偵察(5)

船の揺れは激しくなってきた。だがアレキサンダーにしっかり押さえつけられている私は身動きすることもできない。

「ヘファイスティオン様、大変です。嵐がきたようです。雨が激しくなり、船の舵が取れません」

こうしてはいられない。

「アレキサンダー、ごめん。少しだけ、君の手足を動かすよ」

固くしがみついている手足を振りほどき、ようやく立ち上がることができた。船の揺れは激しく真っ直ぐ立っていることも難しい。それなのにアレキサンダーは目を覚ます気配はない。どんな状況の時でもわずかな時間の間に深い睡眠が得られるというのは、王になるための条件の一つなのだろうか?私にはとても真似できない。

「ヘファイスティオン様、早く来てください。みなこの嵐におびえ、混乱しています」
「わかった、すぐに行く」

急いで着替えをして甲板に上がった。激しい雨が降っている。さっきまで星が見えていたというのに、この辺りの天気は変わりやすい。波も高くよろけそうになりながら船の先に向かって歩いていく。

「ヘファイスティオン様、この嵐で舵がまったく取れません。ただ風に流されているだけです」
「大変です!船が波をかぶり、船内は水浸しです」
「どこかにぶつかったみたいで、穴が開いているようです」
「大変だ!これは海の神ポセイドンの怒りだ」
「海の神が我々を呪っている。これはもう助からない」
「このままでは船は沈んでしまう。海に飛び込むしかない」
「待て!この海に飛び込んだら大変なことになる」

100人程の兵士達はみなほとんどパニックになっていた。船の扱いに慣れている者は港街から連れてきた船乗りをしてきた者が数名いるだけである。私は騒いでいる兵士達に向かって大声で叫んだ。

「みんなよく聞いてくれ!この嵐は海の神ポセイドンの怒りではない。この辺りの海では急に雨が降ったり嵐になったりすることはよくあることだ。嵐は長い時間続いたりはしない。驚いて海に飛び込むなどということは考えずにすぐにそれぞれの持ち場に戻れ!この船には私達のようにマケドニアから来た者だけでなく、長い時代この海を航海してきた船乗りも乗っている。彼らにとってこれぐらいの嵐は日常茶飯事だ。彼らにまかせて、嵐の過ぎ去るのを待てばよい。壊れた場所、水に濡れた場所は今すぐ修理にかかれ、いそげ!」

ようやく皆の興奮は収まり、静かになった。私は急いで船の壊れた箇所へと向かった。その場所は腰ぐらいの高さまで水がつかり、隙間からなおも水が噴出していた。

「早く、穴をふさがなくては・・・」

私は水が噴出している方へと歩いていった。

「ヘファイスティオン様、危険です」
「私に構うな、早く穴をふさぐものを持って来い」

身につけていた衣服を引きちぎり、水が噴出す隙間にねじ込んだ。船は激しくゆれている。壊れた船の破片で手は傷つき、たちまち手は血だらけになっていた。

「ヘファイスティオン様」
「いいから早く壊れた箇所を直せ、この穴が広がったら大変なことになる」

雨の中、懸命な修理が行われた。私の手は真っ赤に染まっていたが、水の冷たさと興奮で感覚を失っていた。体中が冷えてガタガタと震えがきたが、ここで私が倒れるわけにはいかない。

「みんな、もう少しだ。嵐はおさまってきた。ポセイドンの怒りなどでは決してなく、ただの嵐だ。心配するな」
「ヘファイスティオン様、あなたの怪我が心配です。手当てをしなくては・・・」

港街からつれてきた船乗りだろうか、異国の服を着て顔をベールで覆った男が流暢なギリシャ語で話しかけてきた。

「そうです、あなたの怪我が心配です。ここはもう大丈夫です。お戻りください」
「しっかり直しておかないとまたすぐ壊れる。夜が明けたら一度陸地に上陸した方がいい。それからここはずっと誰かが見ていた方がいい。舵の方は大丈夫か。他に怪我をした者はいないか」
「ヘファイスティオン様、我々の心配だけでなく、ご自分の心配をしてください。嵐はおさまってきました。もう大丈夫です」
「わかった、後のことを頼んだ」

ふらふらする足取りで船室へと戻ると、異国の服に身を包んだ男が後をついてくる。

「私のことは心配しなくていい。お前の持ち場はここではないだろう。早く自分の持ち場へ戻れ」
「俺の持ち場はここだ、ヘファイスティオン。顔が見えないとお前は俺と他の人間の区別もできないのか」

男はベールに隠した顔を見せた。

「アレキサンダー・・・」
「女の格好は面倒だから、今度は男にしておいた。男が顔を隠したりはしないだろうけど、見つかっても困るからな・・・」
「ずっと見ていたのか」
「当たり前だ。俺が何もしないでずっと寝ていたとでも思ったのか・・・だけど俺の出番はなかったな。お前一人で立派にみなを統率していた。お前には俺と同じ血が流れている。いたずらに神を恐れず正しい判断をして、皆を新しい世界へと導くことができる。見ていてうれしかったよ。だけどもう少し自分の心配もしろ、こんなに血だらけになって、裸同然の格好で歩いていたら、またユーメネスを喜ばせるばかりだ。早く部屋に戻ろう」

確かに私は自分の服を引きちぎり、ひどい格好になっていた。だがそれを気にする余裕などなかった。どんなことがあっても、たとえ自分の命を投げ出してでも、この船を沈ませるわけにはいかない。この船には誰よりも大切なアレキサンダーが乗っているのだから・・・





「うわー!やめてくれ・・・たのむ・・・ああー・・・たすけてくれ!・・・・うわー」
「ヘファイスティオン、少しはじっとしてろよ。これぐらいの怪我、たいしたことないだろう」
「塩水がしみてひりひりする・・・ヒイー・・・」
「薬をつけているだけだ、ほんとうに大げさだな」

アレキサンダーに手の傷の手当てをしてもらいながら、私は泣き叫んでいた。その時は船が沈んだら大変という責任感や部下の前で弱音は吐けないというプライドなどで痛みも感じていなかったが、安心すると急に痛みにも襲われた。普通に怪我をしたときよりも塩水がかかっているためか傷口は浅くても酷く痛く感じられた。脈を打つたびにドクドクと血の流れを感じ、さらにその傷口に薬をつけられると、塩でも擦りこまれたかと思うほどびりびりと痛む。目がかすみ、息も絶え絶えの状態になるのだが、目の前のアレキサンダーはうれしそうに笑っている。

「アレキサンダー・・・まだ・・・終わらないの・・・」
「涙ぐんでいるのか・・・さっきまであんなに強そうにしていたお前はどこへいった。強いお前も好きだけど、今にも泣きそうなお前はもっと好きだ。もう一度この薬つけてやろうか」
「や、やめてくれー!・・・」
「冗談だよ。それなのにお前、震えているのか」
「寒くてたまらない・・・」
「こうすればすぐ温かくなる」

アレキサンダーが私を包み込むように抱きしめた。こらえていた涙が頬を伝わるのを感じた。

「泣いていいよ、ヘファイスティオン。俺もお前も今は人前では決して涙を見せられない立場にある。俺の前ではいくら泣いてもいい」
「君は意地悪だ。子供の時には数え切れないほど泣かされた」
「あの頃も今もお前の泣き顔を見るのは、俺の密かな楽しみの一つだ」
「とんでもない王だ!」
「そのとんでもない王に夢中になっているのはお前だろう。まだ寒いか」
「寒くてたまらない。それに手も痛いし・・・」

口ではそう言いいながらも私の心は温かいものに包まれていた。波は穏やかになってきた。明日は陸地に向かって船を進め、どこかに上陸しなければいけない。まだ誰も足を踏み入れたことのない未知の土地に・・・




                                                −つづくー



後書き
 ヘファイスティオンを泣かせるのは楽しいだろうな、きっと(笑)。好き勝手なことができるアレキサンダーがうらやましいです。
 2005、11、14


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