(59)白い花の記憶
夏、私達はペルシャの王族が夏の避暑地としていたスサの都へ入った。バビロンほど大きくはないが落ち着いた街並み、人々はダレイオス王が治めていた時と変わらぬ生活を営んでいるようである。王宮もバビロンのものほどの広さはないが、それでも贅沢な作りであった。アレキサンダーはこの都を気に入ってしばらく滞在することにした。インドの密林での戦い、ゲドロシア砂漠の行軍、誰もが疲れきっていた。だがペルシャ王宮での生活は彼に新しい夢を与えた。
「ヘファイスティオン、俺はただの征服者にはなりたくない。このペルシャの素晴らしい文化を取り入れ、新しい世界を築きたい」
「君の気持ちはよくわかるけど兵達は心配している。君がこの都を気に入りすぎてもう一生故郷には帰れないかもしれないと・・・」
「故郷?俺達の故郷はもうマケドニアだけではない。全世界が俺達の故郷、そしてこのスサやバビロンが重要な都となる。新しい世界がここから始まる。そうだ!俺達はこの場所でペルシャ王家を受け継ぎ正式な後継者となろう」
「悪い、君の言っていることの意味がよく理解できない」
「つまり俺達がダレイオスの娘と結婚するということだ。俺はスタテイラ、お前はその妹のドリュペディスと結婚すればいい。俺達だけでなくプトレマイオス、エウメネス、セレウコス・・・皆ここスサでそれぞれ豪族の娘と結婚させよう」
「カッサンドラはどうする?君とロクサネとの結婚にあれだけ反対していた。いくらペルシャ王家に繋がりがあるといってもアジア人の女との結婚を承知するわけがない」
「あいつはマケドニアに送り帰す。大臣アンティパトロスも高齢になり、母上といろいろもめごとを起こしているようだ。間に入る人間が必要かもしれない」
「君はそれで・・・」
言いかけて私はやめた。遠征が始まった頃アレキサンダーはカッサンドラとも深い関係になっていた。父アンティパトロスが反対したのに彼を従軍させたのはもちろん軍事的才能を認めたのが大きいのだろうけど、それ以外の感情もあったに違いない。私は年齢は下でありながら才能溢れる彼に嫉妬していた。カッサンドラの方は次第にアレキサンダーと意見が対立するようになったから私に対する感情はもっと複雑であろう。彼の行った私に対する数々の嫌がらせはアレキサンダーにはほとんど話していない。
「大臣は高齢だけど精力的だ。君宛の手紙を何通か読ませてもらったけどとても70近い老人の書いたものとは思えない」
「軍隊の指揮までしているようだ。母上といい勝負だ」
深刻な話をしているはずなのにアレキサンダーは笑顔だった。全軍の半分以上の人間、特に女や子供は助かった者の方がずっと数が少ない砂漠の行軍の後では、大臣と母の対立などとるに足らないことのように思えるのだろう。
「なんだか君は楽しそうだ」
「ああ、楽しいさ。邪魔なカッサンドラはマケドニアに帰してここスサで大規模な結婚式を行う。このことはきっと千年、二千年後の世界にまで語り伝えられるに違いない。そして俺とお前はそれぞれ子供を持ち、その二人は血の繋がりのあるいとこ同士、マケドニアとペルシャの血を引き、しかも生まれた時から固い友情で結ばれているんだ。俺とお前のように・・・素晴らしいではないか。これでやっと俺はお前と正式な血の繋がりを持つことができる」
アレキサンダーの目は私の顔ではなくもっと遠くの場所を見ている。私は思わず目を伏せた。喜びに溢れ輝いている彼をまともに見ることができない・・・なぜならば、私はもう彼の望みを叶えられる体ではなくなっているからだ。
盛大な宴は3日3晩続けられた。華やかな宴の席にバゴアスがいないことを嘆く者がいるかもしれないと不安だったが、誰もそんなことを口にしたりはしない。ただこの結婚を大いに喜び、マケドニアとペルシャの結びつきを強調するような祝辞ばかりが述べられた。私は白いドレスを身にまとったドリュペディスの手をそっと握った。奴隷の女や宦官の少年とは全く違う滑らかな細い指、頭に白いベールをかぶった彼女は他のほとんどの花嫁と同じようにずっと下を向いていた。
「ここに集まる者達、そして神々よ、どうか我らの結びつきを祝福してくれたまえ、我らはここスサに新しい世界を築いていく」
アレキサンダーの晴やかな声が私の耳に響いた。それは戦いの時の威嚇の声とは全く違っていた。ペルシャ王の姫という高貴な血筋の娘と結婚する憧れと期待と恐れが混ざったなんとも艶のある声だ。愛し合う時に私に囁く声とも違う。アレキサンダーは同じペルシャ人であるバゴアスと話すときあのような声を使ったのだろうか。彼への嫉妬心は時折私の胸の奥で渦巻き、その業火が消えることはない。熱い鉄の棒で焼かれた体の奥が疼いた。だが同時に私はアレキサンダーが欲しくてたまらなくなった。
王宮内の私の部屋に彼女の方が先に入って待っていた。宴の間に奴隷達が念入りに掃除をし、色とりどりの布や花で美しく飾られていた。私が入るとドリュペディスはソファーから立ち上がってそばに歩いてきた。体の線がはっきり透けて見えるほど白の薄いドレスを身にまとっている。
「ヘファイスティオン様、ドリュペディスでございます。私はどのようにすればよろしいのでしょうか?」
ゆっくりと思い出しながら正確なギリシャ語で話した。最後の方は震えて消え入りそうになっていた。彼女はまだ若い。ペルシャの姫として大切に育てられながら、運命の皮肉で国を滅ぼした異国の男と結婚しなければならない不運を嘆き恐れているに違いない。私はその手を握った。小刻みに震え、汗をかいている。
「心配しなくていい。あなたと少し話がしたい。ソファーに座ってくれ」
彼女は頷き、ゆっくりとベッドへ向かった。上から吊り下げられている何枚もの布をおろしてベッドの周りを包み、その中へと入った。私の言葉は通じていない。宴が終わったらこうするようにと手順をすべて教えられているのだろう。私は部屋の明かりを次々と消し、ベッドのそばの小さなランプの火だけ残した。私は服を脱ぎ、ベッドの中へと入った。彼女は腕を絡め、私の唇に口を近づけた。
「ヘファイスティオン様、あなたの妻となれてうれしゅうございます」
「待ってくれ、あなたに話さなければならないことがある」
私はベッドの周りに布を上げ、ランプの光が自分の体を照らし出す場所に立ち上がった。彼女が小さな声で悲鳴を上げた。無理もない。私の体は戦場での切り傷、拷問で受けた鞭の跡、火傷の跡などがくっきりと残っていた。私はペルシャ語で話しかけた。
「このような醜い体を見せてすまない。あなたには正直に何もかも話そうと思っている。私は戦場で何度も怪我をし、敵に捕えられて拷問を受けたこともある。これはみなその時の傷だ」
啜り泣きの声が聞こえた。このようなことは彼女は想像したこともないであろう。王宮の奥深くで大切に育てられた姫、囚われの身となってからもアレキサンダーは彼女達が元通りの生活が送れるよう細心の注意を払っていた。戦いでどれほど酷いことが行われるかなどまったく知らずに育ったに違いない。
「驚かせてすまない。だが私の受けた傷は目に見えるものだけではなかった。敵に捕えられて拷問を受け死にかけた私は同時に子供を作ることもできなくなった」
啜り泣きの声はいっそう大きくなった。私の話す言葉の意味をはっきり悟ったのだろう。
「本来ならこのような体であなたと結婚するなどという失礼なこと、王から話が出た時に断るべきであった。だが、私は断ることができなかった。アレキサンダーはここで新しい夢を見つけた。遠征で先へ進むことを諦めて引き返し、砂漠の行軍で多くの部下を失った彼は夢もどこかでなくしていた。仲間に裏切られ、愛するバゴアスを亡くしたことも大きな嘆きの原因となった。そんな時ギリシャとペルシャの融合という新しい夢を見つけ、私と彼が真の繋がりができるようにと考えた。言葉にははっきり出さなくても私にはアレキサンダーの考えがはっきりわかる、夢が見えてしまうんだよ。私は王の友として高い地位を得ることができた。ペルシャ王の姫に相応しい暮らしをあなたに与えよう。子はできなくともただあなたの顔を時々見られるだけで私は充分幸せだ。ただ一つだけ頼みがある。あなたの姉がアレキサンダーの子を宿したなら、私も自分によく似た顔立ちの男を誰にも知られないようこの部屋に連れてくる。その男に抱かれてくれ。私の頼みはそれだけだ」
「ヘファイスティオン様・・・・」
「すまない。若いあなたにあまりにも勝手なことばかり言って・・・」
「抱いてください」
「通じてないのか!ペルシャ語で話したはずだ。すまない、私は今夜これ以上あなたと一緒にはいられない」
「あなたの言葉、すべて理解できます。でも私はあなたをずっと待っていました」
はっきりとしたギリシャ語で話した彼女は立ち上がり、裸のままベッドから下りて部屋の中を歩いた。衣装箱から小さな箱を取り出して私の前に戻りふたを開けた。色あせた白い花が数本形を保って入っている。彼女はギリシャ語で話を続けた。
「この花を覚えていますか?」
「これは私が昔あなたに・・・」
「ええ、あなたからいただいた花です。色あせないように書物に挟み、こうして箱に入れて大切に持っていました。あなたはあの時これが父のそばで咲いていた花だからと私と姉にくださいました。偉大なイスカンダル王は私達の生活に心を配ってくれました。でも、父が最後に目にしたかもしれない花を届けてくださったのはあなたです。その時からずっとあなたの帰りを待ち続けていました」
「私はもうあのころとは全く別の人間になってしまった。多くの戦いと拷問が私の体も心もすっかり変えて・・・今の私はもう・・・」
「同じです。あなたは何も変わっていません。あなたは王宮で暮らす私達には想像もできないような体験をしたと思います。でももし姉がイスカンダ、アレキサンダー王の子を宿したならば、同じ頃きっと私もあなたの子を宿すでしょう。あなたとアレキサンダー王は私と姉よりももっと深い絆で結ばれ・・・」
「奇跡など起きない。私がどのようなことをされたのかあなたにはとても話せない」
「話す言葉が違っても、私はあなたを理解できます。私はあなたの妻、どうか抱いてください」
「辛くなるだけだ。男でなくなった惨めさをこれ以上味わいたくはない」
「思い出してください。この花を摘んだ日の記憶を・・・」
私は箱の中の白い花をじっと見た。あの日、ダレイオス王はペルシャの王とは思えぬほど惨めな姿で道端で死んでいた。アレキサンダーは自分のマントを王の遺体にかけていた。そこに咲いていた小さな花、死の苦痛の中美しい花はほんの少しでも王の心を慰めたに違いない。だが、それを摘んで持ち帰った私は何を望んでいたのか。美しいペルシャの姫に憧れ、ほんの少しでも言葉を交わしたいと摘み取って渡した。死にいく王の心など私にはどうでもよかったのかもしれない。それなのにその花を持ち続け、私の帰りを待っていてくれた・・・美しい花は今目の前でもう一度摘み取られるのを待っている。
「このようなものであなたの関心を引こうとした。私はあの頃とあまり変わってないかもしれない。それでもよいのか?」
「ずっとあなたを待っていました」
彼女の手が肩に絡み、私は腰を低くした。彼女の唇が私の唇と重なり、震える手が私の傷跡に触れないよう慎重に背中を触った。もう片方の手に握られた小箱のふたを閉じ、そっとベッドの端に置いた。
「大切な花だ。あの場所は多くの兵士が通ったであろうに踏まれずに咲いていた。踏みにじるわけにはいかない」
−つづくー
後書き
「白い花の記憶」タイトルだけつけてどんな花を背景に入れたらいいか何日も迷っていました。道端に咲いているような花でありながら、死にいく人間を慰められる美しさを持った花、うまくイメージにあっているでしょうか?ダレイオス王の死はアレキサンダーやヘファイスティオンにとっても衝撃的だったと思います。宿敵でありながらこんな形での死はゆるせないと裏切った部下を徹底的に追いかけてさらなる東方へ、もし別の形で王が死んでいたならば遠征隊が向かう先も別の道になったかもしれません。今回のヘファのお相手は女性、しかも複雑な事情を抱えているので今までとはちょっと違った感じになっています。
2008、4、23
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