擂鉢山の国旗掲揚は、報道部隊に
「ハッピーエンド」の印象をあたえましたが、
戦争は続き、
栗林中将のやりたい形でおこなわれました。
攻撃側は身をさらし、防御側は防御をかためていきました。
3月14日、ミニッツ提督は、硫黄島は制圧され、「その島々の日本帝国の統治権は
すべて、その結果停止される」と宣言しました。
2日後、ミニッツは、硫黄島は公式に確保され、日本の組織的な抵抗は終わった、と
言明しました。その日、
共同墓地の開所式が行われ、
「これは、いままでで最悪だ」と、
スミス将軍の目は、涙でいっぱいでした。
しかしそのときにもわずかに残った日本兵は抵抗をやめず、前線では死闘が続いていました。
この日から最高指揮官栗林が戦死して日本軍の組織的抵抗が終わる日までに、アメリカ軍はさらに2000人を超える死傷者を出しています。
「
われわれはまだ戦っている」と
3月22日に栗林中将は無電を打ちました。
「本官の指揮下にある兵力は現在約400名。戦車に攻撃されている。
敵はスピーカーで降伏を勧告しているが、わが将兵はこれを嘲笑している」
これが、
栗林中将の最後の急信で、彼の遺体は見つからなかったのでした。
松代眞田藩士の出(あの知将眞田昌幸の流れ)であった栗林、
国難に殉ずる武人の立派な死場所を求めていた栗林、(甥、栗林直の証言)
大きな役目を果たし、過酷な出来事の中からやっと解放された栗林でした。
これだけの役目を果たしたのに、戦後情報を伏せられたのは、
軍人に英雄がいては、戦後教育上良くないとのGHQダグラス・マッカーサーの
意向がはたらいたのかもしれません。
陸軍中将だった栗林は、硫黄島の功績によって、軍人では最高位の
「大将」に叙され、アメリカをもっとも苦しめた将軍として、日本でより
アメリカ国内でとても有名な軍人として名を残すことになりました。
裕仁昭和天皇より大将に任命された
本物の書状の写真です
このふたつの国に高い代償を支払わせた作戦行動には、栄光はなかったのでした。
2003年ブッシュ米大統領はイラク戦争終結を宣言した演説の中で
「(イラクでは)ノルマンディ作戦の大胆さと、硫黄島での高い勇気が示された」と
兵士たちを賞讃しました。半世紀以上の歳月を経てなお、
アメリカにとって硫黄島は
戦場における勇気と勝利の象徴であり続けています。
だからこそ
栗林は、「アメリカをもっとも苦しめた男」として、日本より
むしろ
アメリカで有名なのです。
硫黄島を含む小笠原諸島が戦後23年、アメリカ占領下にあり、遺骨や遺品は
遺族にとっては遠い存在となりました。
夫が硫黄島で戦死した時、
妻義井さんは40歳でした。
昭和30年代、長男太郎と嫁さん、三人の可愛い女の子の孫にかこまれ
中神の今の青梅街道上に、栗林のおばあちゃんとして、暮らしておりました。
近所に住むご年配の方は、今でも良く覚えているみたいです。
話に出てくるのが、当時の軍幹部の方たちや奥さんなどのすごい名前がでてきまして、
改めて歴史上のすごい人の奥さんだったと皆に感じられたことでしょう。
「散るぞ悲しき」硫黄島総指揮官・栗林忠道 著者 梯 久美子
発行所 株式会社 新潮社
1500円
硫黄島の星条旗 ジェイムズ・ブラッドリー・ロン・パワーズ 文春文庫
1000円
を参考にさせていただきました。
すばらしい本ですので、もっと知りたい方は、本屋さんに売っていますので、お買い上げください。
両脇は擂鉢山の今の風景
真ん中は、天山慰霊碑
硫黄島を訪れた日本人は、まず、この天山慰霊碑を参拝する習わしになっています。
立場として敵対しなければならなかった事に、戦争の悲しさがあります
平和の大切さを、この出来事から学びたいものです。