譲れぬ夢(2)

俺の見る夢から色が消えたのは母の死を知った時からだ。俺が全寮制の聖ガブリエル学園に入ってから、母は病気がちになりそれまで美しく手入れされていた庭が荒れてきた。庭の手入れなど金を払って誰かにやってもらえばいいのに、父はそういうことに金をかけることなどまったく考えもしない人間であった。いや、国の偉い人間を招待するとなれば大急ぎで広い家や庭の隅々まで下男に掃除させるのであるが、そうでなければ母同様ほったらかされていた。俺は母からドイツ語を習った。ドイツ人である母は父や他の人間の前でドイツ語を話すことは決してないし、父は母の国の言葉など知ろうとはしない。感情を伴わぬスペイン語の会話だけがむなしく家に響いていた。

「ミヒャエル、私はもう長く生きられないかもしれない」

休暇で家に戻った時、母は俺にそう打ち上げた。ミケルと言う名はドイツ語でそう発音する。昔母からそう呼ばれていた記憶があるが、今その発音で呼ばれることは滅多にない。

「お前はお父様の正式な跡継ぎ、他にいくら女がいようと正式に結婚したのはこの私だけ。他の子は跡継ぎになれないわ。でももしお前が大人になる前に私が死んだら・・・」
「母さんが死ぬなんてそんな!」

12歳の俺は大きな目を見開いた。白いネグリジェが裾を引きずり、いつもはきちんと束ねている金色の長い髪は無造作に紐で縛られているだけだった。母は俺を抱きしめた。強い薬のにおいがする。

「ミヒャエル、私のかわいい子。お前の成長を見ることだけが私の喜びだった。でも私はもう長くは・・・あの人は・・・・」
「父さんは母さんを殺そうとしている、そうなんだね。そんなことは僕が絶対させやしない。すぐに学校をやめてこの家にずっといる。そうすれば父さんや他の誰かだって手を出せやしない。今すぐ話してくる」
「待ちなさい、ミケル。そんなことないの。きっと私の思い過ごしよね。最近気分がよくなくていつもたくさんの薬を飲んでいるからそのせいよ、きっと。心配しないでお前は明日学園に戻りなさい」
「いやだ!戻ったら父さんが母さんを・・・僕は知っている。父さんには他にも子供がいて、その子の方に財産を継がせたいと思っていること・・・」
「ミケル、なんてこと言うのです!」

母の手が俺の頬をピシャリと叩いた。

「ミヒャエルだ、僕の本当の名前は・・・母さん、もうこんな家にはいられない、一緒にドイツに逃げて暮らそう。僕が母さんを守るよ」
「いけません、ミケル。お前は学園を卒業して立派な人間になるのです。さあ、もう自分の部屋に戻りなさい。これだけは忘れないで、お父様の正式な跡継ぎになれるのはお前だけだということを・・・」
「跡継ぎなんてどうでもいい!」
「さあ、もう行って。寝る前の薬を持ってくる時間だわ。おやすみなさい」
「明日も会えるよね」
「何言っているの?当たり前じゃない。それともお休み前のキスがまだ欲しいの?」
「そんな子供じゃないさ。おやすみなさい」

俺は大きく首を振って母の部屋から飛び出した。それが生きている母を見た最後だった。





翌朝、食堂に母の姿はなかった。

「母さんは?」
「ああ、薬のせいで最近はいつもこうだ。病人がいれば仕事にも差しさわりが出てくる。あの顔色なら部屋に閉じこもっていてくれた方がありがたい」
「今日誰かお客さんが来るの?」
「いや、今日は特に予定はない。お前はどの科目も成績はいいが、集中力に欠けるところがあると先生がおっしゃっていた。余計なことは考えるな」
「母さんを起こしてくるよ」
「行くな!お前に心配させまいとしていたが、実はもうかなり・・・会わずに学校に戻りなさい。どうせ次のクリスマス休暇もすぐだ。もう母親が恋しい年でもないだろう」
「はい、わかりました」

父は何かを隠している、そう直感したので素直に頷いた。おそらく母は部屋にはいないだろう。かといって夜中にそう遠くへ行くわけもない。あてもなく草が伸び放題になっている庭を歩き回った。使っていない古い井戸の底にいた。体を窮屈そうに不自然に折り曲げ、体の半分が水につかっている。滑車を引っ張るとちょうど母の体がかかって上がってきた。全身の力をこめて体を引き上げる。手が痺れて痛い。水にぬれるとこんなにも重くなるのか。そして顔は・・・

「もう少し、もう少しで助けられる。後少しだよ・・・これでよくわかっただろう。一緒にドイツに逃げよう」

引き上げた母の体は冷たかった。昨晩と同じ白いネグリジェは水を含んで重い。手足は白くいくつもの黒いあざが見える。顔はどうなのか・・・・水の滴る髪をかきあげ、おそるおそる顔を見た。よかった、どこも傷はついてない。

「ミケル、こっちへ来なさい。今警察を呼んである。調べが終わるまで動かしてはならぬ」

大声が頭の上から響いた。

「父さん、母さんを助けて、今ならまだ間に合う!」
「気持ちはわかるが、もう遅い。いい子だから離れなさい」
「いやだ、どうしてこんな!母さんはきのう・・・・」
「病気を苦にしていたことは知っていたが、何もこんなことをしなくても・・・部屋に手紙が残っていた。お前宛だ」

父は白い封筒を目の前に出した。

「見せて!」
「お前に見せるわけにはいかない。わしには読めぬドイツ語だ。お前達はわしにわからぬ言葉で何をしゃべっていたのやら」
「貸して、僕の手紙だ」
「こんなものを読んだらますますお前は混乱してしまう。母親のことは早く忘れて勉強に励め」
「母さんは生きている。僕に何か言おうとして、早く見せて」
「わしには読めぬよう何を書いたのか・・・こんなもの!ドイツ生まれのあばずれ女め、こうしてやる!」

父は封に入った手紙を引き裂き、焚き火の上にハラハラと投げた。

「やめて!母さんの手紙」

熱い炎の中に手を入れようとしたが、その前に召使の男に体をしっかり押さえられていた。動かせる足で精一杯もがきながら、赤い炎の色を見た。母の最期の言葉、俺に伝えたかった言葉は黒こげになり、風に舞っている。

「この子は母親の死ですっかり気が動転している。部屋につれていき、後のことは医者に任せよう。わしは警察に話をしておく。なに、心配しなくても妻は病を苦にして井戸に飛び込んだだけだ。子供のためにももう少し生きてくれればよかったものを・・・警察が来た。ミケルを連れて行け」
「かしこまりました」

ご丁寧にも体の頑丈な男が3人も集まって俺を引きずるようにして運んだ。炎の赤い色が見える。だが周りの男達も父の顔も灰色にしか見えない。どうしたのだろう、空の色も庭の木もさっきまでとは色が違う。うすぼんやりとした中、灰色の木や草と日の影になった真っ黒の家が見える。そうか、これは夢の世界だ。夢ならば何も心配することはない・・・




                                    −つづくー





後書き
 「風の影」を元にしての話、2日前に書いたのを全部消してミケルの母が死んだ場面だけを想像して書いてみました。ミケルとフリアンは2人とも母がドイツ人とフランス人というように異邦人です。ヨーロッパの国で国際結婚は珍しくもないでしょうけど、それでも母が異邦人としてそして父に愛されずに暮らしていたということが2人に大きな影を落としたでしょう。さらにミケルの母は死んでいるのでなおいっそうトラウマも強く、でもトラウマを抱えているからこそ、強く結ばれたのだと思います。

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