えにこの人の命を助けて欲しい・・・私はどうやって祈ったら神が願いを聞き届けてくれるのか知りません。ただ祈り、そしてあなたのすぐそばで毒を飲みました。どちらか1人です。あなたか私・・・・早く戻ってください」
「私はもう死んだ者、戻ることなどできない」
「聞こえませんか?私の耳には聞こえます。イスカンダル王はあなたの名前を呼んでいます。二人倒れているのを見て呼ぶのはあなたの名前ばかり・・・・ヘファイスティオン・・・・ヘファイスティオン様、あなたの名前ばかりです。私の名は一度も呼んでいない・・・」
「バゴアス!アレキサンダーは私の死に動揺しているだけだ。やがては私の死を受け入れお前の名を呼ぶようになる。私を殺したいと思いつめるほど愛しているならすべてを受け入れ、生涯仕えることだ」

バゴアスは顔を上げ、かすかに頷いた。微笑を浮かべたかもしれない。だが、抱きしめていた体は急に消えていた。

「バゴアス、どこへ行った?待て、待つんだ・・・・」
「ヘファイスティオン、バゴアスは死んだ。お前まで危険な目に合わせてすまなかった。さあ、帰ろう」

目の前にアレキサンダーが立っていた。

「どうして君がここに・・・・」

意識は急に薄らいでいった。私はまた暗闇の中を漂い続けた。





まぶしい光で目を開くとアレキサンダーの顔が見えた。私の体は柔らかなベッドに寝かされている。自分が倒れた廃墟ではなく、きちんとした部屋に連れてこられている。

「ここは・・・・」
「ヘファイスティオン、気がついてよかった」
「私は・・・・僕はどうしてここに・・・・」
「すまない、バゴアスを捜すためにお前に大変な思いをさせてしまった。俺が奴隷のことになどかまい、自分が捜しに行くと言ったばかりに・・・・こんなことでお前を失うなんて耐えられない。バゴアス、たかが奴隷1人のために・・・・」
「バゴアスはどこに・・・」
「彼は死んだ」
「なぜ?」
「バゴアスの話は後だ。すぐに医者を呼んでくる。ひどい傷跡だ。どこの敵に捕えられた?そいつらを全員生け捕りにし、お前が味わった以上の拷問にかけてやる。すぐには殺さない。何日もかかって死の苦痛でのた打ち回りながら死ぬことになる」
「アレキサンダー・・・なんのことだ?・・・僕はなぜ自分がここにいるかも・・・」
「ヘファイスティオン、お前は敵に捕えられ、拷問を受けて記憶を失っているのだろう。お前はもう思い出さなくていい。だが、この傷跡を見ればお前がどんな目に合ったかよくわかる。決して忘れない」

少しずつ記憶が蘇ってきた。そう、私は敵に捕えられ酷い拷問を受けた。ただ1人助けてくれる者がいたが、その男も死に、私は廃墟の中でバゴアスに会った。死にかけていたのは私のはずなのに、なぜバゴアスが・・・・体中が痛い・・・鞭で打たれた傷が疼き、やけどの痕がヒリヒリとする。そして最も酷い傷のある部分は目には見えないが焼け爛れていやな臭いの液体が流れ、少し動くだけでも意識を失いそうになる。

「うう・・・・ああ・・・・うわああー・・・・」
「苦しいのか。この薬を飲め」

アレキサンダーは目の前に強い匂いのする薬草の搾り汁を入れた器を出した。それを飲むと少し痛みが和らいだ気がする。

「大丈夫だ・・・・ありがとう・・・・バゴアスは・・・・」
「バゴアスのことが気になるのか。俺はもうあんなやつのことはどうでもいいが、そんなに気になるならこれを見ろ」

アレキサンダーは私に手紙を渡した。

「読んでいて辛くなったら途中で止めていい。俺はまさかあいつがそんなことを考え・・・・少しも気付かずにいた・・・・気がついていたら、俺の手でその場で殺していた・・・・」
「アレキサンダー・・・・」
「いや、バゴアスのことはもうどうでもよい。お前が生きて俺のところにもどってきた、それだけでうれしい」





私は手紙を広げた。

「愛するイスカンダル王様
私もうあなたの名前を呼ぶことはできないでしょう。私は大きな間違いを犯しました。奴隷の身でありながらあなたが私を愛していると信じ込み、ついにはあなたの愛を独占するためにヘファイスティオン様を殺すことさえ考えました。奴隷である私が殺したとわかってしまえば、すぐに自分も殺されてしまうことはわかりきったことです。だから私は機会を狙い、別の人間に殺してもらおうと考えました。砂漠での行軍中、私は敵の部族と密かに通じ、彼らとヘファイスティオン様を捕える計画を考えました。私の計画は誰にも知られずにうまくいくはずでした。でも私は廃墟の中で偶然ヘファイスティオン様を見つけてしまいました。酷く傷つき、息をするのも苦しい状態で私の手を握り許すとおっしゃられました。拷問され苦しみぬいて死んで行く中、許すから生涯忠誠を尽くせと言われました。私は声を上げて泣きました。父が目の前で殺された時、体を傷つけられた時、私は大声で泣きました。でもその時ほど泣いたことはありません。自分の愚かさに気付き、知っているありとあらゆる神の名を呼んで祈りました。どうか私の命と引き換えにこの方の命を助けてくださいと。そしていつも持っていた毒を飲みました。私のしたことが許されるとは思っていません。でも、もしヘファイスティオン様の命が助けられたならば、どうか私が・・・・」

手紙の言葉は途中で途切れていた。彼はこの後何を書こうとしたのか。

「バゴアスはどこに?」
「死体の安置所に置いてある。あんなやつでも王の奴隷として仕えていた以上、きちんと弔わなければならない」
「会わせてくれ。彼に聞かなければいけないことがある」
「お前はもう何も考えるな!」
「お願いだ、アレキサンダー・・・・バゴアスが僕を迎えにきた。黙っていれば誰にも知られずに済んだのに、手紙ですべてを告白し自分の命と引き換えに僕を君の元に連れ戻した。会って話したいことがある」
「ヘファイスティオン・・・・お前は普段口数が少ないのにいさという時は俺以上に頑固だ。いいだろう、バゴアスのいるところまで案内しよう」





その場所にバゴアス以外の者の遺体はなく、建物の外に見張りの兵士がいるだけで中は誰もいなくてひっそりしていた。私はゆっくり横たわっているバゴアスに近づいた。口の端に少し血がこびりついている他は眠っているのと変わらない美しい顔をしている。体に触れるとまだ温もりが残っていた。

「アレキサンダー、彼を抱いてあげてくれ」
「なぜお前がそれを頼む?お前はバゴアスのせいで酷い目にあった」
「うそでもいい、抱きしめて愛していると言ってくれ。まだ体が温かい。きっとわかるはずだ」
「ヘファイスティオン」
「バゴアス、お前の愛した王はここにいる。何でも望みを言ってみろ。彼は世界を治め支配する王であり、神の子でもある。お前の本当の望みは私を殺し、王の愛を独占することではない。家族と平和に暮らし、愛する者を見つけて子孫を残すことだった。彼は神の子だ。お前の望みをかなえてやろう」
「ヘファイスティオン、俺はバゴアスに対して何を・・・・」
「抱きしめて、愛していると言ってあげればいい」

アレキサンダーは跪き、バゴアスの細い体を抱きしめた。

「バゴアス、よく聞け。俺の愛する人間はここにいるヘファイスティオン、ただ1人だ。他の誰も彼の代わりになどなれない。もしお前が俺を愛したというのなら、奴隷らしく誠意を持って忠実に仕えろ。愛する心など必要ない。奴隷として仕える気があるのなら、もう一度ここへもどってくるがいい。さもなければ立ち去れ。お前はダレイオス王の寵愛を受けた宦官、その立場に相応しい弔いをしてやろう」
「・・・・・」
「奴隷に心などいらぬ・・・・世界を支配する王である俺はとうの昔に心など捨てた。その立場でのみ愛せれば、互いに幸せになれたのに・・・・心など必要ない・・・ただ体を重ねあい、ひとときの快楽に溺れていればよかった・・・そうだろう、バゴアス!」

アレキサンダーの喉から嗚咽が漏れた。私は目を閉じた。暗闇の中、星の光が見える。




                                              −つづくー






後書き
 この話は迷った結果、こういう形で先に続けることにしました。史実や「少年バゴアス」の本とは違っています。

2007、12、4



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