墓碑から見る砂村新三郎家の歴史(3 
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新三郎家墓碑

 

新三郎(道詠)、新三郎(道秀)、新三郎(道陞)の墓碑にはその生い立ちや業績、死の前後のことなどが記されている。砂村家のほかの墓碑にはそのようなものは見当たらない。ちょうど砂村家の全盛期(衰退の前)だったということがあるのかもしれない。しかし最大の要因は菩提寺であった野比最光寺の円誓上人の存在であろう。円誓上人がこのような書(漢文)を得意とし、かなり長生きしたことから、三代にわたる新三郎家の当主の葬儀を執り行うことになったからであろう。ただし、はっきり円誓上人の署名があるのは新三郎(道秀)の墓碑のみであり、それ以外は最光寺の記録にある円誓上人の在任期間を参考に判断した。

 

墓碑はどの時点で建てられたのであろうか。当時は「家代々の墓」を作る習慣はあまりなく、個人を(妻や独立前に死んだ子などと共に)一つの墓に納めたとされる。また江戸時代の初期には庶民が墓碑を建てることはほとんどなく、富裕層であっても墓碑を建てるようになったのは江戸時代中期以降であると言われる。従って、この三代の墓碑が死の直後のものなのか、後世の子孫が先祖を偲んで建てたのかは不明である。葬儀の様子なども記述されているので一周忌法要の前などに作られたのかもしれない。新三郎(道詠)の墓碑には「樹碑銘」という言葉が見られ、暫定的に木製の碑を建てる習慣があったのかもしれない。

 

以下にそれぞれの墓碑に刻まれている文字を再現しておく。○で示したのは、まったく解読できなかった部分である。それ以外にも自信の持てない字が数%ある。また仏教的な用語も多く、これらを完全に理解することは難しい。

  

新三郎(宗慶)墓碑

正面;上部の「」、下部の「霊位」は二名(夫婦)の法名の間にある。

元禄四辛未年八月八日

 量好院宗慶信士 霊位

恵照院妙加比丘尼

正徳元辛卯十一月廿三日

右側面;

元禄三庚午年 

 隻信童女   不退位

六月廿日

左側面;上部の「」、下部の「不退位」は二名(夫婦)の法名の間にある。

元禄二己巳七月廿三日

釋 應發院宗信士  不退位

院妙喜信女

     元禄三庚午四月十五日

新三郎(道詠)墓碑
 正面;
    享保二丁酉八月晦日
  皆成院道詠居士 位
  浄心院釋妙詠信女
    元文五庚申十一月十二日
 右側面;
    元禄十一戊寅年
  法名  釋如槿童子 位
    六月廿三日
 左側面;
    元禄六癸酉年
  法名 釋了詮童子 位
       十月廿日
 裏面;
  先生姓砂村諱道詠諡皆成院矣於于相州三浦郡内川砂村新田及武州葛飾郡
  砂村新田而受於父祖之田它而守故業克慮克勤以全於艸創不備之大功焉可
  志述言者也乎寛仁而善愛衆不遷怒以臨不示人以農業時而自勤以事親
  矣嗟乎放閧曽之孝志二連之喪可謂至孝也乎時年六十有九享保二年丁酉秋
  八月晦日遭疾而終命焉嘗知皈于鸞師之教而得于機法不二之信矣至哉誠哉
  凡四方同好之人哀悼而靡所念矣嫡子  樹碑銘景行而以欲施成功於子
  孫焉宜哉
  銘日
   道詠  行孝施仁  業礎廣址  農事浸晨
   曽子跡  唯諾任親  有信友  以禮相馴
   慈譲忘怒  愛敬知人  畢命七十  嗟是天真
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