下関〜隠岐〜金沢〜輪島〜九十九湾
 下関ではいつも山口漁連前の岸壁を利用させてもらっている、ここはとても便利がよく特に朝7時から漁連厚生施設の風呂が利用できありがたい、しかし動く整備工場ここではエンジンの発電機オルタネーターを分解して塩抜きをしなければならない清水クーラーから漏れた塩水が発電機に少しではあるがかかっている恐れがあるからだ、分解してみるとやはり塩の塊が付着しており分解して良かった。
 このところ天候があまり良くない北西の強風が3日連続吹いている天気予報を見ながら出航の機会を狙っていた、5月3日午後3時頃になると風は西に変わったようだしかし北からの波が残っている山口県角島をかわせば波も大きくなるだろう、と思うがそれも時間の経過とともに治まることを予想して16時出航した。
 響灘に入り早速曳き釣りの仕掛けを入れた30分もしないうちに鰆が釣れた、日本に入国する前石垣竹富島のところでカツオを釣ったきりだった、やはり日本海は魚が多いのか。
 角島を回るころ日は落ちてしまったが波風とも追い風に変わった、潮もそれほど悪くない艇速6ノット前後この先金沢迄350マイル一気に走ろうかと思った、今まで数回このレグを走ったことがあるが所要時間は2日と12時間前後を要する距離だ。
 深夜には意外と風も出てエンジンを止め帆走だけで5〜6ノットコタキナバルを出てから初めてのランニングである、しかし日本海独特の波長の短い波で快適とは言えない、左右にローリングするので結構疲れる、天気予報があまり良くない山陰東部と若狭湾に風警報が出た、急ぐ旅でもないので隠岐の島浦郷に入ることにした夜間入港であるが10年位前に一度入ったことがある、記憶をたどり入港したが北西の風が強くなり接岸に苦労したが午前零時ようやく着岸できた。
 午前中は休息したが午後自転車を下し散策に出かけた、連休最終日であるためか町はひっそりしている、十年前はもっと活気があつたようだ、そう言えば島の東側に橋が架かっているそのためフェリーが来なくなった、それで観光客も少なくなったようだ、一軒だけ開いていた小さな土産物店に入り事情を尋ねたところ観光客はすどうり商売は成り立たないと嘆いていた、高台のホテルで入浴が出来ると聞いていたので電話で問い合わせしたところ風呂は沸いていないと回答された、人通りも少なく過疎化の波がここにも押し寄せているようだ。
 漁港の西側には由良比女神社があるそこにイカ寄せの浜、昭和の初期頃まで年末になるとイカの大群が押し寄せイカ拾いをしたと言う名所である。
 5月6日午後4時島後西郷まで移動すれば状況が変わるだろうと思い出航した、4時間ぐらいの距離だ、隠岐の島に落ちる夕日しかし出港すると悪い癖入港が面倒になりそのまま金沢に向かってしまった。

ここで一句

  風なごみ
    沈む夕日に思うには
       流され帝の心ぞ見ゆる
 菜の花や(うなばらや)
   月は東に
       日は西に
  
          与謝蕪村

を思い出した
一方東には満月の月が昇り始めていた
 5月7日午後9時金沢港入港、隠岐の島から風こそ落ちたが潮が1,5ノット位の連れ潮順調に艇は進む184マイル36時間はと思っていたが29時間で来てしまった、入港前家に電話をしたところ孫たちが出迎えに行きたいと言っ出迎えてくれた。 金沢港はイカ釣りシーズンのため岸壁も空いていない翌朝6時輪島に向かった。
 この旅の出航の際輪島港では浸水騒ぎを起こした、お世話になった輪島ヨットクラブの方々のお礼の意味もあり帰港報告を兼ね立ち寄った、ところが別荘に招待されもてなしを受ける結果となりついつい話と酒がすすみ久しぶりの動かぬ床で熟睡で来た。
晩秋出発時の九十九湾
新緑の九十九湾に戻ってきた
 5月9日午後13時6ヵ月間5,880マイル(10,880km)の航海は終わった、特に鮮明な記憶は11月12月の季節風北東の風に乗り九州南端から奄美大島、座間味から石垣、台湾高雄からフイリピンスービック、プエルトガレラからスール海マレーシアクダットまでの間はすべて追手の風、胸のすくようなハイスピードセイリング思い出しただけでもヨットマンとし胸騒ぎを覚える。
 確かにヨット天国があったマレーシアステラハーバー本当に行った甲斐があった。このハーバーは居心地が良いので長期滞在者が多く空きが少ないと知人は言っていた、またフイリピンパラワン島周辺の島々エルニドまるで竜宮城を思わせる景観脳裏から離れない、そして台湾人の親日的振る舞いお世話になった方々に心よりお礼申し上げます。
 
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おわり