約束の場所(10)
「お前達は皆、実際に歩兵となって楯と槍を持ち、戦うような者ではない。指揮官として、あるいは将軍として、軍の先頭に立つ者である。だが自分で持つことはなくても戦闘で使う楯と槍を持ち、その重さを実感することは大いに役立つ。上に立つ者は常に自分が手本を示さなければならないからな。一人一本ずつ持って並びなさい」
大きな声で私達に命令をしているのは、家庭教師だったレオニダス、ここミエザでも教練の教師として私達を教えている。全員に長い槍と楯が渡された。長い槍・・・・危険がないように穂先は尖らせてないが、それはあの時のものとほとんど同じ大きさと形をしている。私は槍から目をそらせた。体がガタガタ震えている。冷たい汗が背中を流れた。
「ヘファイスティオン、しっかり持たないか!尖らせてない槍とはいえ、いい加減な気持ちでやっていては怪我をする。いいな!」
「すみません」
片手に重い楯を、片手に長い槍を持って全員が一列に並んだ。
「実際の重装歩兵部隊の密集方陣は一部隊二百五十六名の槍部隊から成っているが今それだけの人数はここにはいない。三人ずつ三列に並んで・・・・」
「ああー、痛いー」
「わー!何をする」
「何をしている!落ち着きなさい」
背中に激しい痛みを感じて槍を持つ手を離してしまった。その槍がすぐ目の前にいたプトレマイオスにぶつかったようだ。
「プトレマイオス、大丈夫か!怪我はないか」
「大丈夫です、少し驚いただけで・・・・」
「ヘファイスティオン!何をしている。しっかり持っていろとあれほど言ったではないか。仲間に大怪我をさせるところだった」
「ちょっと待ってください。悪いのはヘファイスティオンではない。カッサンドロスが後ろから槍でつついたのを見た」
アレキサンダーの声がした。
「本当かカッサンドロス」
「俺はそんなことしていない。こいつが震えて槍を落としただけだろう」
「よくわかった、ヘファイスティオン、カッサンドロス、二人とも前にでなさい。罰を与える」
私とカッサンドロスの二人は皆の目の前に立たされ鞭で打たれた。それはほんの数回でそれほど酷い罰というほどでもなかった。その痛みよりも、終わったあと私を睨みつけたカッサンドロスの目の方がよほど怖ろしく感じられた。
数日後、教練が終わった帰りの山道で、私はカッサンドロス、ネアルコス、ハルパロスなどに囲まれた。
「ヘファイスティオン、この前はよくも俺に恥をかかせてくれたな」
「この前って・・・・」
「とぼけるな!お前が槍を落としたことでなんで俺まで鞭で打たれるんだ。お前、槍を持つ手が最初から震えていただろう。もう一度これを持ち、俺と勝負しろ」
「いけないよ、勝手に槍を持ち出したら・・・怪我をしたら大変だ」
「お前は槍を手にすることもできないのか!そんな腰抜けがアレキサンダーと同室で一番信用されている。許せないね。この俺を差し置いて・・・・」
「今、ここで君と槍で勝負しようとは思わない。怪我をしたら大変だ」
「逃げるつもりか」
「そうではない、ただ槍なんかで・・・・」
「お前、顔色が真っ青じゃないか。そういえばあの時も俺が後ろからちょっと突付いただけで大声を出していた。お前、剣とかを握る手つきも危なっかしいし、何かあるのか」
槍だけではない。あの日以来、剣や棒のようなものでもそれを手にするとき私の体は震えた。余りにも怖ろしいその出来事に長い間私は夜の夢でうなされ、似た形のものを見るだけでも恐怖に襲われた。
「なんでもなければ槍ぐらいしっかり持って見ろよ」
目の前に長い槍が突き出された。
「やめてください!お願いです・・・いや・・・やめて!・・・それだけは・・・・助けて・・・・いやだー」
体を丸め、半狂乱になって泣き叫んでいた。背中を棒のようなもので叩かれているのを感じたが、立ち上がって抵抗する力はなかった。
「おい、やめろ!お前達三人がかりで何やっているんだ」
大きな声がして、やっと背中を叩かれる痛みは終わった。
「何をしている!おい、ヘファイスティオン、大丈夫か」
「プトレマイオス・・・」
顔を上げたときカッサンドロスなどは遠くに走り去ってしまい、プトレマイオスの顔だけがそばにあった。
「またカッサンドロスか。今度は何をされた」
「この前の仕返しだって。鞭で打たれた・・・」
「お前、一人でいない方がいいぞ。狙われているからなるべくアレキサンダーのそばにいろ。歩けるか、まったくこんな槍まで持ち出して・・・一言先生に言った方が・・・・」
「やめて、何も言わないで・・・」
「だけど、お前・・・」
「言いつけてカッサンドロスが罰を受けたらまた仕返しされるだけだよ。わかっているよ、家柄のよくない僕がいつもアレキサンダーのそばにいるからみんな妬んでいる。プトレマイオス、君ぐらいだ。僕に普通に接してくれるのは・・・」
「俺も家柄は下の方だからな・・・我慢するつもりなのか」
「これぐらい大したことではないよ」
「しかたない、槍は片付けとくか・・・こんなところにおいて置くと問題にされるだろう。手伝ってやるからさ。お前も一本持てよ」
「いやー!・・・やめて!・・・たすけて・・・いやだー!・・・・」
目の前に突然突き出された槍がまた私の思考をばらばらにした。
「おい、ヘファイスティオン、どうしたんだ!」
「先に行って!槍は僕が片付けるから!」
「お前、おかしいぞ、たかが槍ぐらいで」
「おかしいよ、僕はおかしいよ・・・だから先に行っていて・・・誰にも言わないで・・・特にアレキサンダーには・・・お願いだから・・・僕はおかしいよ・・・槍や剣が怖くてたまらない・・・わからないよ・・・」
「ヘファイスティオン、お前何があったんだよ」
「わからない・・・・わからないけど怖ろしい・・・・もう行って・・・・僕を一人にして・・・・お願いだから・・・」
「わかったよ」
プトレマイオスは走っていってしまった。私はじっと長い槍を見つめた。わかるはずがない、カッサンドロスもプトレマイオスもこの槍で体の中心を貫かれる時どれほどの痛みがあるかを・・・どれほどの恐怖があるか・・・手足を強く押さえつけられ、どれだけ泣き叫んでも誰も助けてはくれない・・・誰も助けてはくれない。・・・・長い時間をかけてようやく私は何本かおいてあった槍を全てもとの場所に戻した。あたりは真っ暗になっていた。
「ヘファイスティオン、あんまり無理するなよ。槍なんてもう少し体が大きくなれば自由に使えるようになるさ」
宿舎に戻った私にアレキサンダーが声をかけた。
「槍を落としたぐらいでそんなに気にするな。俺だってかなり重くて手がしびれそうになった。それを後ろから突付かれれば・・・まったくカッサンドロスのやつろくなことしない。まあ、鞭で打たれて痛い思いをしたから、少しは懲りたんじゃないかな。お前は強いよ。カッサンドロスがギャーギャー叫んでいたのにお前は一言も声を出さなかった」
「鞭には慣れているから」
「槍を持って歩く練習をしていたんだろう。プトレマイオスが感心していたよ。お前は偉い、自分ができないことは一人で練習して確実に次の時にはできるようになるって・・・」
「そうでもないよ」
プトレマイオスは精一杯気を使って私のことをアレキサンダーに報告してくれたのだろう。
「お前と一緒に戦う日が来るのが待ち遠しい。俺はアキレス、お前はパトロクロスのように戦場を駆け巡る。考えただけでぞくぞくしてくる。それに早く大人になって本当にお前と愛し合えるようになりたい」
アレキサンダーは何かの力に突き動かされるかのように私の体を愛撫し、激しく求めるように体をからませてくるのだが、まだ大人になりきっていない私達はそれ以上のことはできず、ただお互いの体を撫で回すだけであった。私はその日が来ることを恐れた。その日が来れば私達の関係も今のままではいられない。
−つづくー
後書き
あんな体験をしてしまえば、槍や剣などは怖くて持てなくなっても当然かな、と思います。それでもヘファはなんとかその恐怖を克服しようと努力しているのですがいじわるカッサンドロスが・・・・
2006、3、6
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