(61)闇に咲く白い花・後編(***)
腕の痛みで目が覚めた。片方の腕を動かすことが全くできない。
「アレキサンダー、君がこうして頭を乗せている限り僕はまったく動けないじゃないか」
そっと頭を動かすが彼が起きる気配はない。私の下半身は軽く疼いていたが、彼の重みを受けた腕よりその痛みは軽い。全ては記憶による幻で私の体が直接焼かれたわけではないからであろう。
「ヘファイスティオン、そばにいてくれ。お願いだ、離れないでくれ」
アレキサンダーは目を閉じたまま手を伸ばす。その手のひらを握り締めた。
「ああよかった、お前がいなくなる夢を見た」
「僕はここにいるよ」
「時々たまらなく不安になる。二人に子ができればそんなこともなくなるのだろうか?」
「きっとそうなるよ」
「二人は生まれた時からずっと一緒に育つんだ。遊ぶ時も学ぶ時も何もかも一緒で・・・やっぱりマケドニアで育てるのがいいだろうか?」
「母親と引き離すのはかわいそうだ。ここに優秀な教師を招けばいい」
「そして俺達は次の遠征先へ行く。アラビアはどうだろうか?」
「アレキサンダー、君の夢は果てしなく広がるんだね」
「お前がいる限り、俺はどんな夢でも見られる」
「僕は君の夢を決して壊さないよ。でももう起きないと。君に会うために今日もたくさんの人間がやってくる」
「いつまでもお前とこうしていたいけどそうもいかんな。俺達の子が十六歳になったら王位を譲ってしまおう」
「十六歳で・・・君が王になった時よりも若い時にか?」
「お前の子がそばにいる。きっと大丈夫さ」
自分の部屋に戻った後、あの若者を呼び出した。昨晩のことを確かめ、褒美を与えなければならない。
「ヘファイスティオン様、お呼びでしょうか?」
「誰にも知られなかっただろうな」
「もちろんです」
「昨日はご苦労だった。少しだがこれを受け取れ」
私は彼に金貨の入った小さな袋を手渡した。彼はその中を見て驚いた。
「申し訳ございません。これはいただけません」
「なぜだ?秘密は必ず守って欲しい。特別な任務を与えたのだからそれくらいの報酬は当然であろう」
「ドリュペディス様はとても美しい方で、私は夢中になってしまいました。その上さらにこのようなものを頂いては・・・」
「勘違いするな。お前は私の身代わりとして子が宿るようにすればよいのだ。子ができたならば相応の褒美を与え、遠い駐屯地に行かせる。二度と彼女に会うことはなかろう」
「わかっております。だからこそこれはいただけません。下級の兵士が急に大量の金を持ったなら、周りの者が疑います。役目を果たし、ここを離れる時にいただければ充分です」
「その時には一生困らないだけの金貨とできるだけよい地位を与えよう。先のことは心配しなくてよい」
「いいえ、これだけいただければ充分です。金貨は人の心を惑わします」
「お前は賢い男だ。ではその時にこれを与えよう」
「もし、ドリュペディス様が・・・・」
「その子供はやがてはこの国の宰相となる。秘密は生涯守り通せ。もしそのような噂を少しでも聞けば、私はためらいなくお前を殺す」
「ご安心くださいませ。このことは決して誰にも言わないと誓います」
夜、突然アレキサンダーが私の部屋へとやってきた。遠征先ではともかく王宮で暮らすようになってからは少し部屋を離れるだけでも必ず宦官が付き添い、あらかじめ来ることを伝えられていたから驚いた。
「アレキサンダー、なぜ急に・・・・」
「すまない、どうしてもお前にすぐ話したいことがあった。スタテイラが倒れひどい出血をした」
「まさか・・・・」
「俺の目の前でだ。久しぶりに顔だけでも見ようと思ったら突然・・・・傷の手当てなどミエザにいた頃いくらでも習ったのに俺は気が動転してただ叫んで侍女に医者を呼びに行かせただけだ」
「しかたがないさ、戦場での傷の手当てはできても、僕達はそういうことには慣れていない」
「子は助からなかった。スタテイラは無事で数日安静にしていれば大丈夫だと言われたが・・・」
「そうか、残念だった」
「やっぱり無理なのか?俺はペルシャを滅ぼし多くの人間を虐殺した。そんな俺とペルシャ王家の血を引く息子を望むなどしょせん無理な話だったのか」
「そんなことはない。今回のことは残念だったがスタテイラは無事だったし、君はこの先いくらでも子が作れる」
スタテイラが回復すればいずれまた子ができるかもしれない。だが、ドリュペディスに先に子が生まれるわけにはいかない。たとえ一日違いでも私の子はアレキサンダーの子より後に生まれなければならないのだ。今夜もあの男は彼女の部屋に行っている。すぐに止めなければ・・・・あの男をどうする・・・・かわいそうだが殺すしかない・・・・誰か信用できる者に命じて・・・・いや、信用できる者などだれも・・・・
「ヘファイスティオン、どうした、顔色が真っ青だぞ」
「ドリュペディス、彼女を止めないと・・・・」
「妹の彼女が側についていた方がいいかもしれない。スタテイラはひどく興奮して・・・・俺はそんな時どうしたらいいかまったくわからないで・・・・」
「わかった。アレキサンダー、僕が彼女に言っておくよ。ドリュペディスも僕の妻になった以上簡単に家族のところへも行けない。僕が命令を出せば・・・・ここで少し待って、すぐに戻ってくるから」
「おいヘファイスティオン、どこへ行く?」
「ドリュペディスの部屋だ」
「俺をここに残してか?王をほったらかして・・・・いや、王でありながら突然の来た俺が悪いのだけど・・・・」
言いながらアレキサンダーは笑い出した。私も少しほっとした。
「王である君をほったらかして悪い。できるだけ早く戻ってくる」
言いながら私はすばやく上着を着て短剣のついたベルトを締め、マントで体を覆った。
「そんな大袈裟な格好で行くのか。すぐ近くだろう。それともお前命を狙われているとか・・・」
「僕は君に継ぐ地位についたから、君以上に命を狙われる可能性がある」
「気をつけてくれよ」
部屋を飛び出し、中庭へと出た。周りに見張りの兵士がいないのを確かめ、腰にある短剣を抜いた。手入れが行き届きよく磨かれている短剣は月明りでもはっきりと顔をうつした。自分と見間違えそうなほどよく似た男を殺さなければならない。どこを刺す?首か胸を刺して殺した後、顔がわからなくなるようにしなければならない。本当に殺すのか。あの男は秘密を守ると誓ったではないか。目の前に差し出された金貨すら疑われては困るからと受け取らないほど純粋な男だ。スタテイラだってまたいつアレキサンダーとの間に子ができるかわからない。あれほど自分によく似た若者を捜すのは簡単ではない。それがいつなのか?本当に彼はしゃべらずにいられるか。こうしている間にもあの男はドリュペディスを犯して陵辱し、彼女との間に子をなそうとしている。ただの下級兵士がたまたまよく似た顔立ちというだけで、白い花はそれまで気付かずに素通りしても、その美しさに足を止めてしまえば自分のものにしたくなり・・・・
「殺すしかない。私の名誉を、いや、アレキサンダーの夢を守るためには・・・・・
ドリュペディスもまた姉のことを聞いて泣いていたのだろう。目が赤く腫れ、服も乱れていた。白い服が破れ、赤い血のようなものまでついている。あの男はこのような状態の彼女を無理やり陵辱したのか。だとしたらためらうことはない、今すぐ殺せばよい。
「ドリュペディス、ずっと泣いていたのか。姉上のことは気の毒だった。アレキサンダーもたいそう悲しんでいる。だが体が元通りになれば次はきっと・・・」
「誰かが陰謀を企んで姉に毒を・・・・そうに決まっています。私もいつそうなるか」
「そんなことはない。落ち着きなさい。あの男は今夜も来たのか?」
「いいえ、彼は私が体調を崩していると伝えたらそのまま帰りました。今夜はこの部屋に一歩も入っていません」
「だが、お前の服に血がついている。何かあったのか?」
「いいえ、これは私が化粧をする時に失敗して液をこぼしてしまったのです。あなたがいらっしゃると聞いたので急いで・・・・」
「侍女が一人しかいない。人払いしたのか?」
「はい、あの男が来るのをたくさんの侍女に見られたくはありません」
「すまないことをした。だがそれももう終わりだ。今夜はもう遅いから休んで、明日姉上のところへ行ってあげなさい。私に気を使うことはない」
「お言葉ありがとうございます」
「だいぶ疲れているようだ。寝室まで連れて行ってあげよう」
「いいえ、自分で歩けます。宰相であるあなたにそのようなこと・・・」
「私達は結婚したのだ。私は何もできないけど、せめて寝室まで行ってつきそうぐらい」
「お願いです。どうか寝室には・・・・」
ドリュペディスは必死に私の手を押さえ止めようとした。何かあるのか。
「お止めください、ヘファイスティオン様、どうか寝室には行かないでください」
「ドリュペディス、一体何があったんだ!」
私はペルシャ語で怒鳴り、手を振り払って寝室へとむかった。
「これは酷い・・・・このようなこと・・・・・」
部屋を開けるとすぐ血の臭いがした。ベッドの上は暗くてはっきりは見えないが人の形のものがある。血と何かが燃えたような臭い、黒い塊、顔を手で覆い目をそむけた。ドリュペディスが私のすぐ側にきた。
「申し訳ございませんでした。このようなもの、あなたの目に触れる前に始末すべきでした」
「どうした、一体何があった?」
「何者かが私の部屋に侵入しました。すぐに護衛兵を呼び始末させました。私はずっと隣の部屋に・・・・」
泣きながら話す声、彼女は震えていた。
「すまない、私の浅はかな考えがお前を傷つけてしまったようだ。これは私が命じた男、お前はこのようなことが耐えられずに兵に命じて殺させた。そうだろう?心配しなくていい。私がうまく始末してこのようなことはもう二度とさせない」
「いいえ、殺したのは私です!」
「ドリュペディス、大切に育てられた王女であるお前が人を殺すなど・・・・しかもこの男、顔を焼かれているようだ」
「私が殺しました。ペルシャでは王族の暗殺を企んだ者は極刑、鼻と耳を削ぎ、顔を焼かれて誰だかわからないような状態で処刑されます。私はそういう話を何度も聞いていて、顔が焼かれていれば同じようなことだとみなされるでしょう」
「そこまで追い詰めていたとは・・・・すまなかった」
「いいえ、ヘファイスティオン様、姉の子が無事に育っていれば私もあなたと同じように考え、この男から子を宿すことを考えたでしょう。でも姉は・・・・姉より先に私に子ができるわけにはいきません。ましてこのような身分の者から・・・・生かしておけばいつこの男の口からあなたの名誉を傷つける言葉がでてしまうか・・・・いえ、この寝室でまさにそのような言葉を聞いてしまったのです。私は隠し持っていた剣で刺し、顔をわからなくするために松明の炎で・・・・」
「私のためにそんなことをしてしまったのか?」
「平気です。私に流れる血はペルシャ王家の血、王となり、権力を握るためにはどのような酷いこともしてきました」
「私達マケドニア人はもっと酷いことをしてきた。たくさんのペルシャ人を殺した。今さら一人の男を殺すのにためらうことはない。そのために今ここへ来たのだ」
「いけません、それは・・・・あなたは人を殺してはいけない人・・・・・」
ドリュペディスは壁に駆け寄り、窓を開けようとした。私は慌てて後ろからしがみついた。
「何をするんだ。やめてくれ!」
「不名誉なことがあって私が自ら命を絶ったとなれば、イスカンダル王もわかってくださいます。本当はすぐにでもこうするべきでした。でも最後にもう一度あなたに会って声を聞きたかった。それで待っていました」
「最後などとは言わないでくれ。私はいつでもお前のためにできる限りのことをする」
「私がいる限りイスカンダル王は夢を見てあなたは苦しみます。他の方との婚姻ならばこれほど追い詰められることはありません。あなたに幸せになって欲しいのです」
「ドリュペディス、お願いだ。私が間違っていた」
「何があってもあなたはイスカンダル王を支えて差し上げてください。姉はよく言っていました。王は強い方だけど同時にとても弱い方でもあると・・・・姉は王だからではなくあの方を本当に・・・・そして私も・・・」
「私もそうだ。ペルシャの王女だからではなく、心から・・・・」
「あの白い花をいただいた日から、ずっとあなたのことを思っていました。少しでも一緒にいられて幸せでした。でももうこれ以上は私の存在があなたを苦しめてしまいます」
彼女の手が私の手を振り解いた。
「やめろ!やめてくれ!」
窓が大きく開き、外の冷たい空気が中へ入った。ドリュペディスは体を窓から乗り出して暗闇へと落ちていった。白い衣装が花びらのように大きく広がり光を放った。下を見ると護衛兵達が集まって騒いでいるのがわかる。部屋の廊下からも大声が響く。
「ヘファイスティオン様、何があったのですか!」
「ドリュペディス様が・・・・ヘファイスティオン様、どこにいらっしゃるのです?」
私はぼんやりと窓の下を見ていた。白い衣装の真ん中が血で赤く染まり、大きな花のように見えた。
−つづくー
後書き
この話は途中まで書き上げた時に突然パソコンが真っ暗になり、その日書いた分がそっくり消えてしまうということがありました。もう一度最初から書くと今度は最初の予定とは違う方向に話がいきました。自分の意志で書いたというより、何かに導かれて偶然書いてしまったという気持ちです。史実とは全然違いますが、フィクションと思って読んでください。
2008、7、11
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