墓碑から見る砂村新三郎家の歴史(1 

内川新田の細川(現久里浜小学校付近)にあった砂村新三郎家墓地は戦前の海軍施設建設に伴って接収され、六地蔵や墓碑は正業寺に移された。一方砂村新四郎家の墓碑は元々正業寺境内の墓地にあったとされる。新三郎家が少し離れた野比の最光寺(浄土真宗)を菩提寺としており、新四郎家がすぐ近くの八幡の正業寺(浄土宗)を菩提寺としていたことから、そのようになったものと思われる。

 

正業寺に移された墓碑の中で最も有名なものは新左衛門(真悦)の墓碑である。それとほぼ同じ形の墓碑があって、これは内川新田を開発した初代新三郎(宗慶)のものと思われる。細川から移されたのは、そのほかに代々新四郎家と並んで名主を務めた新三郎家当主の墓碑、新三郎家傍系の墓碑であり、一部後に新三郎家を継いだ善六家関連の墓碑が含まれる。善六家は新三郎家に引き続き野比最光寺を菩提寺としたため、その墓碑は当初すべて新三郎家墓地にあったものと推定される。その後、明治時代になって善六家は浄土宗になった(二重檀家を解消した)ので、正業寺を唯一の菩提寺とするようになり、明治以降の (砂村)善六家あるいはその子孫、傍系の墓碑は正業寺の新三郎家墓碑群とは別の場所にいくつかある。砂村本家(善六家)の墓碑は近年建て直された新しいもので、新左衛門(真悦)、新三郎(宗慶)の墓碑を両脇に置いて建っている。しかし、その砂村本家も近年途絶えてしまって、この地で砂村家を正統に継ぐ家はなくなってしまった。

砂村新左衛門(真悦)は大坂に弟三郎兵衛(宗心)を残し、弟新右衛門(宗悦)のほかに新三郎(宗慶)、新四郎(宗徹)を率いて関東に進出したとされる。新三郎(宗慶)が三郎兵衛(宗心)の子であることはほぼ異論がないが、新四郎(宗徹)については誰の子か諸説がある。私は新三郎(宗慶)と新四郎(宗徹)は三郎兵衛(宗心)の腹違いの子ではないかとの推理(赤星直忠氏による家系図)を支持しているが、新四郎(宗徹)が新左衛門(真悦)の弟であるなどの説と同様に確証はない。ここでは、新四郎家より記録の多い新三郎家について考察を加えることとする。新三郎と名乗った人物は複数いて何代かに亘って継がれた名前だが、それぞれが混同されることも多いので、人物を特定する場合は法名を併記することとする。

 

新左衛門(真悦)は新三郎(宗慶)に内川新田(当初は三浦新田)の開発を、新四郎(宗徹)に砂村新田(当初は宝六島新畠)の開発を任せたと思われる。この開発最盛期には、新左衛門(真悦)は既に60歳前後の老年に達していたからである。彼らが最初から新三郎、新四郎と名乗っていたかどうかは不明である。三郎兵衛(宗心)の子供だから、新左衛門の「新」を取って新三郎(宗慶)としたとも理解できるが、大人になってからのことかもしれない。しかし新三郎(宗慶)の名前の由来は説明できても、新四郎(宗徹)の命名の根拠がはっきりしない。私は嫡子のいない新左衛門(真悦)が新田を継がせるために新三郎、新四郎と命名したのではないかと推定している。なんとなく兄弟らしい名前ではあるが、後になっての命名であれば兄弟とは限らず、彼らの血縁関係の推理はより不確かとなってくる。いずれにしても新四郎(宗徹)の生い立ちも含めて謎が残る。

正業寺にある新左衛門(真悦)と新三郎(宗慶)の墓碑は戦前に海軍が砂村家墓地等を接収した際に正業寺に移設されたものであるが、この墓碑はその形状や劣化の程度などから江戸時代後期に造られたものと推理されている。一方、大正期に書かれた久里浜志録には新左衛門(真悦)と新三郎(宗慶)の墓碑が浅草新堀端の善照寺に残っているとされている。善照寺は関東大震災または戦災のときに焼失し、墓碑の行方も不明となっている。おそらく廃棄されたものと思われる。久里浜志録の新左衛門墓碑に関する記述には「永照院という院号が刻まれている」とされていて、正業寺の墓碑(院号はない)とは別物であることを示している。また、新左衛門(真悦)の墓碑は善照寺から内川新田砂村家墓地に移設されたという説もあったが、久里浜志録の記述から判断するとそれは間違いで、少なくとも大正時代には両方(正業寺と善照寺に)存在したということになる。

 

善照寺の墓碑の院号(永照院)は新左衛門の150回遠忌にあたって贈られたという記録(最光寺の過去帳等)があって、後の世になって追刻されたものと思われる。なぜ江戸時代後期に内川新田に初代新三郎(宗慶)の墓が改めて作られ、なぜ初代新四郎(宗徹)の墓が作られなかったのかという疑問は残る。新三郎(宗慶)の正規の墓碑は浄土真宗善照寺にある。二代目以降の新四郎家が浄土宗であることは知られており、初代新四郎(宗徹)は既に浄土宗に改宗していたと見られる。しかし初代新四郎(宗徹)の江戸にあったと思われる菩提寺がどこなのかは不明であり、墓碑に関する記録もない。砂村新田でも明治まで砂村家(金四郎家)が続いていて、新四郎(宗徹)を先祖と仰いでいたので、どこか浄土宗の寺を菩提寺としていて、新四郎(宗徹)の墓碑がそこにあったものと思われる。

正業寺の墓碑は新四郎家が与兵衛家に、新三郎家が善六家に継がれた頃(江戸時代後期)、開発当初を偲んで、初期の開発者を顕彰しようとしたものと思われる。開発当事者である新左衛門と新三郎(宗慶)の墓が遠い江戸の地にあるのでは不便だったからであろう。従って、内川新田の開発には(あまり)従事しなかった新四郎(宗徹)の墓碑を作らなかったことには矛盾がないかもしれない。しかし、それ以外においてもほとんど新四郎(宗徹)の記録がないのは、生前になにやら不祥事ないしは縁を切るような事態が起きたとも推定される。墓碑と同時期に作られたと見られる両家の位牌もそれを物語っている。初代の名主である二代目新三郎(道詠)の位牌には初代新三郎(宗慶)の名が併記されているのに対し、同じく初代の名主である二代目新四郎(浄悦)の位牌には妻の戒名(貞悦)が併記されているのみなのである。

 

なお新左衛門(真悦)(寛文七年歿)の墓碑の側面には二人の弟新右衛門(宗悦)、三郎兵衛(宗心)の法名と没年(寛文八年と延宝二年)が刻まれている。新左衛門(真悦)の死の何年か前、一族の間に何かのトラブルが起きたらしい。遺訓の中にも「出入(訴訟)」があったことが記されている。どうやら新左衛門(真悦)はこのトラブルにうんざりして、あるいはお上の調停によって、開発当事者である初代新三郎(宗慶)、初代新四郎(宗徹)を隠居させ、その子らを養子として、砂村家をこの対等な二家に継がせたと思われるのである。

初代新三郎(宗慶)は妻(妙加)、子(宗円)を連れて大坂の父三郎兵衛(宗心)の許に戻った。そして二代目三郎兵衛を継いだとされる。これはどうやら大坂の名主の地位を継いだのではなく、隠居名として継いだものと思われる。二代目新三郎(道詠)の最光寺過去帳には「三代目三郎兵衛」とも記されている。この場合、大坂に行ったのではなく、内川新田で隠居名を継いだものと思われる。なお、後世の大坂の名主は太兵衛を名乗っているので、三郎兵衛(宗心)から大坂上福島の名主を継いだのは太兵衛家であったのかもしれない。

 

二代目新三郎(道詠)、新四郎(浄悦)の時代になっても両家のトラブルは収まらなかった。新左衛門の遺言が明確でなかったせいか、砂村新田、内川新田の両家持分について諍い(出入)が続き、代官所あるいは奉行所の裁き(調停)を受けることになってしまう。それは延宝五年、七年に相次いで解決を見ることになるが、「両新田の土地を両家できれいに二等分する」というものであった。「二等分」までは新左衛門(真悦)が言い残していて、具体的な配分方法だけが揉めたという見方もできる。

 

その時期の少し後であると思われるが、新四郎家が内川新田に移り、内川新田二組(一つの村に二人の名主)体制が確立した。この当時両家のあった場所(屋敷)は今の久里浜郵便局あたりで内川の入江に面していた(ここから今の平作川の川岸までは近代になって埋め立てられた)辺りと思われる。それは延宝年間の紛争時に作られた絵図に示されている。後にここは新四郎家を継いだ与兵衛家の屋敷になり、新三郎家を継いだ善六家はそこから天神社側(今のイオンの辺り)に屋敷を構えている。開発当初ここは畑であった。何代目かの新三郎家の時にここに移っていた可能性もあるが不明である

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