約束の場所(26)

戦いは終わった。遠征の旅と戦いの日々が続けば、それはもはや日常生活のものとなる。それでもアレキサンダーは勝利が確実なものになるとすぐ私のところへ駆け寄ってきた。

「ヘファイスティオン、怪我はないか?血がついている!どうした、何があった?親衛隊の者をすぐに集めろ!それから医師を連れて来い!」
「アレキサンダー、これはただ敵の返り血を浴びただけだ。私はどこも傷ついてはいない」
「返り血を浴びるほど敵の近くに行ったのか?親衛隊はどうした!なぜそんなところにお前を行かせる。血を浴びるほど近くにいれば敵の槍が突き刺さったかもしれない」
「勝手に動いた私が悪かった。彼らを叱らないでくれ。君のことが気になってつい・・・」
「そうか・・・・だが無理は決してしないでくれ・・・・」

アレキサンダーは敵の数がどれほど多くても真っ先に先頭を切って敵の中に突っ込んでいく。それなのに私に対しては信頼できる親衛隊の者で取り囲み、けっして敵を近づけさせない。イッソス、ガウガメラ・・・数多くの戦いを経験し、勝利を重ねるほど私に対する守りも強固なものになった。アレキサンダーは彼自身の命よりも私の命が失われることをひどく怖れていた。私の死は彼の死でもあり、同時にこの軍隊と国の滅亡でもある、とでも思っているようである。

「ヘファイスティオン、後で俺の天幕へ来てくれ」
「私ばかりが君を独占していては、他の者はなんと言う?」
「俺がお前を欲しているのだ。誰にもなにも言わせない」





暖かな天幕に入るとすぐにアレキサンダーは私の衣服を脱がせた。いつも側で控えているはずの数人の小姓も、あらかじめ外に出されていた。薄明かりの中、私の体に新しい傷がついてないか、彼は丹念に調べていく。

「よかった、どこも傷ついてない」
「アレキサンダー、君の方がよほどたくさんの傷を負っている。こことここ・・・ほらここにも・・・医師の手当てを受けたか」
「これぐらい小姓の手当てで充分だ。思いのほかけが人も多かった。医師の手を煩わせたくない」
「君は王なのだからもう少し自分の体に気を使っても・・・君にもしものことがあればこの軍隊、いやマケドニアの国自体・・・」
「俺にもしものことなどない・・・お前が無事でいる限り・・・」

彼の手がゆっくり私の体をなでていく。ただお互いの体を見つめるだけで熱を帯び、吐息が漏れる・・・肉付きのよい白い肌にはいくつもの酷い傷跡がある。そこをそっと押さえると、彼もまた目を閉じ吐息を漏らす。

「まだ傷痕が残っている。鞭の痕、やけど・・・決して消えることがない・・・」
「もう10年以上前のことだ。すっかり忘れている」
「俺は忘れない・・・忘れてはいけない・・・俺のためにお前がどれほどの犠牲をはらってきたかを・・・」
「犠牲ではない・・・あの頃も今も私は君だけを見て生きていた・・・君と一緒にいることが幸せだった」
「お前がいてくれたから俺は自分を抑えることができた・・・お前がいつも俺を狂気から救ってくれた・・・俺がどれだけお前を失うことを怖れているかわかるか?他の者が聞いたらおかしいと思うかもしれない。お前にばかり何を気をつかっていると悪口をいうやつもたくさんいる、だけどわかってくれ、俺にはお前しかいないんだ・・・ただ一人心を許し、体を委ねられる人間はお前だけだ」
「わかっている、わかっているよ、アレキサンダー」

私達は抱き合い、互いの体の温もりを確かめ合った。腕を回し、何度も何度も向きを変えては互いの存在を確かめた。私はベッドの上に横たわった。灯りを消そうとしたアレキサンダーは、ふとその手を止めた。





「忘れていた、カッサンドロスから手紙が来ていた。戦いが終わった後、お前と一緒に読もうととっておいた」
「カッサンドロスか、珍しいな・・・君の母上や宰相からはたくさん来ているのだろう。君の母上は私にまで宛てて手紙をよこした」
「なんて書いてあった?」
「まだ読んでいない・・・君と一緒に見ようと思って・・・」
「それは永久に開かなくていい。いつか俺たちが年を取って死んだときにでも墓の前に供えてもらおう。その時に見れば充分だ。カッサンドロスからの手紙は今読んでおこうか」
「私が読んでいいのか」
「お前と俺の間に隠し事など何もない。カッサンドロスもそれは充分わかっているはずだ」

アレキサンダーは机の上に束になって置かれた手紙からカッサンドロスからの物を選び出し、封を開けて私に手渡した。

「お前が読んでくれ」
「いいのか」
「お前の声で聞けば腹立たしいカッサンドロスからの手紙も少しは耳に心地よく響くかもしれない」
「それなら読むよ・・・・アレキサンダー、そしてヘファイスティオンへ・・・私の名前も一緒に書いてある」
「あいつもよくわかっているな・・・」
「アレキサンダー、そしてヘファイスティオン、俺からの手紙などどうせ読む気もしないと思うが、二人一緒に見れば少しは俺に対する怒りもおさまるにちがいないからヘファイスティオンの名前も書いておく。そっちの戦況については詳しい報告が父のところに何度も来ているからそれ以上聞く気はしない。素晴らしい勝利をおさめたようだな。こちらの状況もあらかた知っているだろ。お前の母であるオリンピュアス王妃と俺の父アンティパトロス宰相の争いは激しくなるばかりで、いつ実際に殺し合いが起きてもおかしくない状況だ。どちらも相手の悪口を書いた手紙を山のようにそっちに送っているだろう。俺はどちらか一方に味方をする気はない。今この時代、親子兄弟であっても信用できないということを前の体験で学んでしまったから、自分は自分で状況判断をして動く習慣が身についてしまった。どちらがどう出ても片方が動き出せばたくさんの死者が出てマケドニアは混乱に陥る。そうなる前に早くお前が戻ってきて国をまとめろ。ペルシャを倒し、聞いたこともないような名前の地に兵を進めていると聞いた。このまま遠征を続けるのになんの意味がある?もう充分ペルシャの富も領土も手に入れたのだから、あとはさっさと戻ってこい。俺のことはいろいろ恨みがあるようだが、俺は俺でマケドニアを愛している。王であるお前がわけのわからない場所でうろうろしている間に国が混乱に陥るのはたまらない。早くもどってこい。もしかしてお前とヘファイスティオンは約束などしていないか。はるか遠い東の果てに行くべき場所があるから一緒に行こうとか・・・もしそうだとしたら東の野蛮人の住む土地にそんな場所があるはずもない。お前たちが行くべき約束の場所はマケドニアの中にある。だから早く戻って来い。この手紙は父には内緒で書いたし、父の手に渡っては俺の立場はますます悪くなる。だから読み終えたらすぐ燃やしてくれ・・・・カッサンドロス・・・」

私が手紙を読み終わるとアレキサンダーそれを奪うように取り、ランプの火で燃やしてしまった。

「アレキサンダー、カッサンドロスの忠告は・・・マケドニアのことは・・・」
「燃やしてくれと書いてあるだろう。あいつの書く手紙ぐらい一度読めば覚えていられる。相変わらず理屈っぽいやつだ。もちろん俺だって今マケドニアがどういう状況にあるかぐらいわかっている。いずれ遠征を終えて祖国に帰る日もくるだろう。そうしなくても母上かアンティパトロスのどちらかをバビロニアに呼び出すかもしれない。だがそれは今ではない、俺達はまだ先に進まなければならない」
「約束の場所を探すために?」
「それだけではない、カッサンドロスは何もわかっていない。あいつはこの広い大地も空も草原も山脈も何も見ていない。ただミエザで習って土地の名前を覚え、そこには野蛮人が住んでいるつまらない土地があるだけだと思い込んでいるだけだ。俺達は違う。旅をして、戦いを繰り返し、実際に今この土地を目にしている。世界はもっと広いし、先に進むことは無意味なことではない。俺達は今誰も知らない未知の世界に入ろうとしているのだから」
「そうだね、誰も知らない未知の土地が君の言っていた行かなければならない場所になるのかな」
「わからない・・・初めて会った時俺は夢中になってありったけのことをお前に話してしまった。今も同じだ。自分のことだけに夢中になってお前の立場も、おかれた状況もまったくわからなかった。そんな俺をお前はどう思った?」
「私も君に夢中になった・・・初めて会ったあのころから今もずっと・・・君の夢は私の夢になり、君のそばにいることが自分の生きるすべてになった」
「お前の傷はけっして癒えることはない。体も心も・・・・」
「傷をなくす必要などない・・・君のそばにいることがどれほどのことなのか、一つ一つの傷の痛みが、悪夢にうなされるその瞬間が私に教えてくれる。この傷が私に使命を思い起こさせ、驕り高ぶることがないよう戒めてくれる」
「お前がいてくれたから俺は狂気に陥らずに生きてこれた。驕り高ぶり、残虐な王として名を残さずにすんだ。お前のおかげだ」

アレキサンダーの熱い肉体が私の中心を引き裂き、鋭い杭を打ち込んだ。突き刺す痛みにもがき苦しみ、悲鳴を上げればさらに強い力で打ち込まれる。何も知らない子供だった頃に犯された恐怖と拷問の苦しさに泣き叫んだ記憶が呼び覚まされる。どれほどの苦痛と恐怖にさらされてもやはり私は彼と同じ夢を見て、彼の幻を見ていた。痺れるような痛みは私にいくつもの記憶と幻を見せ、そして感覚を高めていく。体の中心にも熱が集まり、苦しい喘ぎ声を出す私の耳に彼の囁きが入り込む。

「ともにいこう、ヘファイスティオン、あの約束の場所まで・・・・・」




                                              −おわりー






後書き
 「約束の場所」最終回です。ノンタ様のリクエストで「フィリッポス王に伽を命じられるヘファイスティオン」ということで書き始めたのですが、途中アレクを裏切っているヘファの苦悩、ミエザで嫉妬するカッサンの陰謀、狂気に陥るヘファ、フィリッポス王の暗殺、父と母の姿に自分に流れる狂気の血に怯えるアレク・・・などなどいろいろな要素を盛り込みすぎて収集がつかなくなってしまったようなところもありますが、自分でも考えてもみなかった方向に話が進み、こういうヘファが書きたかったと思えるところまで書けたのはとてもよかったと思います。ノンタ様、素晴らしいリクエストありがとうございました。
2006、6、12





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