初代新三郎(宗慶)について
新三郎(宗慶)は新左衛門に連れられて関東にやってきた。それがいつの頃かは分からない。新左衛門は三国(越前)や上福島(摂津)に拠点を置いていた当時(内川新田や砂村新田の検地の十数年前)から、三浦にやってきていた形跡があるので、新三郎(宗慶)や新四郎(宗徹)もずいぶん古くから来ていたかもしれない。最初に砂村新田が検地を受けた万治二年、内川新田が検地を受けたとされる万治三年のしばらく前には、新三郎(宗慶)は内川新田に、新四郎(宗徹)は砂村新田に住み始めていたものと思われる。新左衛門は両新田のほかに吉田新田(当時は野毛新田)の開発にも携わっていたので、居を定めることなく各地を移動しながら工事を監督していたものと思われる。そして新左衛門は大坂から連れてきた久兵衛や文左衛門を新三郎(宗慶)の補佐役として内川新田近くに住まわせたのであった。中嶋久兵衛家(久兵衛およびその子孫)や梅澤文左衛門家(文左衛門およびその子孫)は番頭や手代として代々の新三郎家を補佐したと伝えられる。
一方の新四郎(宗徹)には新右衛門(宗悦)が砂村新田開発の補佐役として付き、万治年間には両新田の検地も成就し万々歳と思われたが、それとは裏腹に両家の諍いが激しくなっていった。諍いの原因はよく分からないが、お上の裁きを受けた結果、新三郎(宗慶)、新四郎(宗徹)も隠居することとなった。新左衛門の遺訓には単に「出入」としか記されておらず詳細は不明である。新四郎(宗徹)のその後はまったく不明であるが、新三郎(宗慶)は妻(妙加)を連れて大坂に戻って三郎兵衛を継いだ。延宝二年には初代三郎兵衛(宗心)が歿しているので、大坂に戻ったのはその少し前のことと思われる。しかし、新三郎(宗慶)は完全に大坂に移ったのではなさそうである。一つの証拠は墓碑が浅草善照寺にあったということにある。大坂にも墓碑は建てられたかもしれないが、浅草に墓碑があったということは江戸とのつながりが続いていたことを意味すると言えよう。もう一つの証拠は、延宝年間に起きた二代目新三郎(道詠)と二代目新四郎(浄悦)の間で起きた諍いに関連する文書に登場する「三郎兵衛」という名前である。初代三郎兵衛は諍いの解決する以前の延宝二年に亡くなっているので、この三郎兵衛は二代目すなわち初代新三郎(宗慶)のはずである。つまり新三郎(宗慶)は関東での契約や紛争にたびたび顔を出していたようなのである。また砂村新田の内割絵図には「三郎兵衛が砂村新田近くに屋敷地を所有していた」旨記されているのである。単なる投資かもしれないが、実際に住んでいた(別宅を持って妾を住まわせた)としてもおかしくはない。
両砂村家の出入に関連して三郎兵衛の名前が登場するということは、新三郎(宗慶)は隠居して三郎兵衛となった後にも、両砂村家の経営に影響を及ぼしていたというとなのであろう。新左衛門は吉田新田の開発に貢献したということで、その十分の一の権利を得ていたと思われる。吉田新田が完成して土地の権利が確定したときは三郎兵衛が権利を相続していたものと思われる。この時期初代の三郎兵衛(宗心)は存命中であったが、ずっと大坂にいた三郎兵衛(宗心)が吉田新田の権利を得るというのは理解しがたい。従って、このときには既に新三郎(宗慶)が二代目三郎兵衛となっていたと考えるほうが妥当であろう。また三郎兵衛を継いだことで大坂の名主になったわけではなく、隠居として継いだものと思われる。
新左衛門(真悦)存命中に起きた諍いで隠居を余儀なくされた新三郎(宗慶)と新四郎(宗徹)・・・問題を起こしたとはいえ、両新田の開発に報いるために何らかの財産分けを受けた結果ではなかろうか。しかし、一方の新四郎(宗徹)に何かが譲られたのかどうかはまったく不明である。状況からすると新四郎(宗徹)はその後登場することもなく、それは一族から離れざるを得ない事情があったのかもしれない。
二代目三郎兵衛を継いだ新三郎(宗慶)は延宝二年に大坂で亡くなり浅草善照寺に葬られた。大坂にも墓碑が建てられた可能性はあるが何も残っていない。江戸時代後期になって新三郎家が途絶えて善六家に、新四郎家が途絶えて与兵衛家に継がれたとき、新左衛門(真悦)と共に内川新田開発者として顕彰する意味だろうか、二人の墓碑が改めて建てられた。二人の墓は今正業寺に残るこの墓碑しかない。
新三郎(宗慶)の墓碑には妻(妙加)の歿年(正徳元年)が刻まれている。しかし正業寺過去帳にはその名がない。そして正業寺過去帳には別の妻(妙慶)と思われる名前が見られるのである。その妻(妙慶)は新三郎(宗慶)の死(元禄四年)の五年後元禄九年に亡くなっているが、「三郎兵衛妻」と説明されていて、新三郎(宗慶)の妻のことかどうかが不確かである。しかし初代三郎兵衛(宗心)の妻だとすると、結構長生きした夫よりさらに20年以上長生きしたことになり矛盾がある。やはり二代目三郎兵衛すなわち新三郎(宗慶)の妻だったのだろうか。あるいは江戸の妾だったのだろうか。
二代目新三郎(道詠)について
新三郎(宗慶)が大坂に戻るとき連れて行ったと思われる子(宗円)は一時新三郎を名乗ったという説もある(正業寺過去帳)。実質的な初代名主である新三郎(道詠)はその腹違いの兄弟であったかもしれない。どういう理由で新三郎(道詠)が初代名主つまり新左衛門の後継者に指名されたのかは分からない。ここでは二代目は新三郎(道詠)であるとしておく。(赤星氏の家系図によれば)新三郎(道詠)の母は妙加で、宗円の母は妙慶であるとされているが、特に矛盾はない。
新三郎(道詠)の墓碑の裏面には、当人の業績等が記されているが、跡を継いだときの経緯は記されていない。そこには内川新田と砂村新田において父祖(新左衛門)の土地を継いだと記されている。その父初代新三郎(宗慶)は内川新田の開発担当者であったにも関わらず、砂村新田の土地も相続している。これは二代目新四郎(浄悦)にも同様のことが言えよう。
二人の間には延宝年間までに両新田を巡る紛争(出入)が起きていて、延宝五年に砂村新田で延宝七年に内川新田で相次いで解決(関東郡代および走水奉行の裁許)されている。いずれもその土地のちょうど半分の権利を持ち合うというものであった。裁許結果を示す内割絵図には両者の所有地などが色分けして示されている。新左衛門が二人に平等に相続させるとは言い残していたが、具体的な(どの土地をどちらが所有するかという)線引きだけがもめたのかもしれない。その後新四郎(浄悦)は砂村新田を引き払って内川新田に移ったため、新三郎(道詠)と新四郎(浄悦)はいずれも内川新田の初代名主となり、内川新田は二組体制となって続いた。
また墓碑の裏面には「草創の不備を全う」したようなことが記されている。この業績が何を示しているのかも謎ではある。実は延宝年間の内川新田の内割絵図には川は一流のみが描かれている。それにも関わらず正徳年間の地図(新編相模国風土記稿)には三流(大川、吉井川、佐原川)が描かれている。ということは二代目の時代に水路の整備が行われたのかもしれない。初期の年貢帳には水浸しになって年貢を免除されていた土地の記録が毎年のように記録されている。つまり初期の頃は佐原川、吉井川の流れを最短で大川(今の平作川)に接続していたが、氾濫を制御しきれず、並行する三本の川にして土手を作り、下流側で合流させるようにしたのかもしれない。「草創の不備」とはこの水路の問題を指しているのであろうか。
もう一つ考えられるのは「村の寺」の問題である。新左衛門は内川新田開発以前に八幡村にあった正業寺を中興している。しかしこの中興は名ばかりのものであった。すなわち本堂もなく、住職もいない寺であった。元禄十一年には新三郎(道詠)と新四郎(浄悦)は共同で正業寺に本堂を建立し、鴻巣勝願寺から廓誉上人を住職として招いて再中興している。つまり「草創の不備を全う」とはこのことを指しているのかも知れない。浄土宗正業寺の名前などが記されていないのは、この墓碑の裏面に銘を刻んだのが浄土真宗野比最光寺の住職円誓上人だったからかもしれない。
新三郎家は浄土真宗であったので野比最光寺を菩提寺とした。しかし、新左衛門が浄土宗の正業寺を村の寺と定めたことから、両方の寺の檀家となったのである。その後代々に亘って、あるいはさらに善六家になってからもしばらく、「二重檀家」の状態が続いた。文久年間の村規定には「内川新田に住むものは他宗派であっても正業寺の檀家になる」よう定められていた。新三郎(道詠)は享保二年に69歳で歿した。最光寺過去帳には三代目三郎兵衛との記載もある。おそらく隠居に際して三郎兵衛を名乗ったと思われるが、大坂の家を継ぐという意味はなく、隠居名を継いだということに過ぎないであろう。妻(妙詠)は元文五年(夫の死後23年)の歿と墓碑に刻まれているのは、この墓碑が後世に作り直されたことを意味するのだろうか?。
三代目新三郎(道秀)について
二代目新三郎(道詠)には二人の嫡子(加操童子・了詮童子)がいたが跡を継ぐこともなく死んでしまった。その後、大坂にいた甥の道仲を引き取った後、自らの跡を継がせ三代目新三郎(道秀)とした。新三郎(道秀)は新三郎(宗慶)が大坂に連れ帰った子(宗円)の子であった。宗円は息子道仲を大坂の吉田家に養子として出していたが、後の新三郎(道秀)の生誕後間もなく(元禄二年)亡くなった。その妻(妙喜)も相次いで(元禄三年)亡くなってしまう。上記宗円に関する記述は私の仮説を多く含んでおり、確かなものではない。
幼くして両親を失った道仲は祖母すなわち新三郎(宗慶)の妻(妙加)に育てられた。そしてその後新三郎(道詠)に引き取られ、養子となって新三郎(道秀)となったのである。新三郎(道秀)は8人の子をもうけたとされ、享保十九年に47歳で亡くなった。その経緯は墓碑の裏面に記されている。これもやはり最光寺住職円誓上人によるもので本人の署名も刻まれている。
四代目新三郎(道陞)について
新三郎(道陞)は新三郎(道秀)の実子である。長子ではなく遅くなってからの子であったかもしれない。寛保二年28歳で跡取りのできないまま歿した。正業寺の新三郎(道陞)墓碑には郭照院道陞信士、信翁院宗傳信士、蓮生院華遊信女の三名が併記されている。宗傳・華遊は最光寺の過去帳によれば「善六の養祖父母」とされている。華遊は後の善六による砂村家再興に貢献し「砂村家中興の祖」とも呼ばれる婦人であった。新三郎(道陞)の妻は妙陞という法名だったらしいので、夫婦の墓碑は別にあったのかもしれない。そうすると今残っている墓碑は、中興の祖となった華遊、宗傳の夫婦がその足跡を遺すために新三郎(道陞)と連名の墓碑を後になって作ったものと思われるが、後述するように新三郎(道陞)との関係は謎である。因みに華遊は蓮生院という院号を生前に授与されている。
五代目新三郎(道卿)について
新三郎(道卿)は新四郎家の血筋から養子として迎えられたと伝わる。三代目新四郎(智向一得)の子(浄円)で江戸に育った泰助が内川新田に呼び寄せられ新三郎家を継いだ。新三郎(道卿)は江戸の漢学者服部南郭の門人で、砂言恭の名で知られていた。墓碑にも砂村新三郎言恭と記されている。新三郎(道陞)の死後約50年生きていたが、最光寺の過去帳には「新三郎隠居」と書かれていて、生前に六代目が継いでいたことがうかがわれる。墓碑に記される妻(妙海)は内川新田での最初の妻で、江戸の頃にも妻(妙流)がいた。後添え(妙誓・妙是)も先立っていった。一男二女があったらしいが、共に父に先立った。
六代目以降について
最光寺過去帳に「砂村中興の祖」と説明されている「善六養祖母」(華遊)は、過去帳の記述から計算すると1744年生まれで1817年に歿している。その夫と推定され「善六養祖父」と説明される男性は1730年代の生まれで1813年に歿している。五代目新三郎(道卿)は1792年に歿しているので、ちょうど六代目の頃に砂村家を再興したということで話はつながる。ところが四代目新三郎(道陞)は1742年に歿していて、華遊はその娘ではない(過去帳の記載の一月十七日に七十四歳で歿というのが七十五歳の間違いなら娘と考えてもよい)。新三郎(道陞)には成人した男子はいなかったので、夫の宗傳が倅であることは考えられない。華遊が1792年に歿した五代目新三郎(道卿)の娘であるなら四代目新三郎(道陞)と連名の墓碑があるのは矛盾する。若くして歿した四代目新三郎(道陞)と華遊は27歳しか離れていないので、「祖父と孫娘」という関係の可能性も薄い。「伯父と姪」という関係なら考えられるが、まったく縁戚関係にないことも含めて確信は持てない。
寛政九年(1797年)の山内家文書(宮井与兵衛家文書)には、この頃(六代目と思われる)新三郎が問題(多額の借金を残して行方不明)を起こして内川新田を出て行ったようなことが書かれている。この六代目新三郎の法名は残っていないので、その後戻ることはなかったと思われる。五代目新三郎(道卿)の死後10年が経過しているので、これが六代目新三郎であることは間違いなかろう。この不祥事に関する文書で「新三郎父市右衛門」という記述が見られる。このことは市右衛門の息子が誰か砂村血統の女に婿入りして新三郎を継いでいたことを意味する。
享和二年(1802年)の山内家文書には、彦右衛門という者と「新三郎相続人」あるいは「内川新田訴訟人善六」が新三郎の借金と質地請戻しに関して役所の裁定を求めている。どうやら善六が新三郎の借金を引き受けて内川新田の土地を請けて新三郎家を相続したように見える。
善六家には砂村家を再興するに相応しい財力があったはずだが、どうもその時の当主は間もなく亡くなってしまったらしい。この善六(二代目としておく)の父親宗傳(初代善六としておく)の妻が華遊であったと推理される。二代目には男子がいなかったので、娘に婿を取って善六を継がせることにしたが、まだ幼少であったためすぐには実現しなかった。そしてそれまでの間、華遊が善六家を取り仕切って砂村家として再興したのではなかろうか。華遊が砂村家血統の者であれば十分可能性がある。四代目新三郎(道陞)の墓に一緒に入っているということは、五代目新三郎(道卿)よりは近い関係、たとえば姪であったと思われる。孫娘に婿を取ったと言えるのは、最光寺過去帳で宗傳、華遊は「善六養祖父」「善六養祖母」と書かれているからである。これは孫娘に婿入りした男が善六を継いだことを意味する。
実は二代目善六と六代目新三郎は同一人物なのかもしれない。同世代であることは確かであるし、過去帳に善六養父、養母の記述がないこともそのことを伺わせる。もしそうだとすれば宗傳と華遊の娘に市右衛門の息子が婿入りし善六家を継いでいた(同時に新三郎家を相続した)ということになるが、明確な根拠は何もない。