約束の場所(5)
10歳の時、一度だけフィリッポス王とあのようなことがあったが、その後の2年間、12歳になるまでは比較的穏やかな日が続いた。フィリッポス王は遠征で遠い国へ出かけていることが多く、たまに戻ってきても遠征にまで連れて行っているお気に入りの小姓がたくさんいたので、私が呼び出されることはなかった。もちろん王妃オリンピュアスの監視は厳しく、家庭教師のレオニダスは教練と称しては激しい訓練を行い、鞭で打たれることもしばしばあったが、そんなことは少しも気にならなくなっていた。私の目は教練で走っている時、剣術の稽古をしている時、食事をするとき、夜寝るとき、どんな時も必ずアレキサンダーの姿を映していた。いつも一緒にいるはずなのに、その顔を目で見て確認し、声を聞くだけで大きな喜びに包まれた。辛い教練の時ほど、その思いは強くなる。息を切らせ、喘ぎながら走る時、レオニダスの気まぐれで酷く鞭打たれて痛みに耐えるその瞬間でさえ、アレキサンダーがそこにいるというだけで、喜びに満たされていた。
「ヘファイスティオン、今日のレオニダスはひどかった。キトンにまで血がついて・・・今度父上が戻って来たときにいいつけてやる」
「いいよ、言わなくて、これぐらいなんでもないことだから・・・」
「痛かっただろう」
「君がそばにいるんだもの、痛みなんて感じない」
この言葉は強がりや無理して言ったことではなかった。本当にアレキサンダーと一緒にいる限り、いつも喜びに包まれ痛みなど忘れてしまうほど、私は彼に夢中になっていた。
「またイーリアス読んでくれないか?」
「いいよ、どこを読めばいい」
「パトロクロスがアキレスの鎧と兜を借りて戦いにいくところ。お前はすごいよな、こんな難しい本がすらすら読めるんだから」
「字を読むというよりも、もう頭の中に話が入っているから」
小さな頃から父にギリシャ文字を習い、ホメロスの詩を暗唱させられた私は、「イーリアス」も「オデッセウス」も完全に暗記していた。それでもアレキサンダーと二人、同じベッドに入って長い巻物を開き、一字一字確かめながら読んでいくのは至福の時であった。
「俺はアキレスのようになりたい。そうしたらお前はパトロクロスだ」
「僕はパトロクロスのように強くはない」
「今は弱くても今にきっと強くなる。俺のパトロクロスになってくれ、ヘファイスティオン」
本の一説を読み、そして口付けを交わして、裸になって抱き合うというのが、いつの間にか私達の寝る前の習慣になっていた。まだ体も心も子供の私達は本当に交わることはできなかったけど、それでも互いの体に触れ、まだ芽生えていないお互いの欲望を捜し求めながら、少しずつ手を触れ、体を絡ませて抱き合った。幼い私達はそれだけで充分幸せであった。
「ヘファイスティオン、愛している、どこにも行かないでくれ」
「僕はずっと君のそばにいるよ、アレキサンダー」
「約束だぞ」
「約束するよ」
私達は毎晩同じ約束を繰り返していた。
「ヘファイスティオン様、フィリッポス王がお呼びです。すぐに来てください」
12歳になったばかりのある日の夜、珍しく小姓が私を呼びに来た。彼のほうが年上だが、私にも様をつけて呼ぶ。彼だけではない。王宮で働く侍従や召使達もいつの間にか私に対してアレキサンダーと同じように様をつけて呼ぶようになっていた。私もそんな生活に慣れ、フィリッポス王が以前私にしたことも忘れかけていた。だが、こうして呼び出された瞬間、またあの時の恐怖が呼び起こされた。けれども王に呼び出された以上、ついていかないわけにはいかない。私は恐る恐るフィリッポス王の部屋に向かった。
「ヘファイスティオン、久しぶりだな。随分大きくなった。忙しくてなかなかお前やアレクサンドロスの顔も見られなかったが・・・」
「はい」
「戦いのさなかはそのことで手一杯だったが、ようやく終わって戻ってくると、やはり息子のことが気になる。アレクサンドロスは元気にしているか」
「はい、アレクサンドロス王子は病気一つせず、教練でも、ギリシャ語の勉強でも素晴らしい成果をあげています」
「勉強の成果が上がっているのはお前のおかげだろう。遠征先にいてもお前の評判は耳に届いた」
「ありがとうございます」
「少し、日に焼けたようだな、昔ほど色白ではない。だが以前よりいっそう美しさは増している」
フィリッポス王の手が私の頬に触れた瞬間、体がビクッと震えた。2年前の恐怖が再び蘇った。私は勇気を振り絞って話した。
「フィリッポス王、お願いです。どうか私の体にはこれ以上・・・アレクサンドロス王子は私を大切にしてくれ、私も王子に一生仕える覚悟でいます。ですからどうかお願いです・・・・」
私の言葉はフィリッポス王に激しく頬を打たれてかき消された。
「ヘファイスティオン、お前今誰に向かって口を利いている。マケドニア国王に向かって、自分は王子に仕えたいから手を触れるなだと!ふざけるな!王に対してそれだけの口を利くとは・・・お前だけではない、家族、親族、全員並べて見せしめに処刑してやる!」
フィリッポス王の顔色は見る見るうちに変わった。私は床に頭を何度もこすりつけ、泣きながら詫びた。
「お許しください。どうかそれだけは・・・・どんなことでもします。どうかお許しください」
「どんなことでもするか・・・・それならば今後アレクサンドロスのそばにいて、何か不穏な動きがあったらすぐに報告しろ。いいな」
「アレキサンダーがそんなことするわけありません」
「するか、しないかはわからない。お前はただ目にしたこと、耳に入れたことをそのまま報告すればよい。いいな。それができないのならば、すぐにでも家族、親族の者を捕らえ・・・」
「わかりました!何でも報告します。どうかそれだけはやめてください」
「そうか、ようやくわかったか、わかればよい。もっと近くに寄れ。よく顔を見せろ。お前はアレクサンドロスを愛しているのか。あれはまだ子供でまともにお前を愛したりはできないだろう。いずれお前達はそういう関係になる。そうなればアレクサンドロスはますますお前を信用し、お前にだけはなんでもしゃべってしまうだろう。だが今のお前を抱くのはアレクサンドロスではない。苦痛に耐え、他の者を思って涙をこらえているお前はまた一段と美しい。戦いに勝ち、戦利品として敵国の女を抱くのと同じだ。いやがればいやがるほど・・・」
私は何も言うことができなかった。少しの言葉、少しの行動が家族と親族の処刑という大変な事態を招いてしまう。何も話さず、何も動かず石のように固まってじっとしていた。やがて私の服は脱がされ、ベッドに運ばれて2年前と同じ行為が行われた。今はその行為の意味がわかりかけているのでいっそうの屈辱と痛みを感じた。激しい痛みと悲しさに泣き叫びながら、また同じように意識を失った。
目が覚めると前と同じように自分の部屋のベッドに寝かされていた。恐る恐る体に触ってみるが、2年前の時のように血は出ていない。まだズキズキ痛むが、前ほど酷くはなく歩くこともできそうだ。フィリッポス王の部屋に随分長くいたような気がするが、実際にはそれほど長い時間ではなかったらしく、窓の外を見るとほとんどの部屋に明かりがまだついていた。私は上着を着て、アレキサンダーの部屋に向かった。彼にフィリッポス王とのことを知られないためには、すぐに彼のそばに行ったほうがいいと判断したためである。思ったとおりアレキサンダーの部屋にも明かりがついていた。
「よかった、もどってきたか。一晩でもお前が側にいないと寂しい。もう仕事は終わったのか」
「うん、今日の手紙は数も少なかったし・・・」
「どうして父上は書記官を呼び出さないで、お前ばかり・・・・」
「大切な手紙だから他の人には読ませたくないって・・・僕は信用されているんだよ」
「そうか、それならいいが・・・なあ、ヘファイスティオン、この前の続きを読んでくれよ。俺一人だとうまく読めなくて・・・」
「いいよ」
私は巻物を広げ、アレキサンダーのベッドにもぐりこんだ。
「パトロクロスはアキレスの鎧と兜を身につけ・・・・・」
字がかすんで読めなくなった。私の声も震えている。
「どうした、ヘファイスティオン」
「パトロクロスは・・・・この時戦闘に出たから・・・・アキレスのふりをしてみんなをだまして・・・それで殺されてしまって・・・そんなことしたらいけなかったんだよ。どうしてわざわざそんなこと・・・アキレスが戦わなくてもいいじゃないか・・・アキレスを愛しているならそれだけで・・」
「ヘファイスティオン・・・・?」
「パトロクロスはアキレスを愛していた。ただ一緒にいられるだけで幸せだった。だましたり裏切ったりしてはいけなかったんだよ」
「ヘファイスティオン・・・・」
「ごめん、なんかこういろいろな気持ちが一度に湧き上がってしまって、どうしたらいいのか、なに言っているのかわからなくなってきた。
「ヘファイスティオン、俺も初めてこの話を聞いたときは泣きじゃくって、わけのわからないことを叫んでいたよ。わかるよ。お前が何をいいたいか。俺達はこのアキレスとパトロクロスのように同じ一つの心を持っているんだよ。同じ魂、同じ心、だから決して離れられない」
私達はまたいつの間にかいつもと同じように裸になって抱き合っていた。お互いがお互いを求める激しい気持ちを感じながらも、まだ交わることができない、そのもどかしさがいっそう欲望を掻き立てた。私もアレキサンダーも自らの言葉に興奮し、泣きながら体をぶつけあっていた。やがて激しい興奮が去り、少し落ち着いてから私は話した。
「やっぱり僕はパトロクロスにはなれない」
「どうして」
「君と僕とでは身分が違いすぎる。パトロクロスとアキレスは対等の身分だった」
対等の立場で愛し合えたパトロクロスがうらやましく妬ましい。私はもう決して同じ立場でアレキサンダーを愛することはできないのだから・・・
「身分なんて関係ない。俺はお前を誰よりも愛している」
「本当に?」
「本当だ」
もし、アレキサンダーが私とフィリッポス王の関係を知ってしまったら、私達の関係も終わりになるだろう。それがよくわかっていながら私は彼の体にしがみついた。少しでも長く彼のそばにいたい。それが私の願いの全てであった。
「もう少しこうしていてもいい」
「いいよ、ずっとこうしていよう」
抱き合ったまま眠りについた。少しでも長い間こうして一緒にいられることを祈りながら・・・・・
−つづくー
後書き
ヘファの純真な心と体を脅して弄ぶフィリッポス王、最低です。でもこの時代王はやさしさやモラルを守るということよりもとにかく強くて戦いに勝つということが、求められていたのでしょう。負けた国の人間は殺されたり、奴隷にされたりしますので・・・そして絶えず命を狙われ危険な目に合っている王様は人間性も歪んで、そうしたイジメみたいなことで欲望を発散させていたようにも思われます。
2006、2.15
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