約束の場所(1)

戦いの前の晩はいつも興奮して眠れない。私はそっとアレキサンダーの天幕を訪ねた。

「遅かったな、待ちくたびれて寝てしまうところだった」
「バゴアスは?」
「お前が訪ねてくる前に下がらしておいた」
「どうして来るとわかった」
「お前のことならたいていわかるさ。早く入れ」

特別に作られた広い天幕の中に入る。大王アレキサンダーもこの時ばかりは一人の男となり、私の腰を引き寄せ、手を握り締めて軽く口付けを交わす。ただそれだけのことで、私の胸の鼓動は激しくなり、体は熱を帯びてくる。

「心配しなくていい。お前の周りにはいつものように護衛隊を配置してある。そこから動かなくていい」
「そんな戦い方ばかりしていては、手柄は立てられそうにない。私はますます嫌われてしまう」
「それでいいではないか。そのかわりに王が誰よりもお前を愛する。その場所にたどり着くまで、俺は決してこの手を離さない」

私達は強く手を握り合い、体を密着させた。薄い上衣の上からも彼の鼓動が感じられる。強く握られた手からは汗が滲んできた。約束の場所にたどり着くまでこの手が離れることはない。





私が十歳になったばかりの頃、初めて父に連れられてフィリッポス王の住む宮殿へと足を踏み入れた。父は宮殿でいろいろな記録を書き写す書記官の仕事をしていた。王に会うということで私は緊張して震えている。片方の目を怪我していて、足を少し引きずったフィリッポス王の姿を見て、私は跪いて顔を下げた。

「これがお前の息子ヘファイスティオンか。そう固くならなくてよい、顔を上げろ」
「申し訳ありません。いずれは私の仕事を継がせようとご挨拶に上がったのですが、なにぶんまだきちんとした躾もしておりませんので・・・」
「顔をよく見せてみろ」

王の命令で、私は恐る恐る顔を上げた。たった一つ残された目が、私の顔をじっと見て妖しい光をたたえた。私は思わず目をそらしてしまう。

「怖がらなくてもよい。目が美しい。賢そうな子だ。ヘファイスティオン、お前は今いくつだ」
「・・・・じゅっさい・・・です」
「もうしわけございません、この子はたいそう緊張してまして・・・十歳になったばかりです」

消え入りそうな声で答えた私の後で父は慌てて付加えた。

「我が息子アレクサンドロスと同じ歳か、これは都合がよい。ヘファイスティオンに兄弟はおるか」
「いいえ、この子だけでございます。妻の体が弱く子供はこの子だけでございます」
「有力な後ろ盾もなく、ただ一人の子として大切に育てられたのか・・・息子の友として願ってもない条件だ。どうだ、ヘファイスティオンを王宮に住まわせ、我が息子と同じ教育を受けさせるというのは・・・・」
「とんでもございません。ヘファイスティオンは私が読み書きを教えたぐらいで、とてもアレクサンドロス王子と一緒に教育を受けるなどということはできそうにありません」
「どうしてだ!王子と一緒に最高の教育を受けられるというのに、何か不服でもあるのか!」
「不服ではありません。ただ私と息子の身分や立場を考えますとあまりにも荷が重過ぎます。どうかお許しください」

少し怒りを含んだフィリッポス王の声と必死で跪き、王に許しを願う父の姿。この時私は自分がどう言えばこの場がうまくおさまるかはっきり悟った。

「お願いします。どうか私をここにおいてください。アレクサンドロス王子と一緒に学ぶ機会を与えてください」
「よく言った!ヘファイスティオン!さっそくお前の部屋を用意しよう。アレクサンドロスも呼んでくる。ここで待っていろ」

フィリッポス王は不自由な足を引きずって出て行った。部屋には私と父だけが残された。

「いいのか、ヘファイスティオン。ここで暮らすようになったら母にはめったに会えなくなる。私とて同じ宮殿内にいてもそう簡単には会えない」
「大丈夫です。せっかく王が僕を選んでくれたのですから・・・」
「それにあのフィリッポス王は・・・・」

父は何かを言いたそうであったが、王が王子を連れて戻ってきたので慌てて口をつぐんだ。これがアレキサンダーとの初めての出会いであった。

「お前が新しく選ばれてここに暮らすようになったのか、名前は?」
「ヘファイステオンです」
「ヘファ・・・・言いにくい名前だな!もう一度大きな声で言ってみろ!」
「ヘファイスティオン!」
「ヘファイスティオン、お前はどこにもいかないでくれよ。ずっと俺のそばにいろ!」

アレキサンダーは私の手を強く握った。十歳の子供とは思えないほどの力強さである。後で知ったことだが、私の前にも何人かの貴族の子が彼の学友として選ばれ、しばらく一緒に暮らしたのだが、結局その貴族と王家で問題が起こり、追い出されてしまったらしい。新しい友達を迎え入れては自分にはわからない理由で追い出されてしまう、そんなことの繰り返しがアレキサンダーを不安にさせていたのだろう。詳しい事情はわからなくても握り締める手の力強さに驚いて私も答えた。

「どこにもいかないよ。ずっとそばにいる」
「約束だぞ。その場所に行くまで俺はこの手を離さない」
「その場所って」
「よくわからないけど、俺には行かなければならない場所がある。お前も一緒にきてくれるか」
「一緒に行くよ」

わけのわからないまま私はアレキサンダーと固い約束を交わした。フィリッポス王と父と周りにたくさんいたはずの侍従や兵士達の姿は私の記憶からは消えている。ただその時の手の痛さだけを長い間覚えていた。



                                                 −つづくー


後書き
 1周年記念リクでノンタ様より「フィリッポス王に伽を命じられるヘファ」というお題です。ヘファはあまり有力な貴族の子ではなかったようです。どういういきさつで大王の親友になったのかいろいろ考えているうちにまた話が長くなってしまいました。今の所フィリッポス王は多少下心はあっても、息子の友達という目で見ているはずです。
20061、31

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