・金とは ― 金銭=【貨幣】 商品交換のなかだちとなり、物の価値の尺度、支払いの手段として社会に流通するもの
[ 旺文社・国語辞典より
]
・「金」と「物の価値」の対等性 ―
上記の辞書の定義より、「金」と「物の価値」は、本来対等である、あるべきものだと考えられる。
経済的な「ひとつの物事全体の金額」は、社会の中の位置や需給の強弱その他により変わるが、「ひとつの物事の中での、
金額のあり方」は「ひとつの物事の中での、それぞれの物事の価値を正当に表す、公正な尺度」であるのが本来の姿。
野球界においては、
ペナントレースの勝敗はすべてのチームで同じ表記をされ、順位が決定する。
↓
ペナントレース = ひとつの物事
であると考えられる。したがって、
ペナントレースの中で
チームの勝敗(成績) = チームの獲得価値
↓
チームに対して、価値に相応の金額を配分
||
各チームの成績の価値(物の価値の尺度)を、正しく野球界(現実の社会)に流通させる
事になる、と考えられる。
『補足』 ・・・ 「資本主義」という言葉について
話が、野球からまったく飛んでしまうようだが、「金」について考えたついでに「資本主義」という言葉について考えて、またその他
いろいろ考察を加え、それを野球にあてはめて考えてみたい。正当な論理かこじつけの屁理屈か、判断は読者におまかせする。
【資本主義】 生産手段の所有者である資本家が労働者をやとって商品を生産させ、それを販売して利潤を獲得する社会体制。
[ 旺文社・国語辞典より ]
経済には素人の、素朴な疑問として、なぜ 資本が主のように考える のだろう? 仕事が主 では、いけないのだろうか?
経済という言葉が、財貨を獲得利用する活動というように、金の面から物事や世の中を見ているのだと思われるが、それは正し
いとしてもなぜ 「社会体制の中で資本が主」 なのだろう? 結果としてそうなるとしても、考え方として 「世の中は仕事が主」 だ
とするのは、間違っているだろうか? なぜ、
「社会体制」として 資本家が労働者をやとって商品を生産させ、それを販売して利潤を獲得する
と、考えるのだろう? 本当にそうなのだろうか? 何も考えずに「資本主義」という 言葉を使っているだけ ではないのだろうか?
資本の面から 見るなら「世の中は資本主義である」かもしれないが、 仕事の面から 見るなら
資本は、仕事を行うための、ひとつの手段(道具)
ではなかろうか?
「資本主義」という言葉を調べてみて、単純に辞書の説明のみに限定するのは危険だろうが、仮に限定したならば、現実の人間
社会のあり方とは元々違っているとは言えないだろうか? 単に、私が単純すぎる考えに囚われているだけかもしれない。だが、
世の中の事は資本の面からだけ考えて説明がつく、そんな単純なものなのだろうか? 何かひとつを主にして、それで説明でき
るようなものなのだろうか? もっといろいろな要素が絡み合っているのではないのだろうか?
たとえば、 「人の世の事はすべて生物的現象である」 という考え方がある。この考え方に沿って考えるならば、
人の世の事は、論理的にきちんと定まっているのではない
↓
人の世の事をすべて「金という一元的なものを通して」推し量る
↓
その考え方に 元々 無理がある
と、なるだろう。
会社の営業や個人で商売をしている人々、上記の考え方を用いるなら「日々、生物的戦いを骨身に染みて実感している方々」、
にはかなりのご賛同を頂けるのではないかと思う。
さて、これらの考え方をいささか強引に結び付けるなら、「金」は生物圏である人間世界の仕事の業績を反映するもので、かつ生
物圏らしく必ずしも業績の価値を正しく反映しない、となるだろうか。
ものの価格が需要と供給の関係に大きく左右される(これは小学校か中学校で習った・・・ような記憶がある)ように、ひとつの仕
事の業績全体としての「額」は、人間社会のいろいろな要素を反映しており、人間社会に共通の価値観と一致するのはまれであ
ると言えるのではなかろうか。なぜなら、
すべての人間の価値観は、全く同じでは無いから
だと、私は考える。さらに、
世の中は、価値観に沿ってのみ動くものでは無い
のだと、私は考える。もうひとつ、
世の中は、突き詰めれば「価値観の問題」になるとしても、価値観で無い要素で動く事も多々ある
のではなかろうか。理想としては、
社会全体に、確立された共通の価値観があり、それに沿って金も流通している
べきだろうと思う。だが、現実はなかなかそうはいくまい。したがって、
ひとつの物事(ひとつの世界)の中では、その物事そのものの本来の価値に沿って価値体系が確立され、
確立された体系に沿って金が流通する
のが、 まずあるべき姿 だと私は考える。現実は、どの世界も まずあるべき姿 すら、あまり存在していないのではなかろうか。
さて、この考え方を「野球界」に当てはめるなら、
野球そのものの本来の価値に沿って、その価値体系を確立し、その体系に沿って金が流通する仕組み
が、 野球界としてのあるべき姿 であると考えられる。
この場合、誰がどう考えても、
野球そのものの本来の価値 ≠ 資本(金・企業・経営側など)
であろう。この上の行の意見に反対の方は、ぜひメールを送って頂きたい。
いかに元を探っていくのが私の性癖だとしても、資本主義まで行っては話を広げ過ぎかもしれないが、自分してはどうしてもこのよ
うな考え方になってしまい、今のところ正解だとしか思えない。読まれている方は、未熟な考えや抜けた所を見つけて、ご自分なり
の考え方を確立されるのが、より良いだろうと思う。
・価値とは − 人がその心の中で判断・承認する、ある事物の性質。経済的には、使用価値と交換価値に分けられる。
[ 旺文社・国語辞典より要約 ]
・野球の価値 − 社会の中では「娯楽」としての価値
選手たちの妙技、ひいきチームの勝利など
(現在では、単なる楽しみ以上のもの、感動すら受け取る事のある大きな価値が、社会の中で認められている)
野球界の中では
@勝敗・・・勝敗は「チーム」に付く。勝利の価値が敗北の価値よりも大きい。
A個人の活躍・・・チームに貢献、又はしていなくても。
B人気・長年の功労など
の順で価値が大きいと考えられる。
・野球の価値体系 ― 野球そのものの価値に沿って、体系を確立するべきである。現状は、勝敗による価値の分け方が確立され
ていない(ペナントレース勝敗という数字上の価値体系のみ存在し、金に換算されていない)と考えられる。
なお価値体系は、現状の問題点を解消もしくは減少するものであるべき。本来の姿になれば、当然そうなる
だろうと思われる。すぐにも実現可能であれば、なお良いであろう。