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35佐渡赤泊〜小木
8月2日16:00の入港36時間の航海であった、赤泊港は広く新漁業埠頭と漁協事務所も工事中の由、完成すれば外来艇は何処でも接岸できそうである、ま た寺泊との間に連絡船が就航しており更新されたばかりの真新しい快速船が接岸していた。自転車を下ろし買い物と温泉の所在を地元の人に尋ねたところ 港の近くの公共施設でも入浴できるが3キロ位北に向かったところに新しく出来た温泉があると聞いたので出かけたところ定休日でありガッカリ、折り返し港近く のふれあいセンター4階で港が一望できるお風呂で汗を流す事が出来た。
 
8月3日赤泊港を5:00出港予定であったが、やはりここまで来ると夜中も暑くて眼が覚めてしまった、時計を見ると1:00である、デッキに出ると星が瞬き心地よい風が吹いている、時間は早いが出てしまおうかと思い、新月で真っ暗闇のなかをグリンの灯台を頼りに港外に出て、発光ブイの定置網を交わし沖出ししたあ と能登半島に進路を向けたかつて訪れた事のある小木港や沢崎灯台を右手に見ながら進む、夜が明け晴天である、今日は暑くなりそうな気配がする、あのオホーツクでは寒くて早朝に吐く息も白く見えたのにこんなに違うものか、熱さもほどほどにと願った。能登半島禄鋼岬の山伏山が見えているがその先蛸島沖辺りからいつも向かい潮となり九十九湾までの距離が長く感じるのである、今回もおまけに南西の風でぎりぎりの上りであったが、真向かいに変わりジブセールを下ろし機走のみ、対地速度5ノットに落ちてしまった。それでも出発が早かったので13:00うだるような暑さの九十九湾係留地無事到着、1400マイル50日間35の寄港の旅は終わった。
  
 振り返れば、奥がましくも北前船寄港地探訪の旅と名を打って出発した旅であり、出来るだけ帆走を主体に北前船に近づこうと試みたが,如何せん、便利この上もない装備のヨットで甘やかされた船頭ではついつい文明の利器に頼りその目的を達成できなかった事を恥じなければならないとの思いである。

 金沢の豪商銭屋五兵衛は全盛期には全国34箇所に支店を設け168人の支配人や手代が在勤していたと言うから凄い、それだけ多くの支店や北前船を擁するにはもちろん何倍かの船頭やかこ(水夫)が必要になったと思う、その調達には、板子一枚下は地獄とのことわざがあるがごとく、海の恐ろしさを知っている近隣の漁師にはなり手がなく、海とは全くかかわりのない海の恐ろしさを知らない無垢な山手方面の人材を採用、水夫として鍛えたと言う話があるから興味深い(私もその方かな)又鎖国制度を執る幕府は、荒天にも耐えうる竜骨のある船の建造を禁止したため模型で見られるような、板を組み合わせた一枚帆の、風上に上れない極めて帆走性能の悪い船が主流を占めることになり、いにしえの船頭達の苦労が分かるような気がする。

 その頃のヨーロッパでは帆船ティークリッパー(紅茶を運ぶ船)ウイスキーボトルでおなじみのカティ−サーク号は、インド洋でスピ−ドを競い合い17ノット(時速 35キロメートル)で航行したそうですから比べ物にならない、しかし銭五の北前船は、日本だけに止まらず、ロシア、朝鮮、中国との密貿易を行いそのほか鹿児島の坊泊港を基地として密貿易をした、それは太平洋上で捕鯨船と接触貴重な品々を入手した、またオーストラリアタスマニア島に、「銭屋五兵衛御領地」と刻まれた石碑が建っていた、と言う話もある、しかし近年住宅造成され、事に気づいた新地主が破壊してしまったらしい、いずれにしろ北前船は太平洋に乗り出していた事は事実だと思い、勇気と運に生命を託し荒海に乗り出した先人達に敬意を表したい。
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金沢市金石町銭五公園に佇む「銭屋五兵衛」像
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おわり
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